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■7-2.虚無に潜む女② 土蜘蛛

「――甘いぞ、龍真。これしきの炎で妾を灰にはできぬ!」


 火の中から声がした。目を開ければ、炎の中、女の頭が浮いていた。

 女は、顎が外れると思うほどに口を開いて。


「うがああああぁぁぁぁっ!」


 身の毛もよだつ慟哭(どうこく)であった。

 その叫びは空気を律動させて一帯に響き渡る。


 そして。

 ずるり――と頭の断面から、巨大な岩のようなものが這い出てくる。

 岩は芋虫の如く奇怪な丸みを帯びて、表面は産まれた家畜のように濡れ光っている。その岩石が蜘蛛の腹だと思い至ったのは、くびれの上部から生える、左右対となった都合八本の脚を認めたからである。先端に鉤爪のついた黒い脚は、各々が地面の感触を確かめるように(うごめ)いている。


 何だ、これは。一体何が起きたのだ――。


「何を呆けておる。云うたはずぞ」


 女の頭を生やした巨大蜘蛛が云った。


「妾は土蜘蛛じゃ。今の今まで何人(なんぴと)も喰らうてきた、畏れられる古の妖ぞ!」


 蜘蛛が前脚を動かし、橋板に落ちた妖刀を鉤爪で挟んだ。僅かに身を屈めたかと思うと、次の瞬間には俺の眼前に飛び掛かっていた。巨体からは想像もつかない俊敏な挙動であった。

 だが、避けた。俺を貫こうとする何本もの刺突を躱し、前脚から振り落とされた勢いだけの太刀をいなす。


「鳳仙。下がっていろ!」

「龍真。死んだら承知しないわよ」


 返事はしなかった。異形の化物を前に、一握の勝算も見出すことができなかったのだ。

 俺にあるのは、馨の形見となった一尺にも満たない短刀一振りだけである。

 この刃渡りでは、跳ばなくては攻撃が届かない。だが迂闊に接近しようものなら、俺の躰は複数の爪によって串刺しにされてしまうだろう。


 ただひとつだけ、縋るものがあるとすれば。

 つけいる隙があるとすれば。

 それは――。


 土蜘蛛が動いた。

 襲い来る鉤爪を叩き落とし、時には避けながら間合いを計る。

 俺も隙を見て短刀を振るうが、赤銅色の爪は鋼のように硬く、繊毛に覆われた脚も刃が通らない。重苦しい殺気を感じながら、どう攻めたものかと考える。

 短刀は既に刃が(こぼ)れ、まともに斬れてあと数回。俺自身の気力も限りはある。決着を急がなければ、嬲り殺しにされるだけである。


 それで、肝心の策だが――。

 再び、蜘蛛が身を沈ませる。

 蜘蛛が跳んだ。高さのある跳躍であった。宙空で、躰を縦に回転させて――。

 拙い、と思った時には、俺の躰は動いていた。素早く前方に潜り抜けて、蜘蛛の後方に回ると同時に轟音がした。

 蜘蛛が、巨体を橋板に打ち付けたのだ。

 塵が舞い、木片が飛散する。

 朱塗りの橋は、中央から抉れたように凹んでいる。


 ――今だ。


 俺が跳んだ時には、蜘蛛は既に身を起こしていた。

 女の頸を狙った一撃は妖刀で受け止められ、他の脚で背中から地面に叩き付けられる。鉤爪が文字通り八方から突き立てられようとするが、転がり抜ける。

 避け切れなかった二本の爪が右腿と左の脹脛(ふくらはぎ)を浅く抉ったようだが――まだ動ける。

 蜘蛛はここぞとばかりに追い打ちを掛ける。太刀のない方の前脚が振り落とされるが――。


 ――遅いッ。


 体を捌き、避けたところで鉤爪の付け根を斬り落とす。間髪入れずに間合いを詰め、返す刃でもう一本の脚も斬る。切断することは叶わなかったが、相手にとって痛手になった筈。

 刃の切れ味も皆無。剣術の理合も無視した力任せの一振りだった。

 更に仕掛けようとするが、今度は蜘蛛が跳び退いた。

 前脚で太刀を振り回し、女の頭が人ならぬ叫びを上げる。

 威嚇なのだろう。

 女の絶叫を無視して懐に飛び入る。

 蜘蛛は、脚先を斬られたことを警戒して、中々爪を繰り出せずにいるようだった。それでも振るわれた脚を次々と打ち落とし、怯んだところに跳び掛かる。

 左手で襲い来る脚を掴み、残りは全て叩き落とした。

 蜘蛛は俺の首めがけて太刀を薙ぐが、それすらも短刀で受け止める。

 そして――。


「おらぁァ!」


 女の頸を斬りつける。短い刀身は何とか届いてくれたが――浅い。皮一枚を切っただけで、両断するには至らない。俺は放り投げられ、身体を床に打ち付けられた。

 すぐに跳ね起き、蜘蛛を睨む。

 女も俺を睨んでいた。


 ――千載一遇の機会だったが、仕留められなかったか。


 まあ良い。機会は作るものだ。昔を思い出せ。人ならぬ化物だからとて気圧されることはない。寧ろ、人間と姿形が違うからこそ卸しやすいというものだ。死んでいった輩達の仇をもう一度討てることを、馨の無念を晴らせる機会を得たことを喜ばねばならぬのだ。


「おのれおのれおのれおのれっ! 人間風情がよくも妾を斬ってくれたな!」


 蜘蛛が吠えた。地団駄を踏むように腹部を何度も床へ打ち付ける。

 腹の先端から何かが溢れ出るのが、蜘蛛の躰越しに見えた。粘膜のように白く光る液体は、橋板に浸食するかの如く広がっていく。


 あれは――糸である。


 後方に飛び退いた蜘蛛は、白い水溜まりに脚を突っ込んだ。


「土蜘蛛を舐めるでないわ!」


 蜘蛛が脚を振るった。脚の先端から放たれた白い糸は、俺の襟首に命中する。

 次の瞬間には、凄まじい怪力に引き摺られ、蜘蛛の元に転がっていた。


 ――不覚。


 蜘蛛は、仰向けに倒れた俺を見下し、妖刀を振り上げる。

 俺を貫こうとした妖刀は、月原によって弾かれる。


「起きろ、日影殿!」


 叫んだ月原は、一歩踏み込むと蜘蛛の胴体を切り付けた。

 渾身の剣は、岩の如し躰を切り裂き、傷口から大量の黒い血が噴き出すが――。


 じゅっ、と膚の()ける音がした。

 怯んだのは月原であった。

 相対する蜘蛛は、まるで最初から痛覚などないというように余裕の笑みさえ浮かべ、膝を突いた月原を蹴り飛ばす。月原の躰は、欄干に激突することで落下を免れたが、その端正な顔の左半分が石榴色(ざくろいろ)(ただ)れ、頬骨が剥き出しになっている。

 月原はそれでも立ち上がろうとするが――今度こそ、もう戦えないだろう。


「妾の血に触れたのだ。こうなるのが当然よ」


 月原に一瞥をくれた蜘蛛が呟くように云った。


「妾の血を浴びて、痒いと云ってのけたのは、後にも先にもお主だけだろうよ。だが、のう」


 そこで、蜘蛛は、糸を捻じ切って抜け出した俺を見る。


「加護を寄越した娘は消し炭になった。今のお主を守るものなど、何ひとつもありやしない。妾を斬ろうとするのはいいが、返り血に塗れたお主は果たして無事でいられるかな」

「……」

「脚を切られたことには驚いたが――お主に勝てる見込みなどあるまい。あの時、妾が負けたのは、お主に不死身の加護があったからぞ。だが、念には念をいれんとなあ」


 反転した蜘蛛が糸を放った。

 鳳仙を引き寄せると、数多の脚で地に組み伏せてしまう。


「鳳仙っ!」


 鳳仙の首筋に妖刀が添えられ、俺と月原の動きが止まる。


「そうだ。此奴(こいつ)が大切なら動くでない」

「土蜘蛛。貴様には誇りがないのか。これは俺と貴様の因縁に決着をつける勝負だった筈。その女は関係ない。貴様は俺の首が欲しているのだろう」

「そうとも。妾はお主の首が欲しい。ゆえにこうしているのだ」

「この腐れ外道が――」

「解せぬな。お主は、己の為なら屍をいくらでも積み上げる阿修羅だったじゃないか。お主の悪党振りは、いまさら綺麗事を並べ立てたところで取り繕えるものか」


 それに外道とは心外ぞ、と土蜘蛛はさも愉快そうに云う。


「妾は、お主に花を持たせようとしておるのだ。分からぬか? 勝負とは云うが――残念だが、今のお主では逆立ちしても妾には勝てぬ。手足の先から寸刻みにして、じっくり甚振(いたぶ)ろうとも考えたが――却って妾の気が収まらぬ。かつて首を持っていかれた阿修羅が斯様に弱くては妾の沽券に関わるのだ。だが――」


 そこで蜘蛛は一度言葉を切り、舌舐めずりをしてみせる。


「人間というものに固執して、女の為に命を差し出すというならまだ納得のしようはある。どうじゃ、いかにも脆弱な人間が好みそうな筋書きだろうて」

「……俺に、死に様を選べというのか」


 蜘蛛は、分かっているじゃないか、と満面の笑みで頷いた。


「無理強いはせぬ。己が修羅の道を歩むというならば、この女を見殺しにすればいい。今一度妾と死合おうぞ。なに、お主が今まで転がしてきた骸の山のてっぺんに、妖怪がひとり添えられるだけじゃ。人を斬るしか能のないお主にとっては、却って名誉なことだろう。しかし、己を人間と云い張るのならば――女の命と引き換えにその首を差し出すのだ」


 どうせ結末は同じことになってしまうがな、と土蜘蛛は云った。


「貴様――」

「何をそんなに怒っておる。情けをかけてやっているのだ」

「貴様のそれは情けではない。侮辱だ」

「お主がどう思うかなど聞いておらぬ。さァ、どうする」


 そうなのだ。

 俺は、決めかねているのだ。

 無論、鳳仙の命は何にも代えがたい。だが、土蜘蛛の云う通り反撃を封じられているのも事実である。


「何を迷ってるの。考えるまでもないことでしょう」


 鳳仙が呻いた。拘束から抜け出そうと足掻くが、蜘蛛は鳳仙を固く掴んで放さない。


「この私に恥をかかせないで頂戴。貴方はこんなところで死んでは駄目。折角、虚無を肯定すると決めたのでしょう。だったら最後まで戦いなさい。己の命を投げ出すなんて愚かな真似をしたら赦さない」

「戦うとは面白いことを云う」


 土蜘蛛は鳳仙に云った。


「どのみち、龍真は死ぬのじゃ。ならば地獄への餞として、死に様くらいは選ばせてやるべきだ。そなたも、妾と同じ永きを生きる妖だろう。否、格というなら妾以上じゃ。かつて死合った者に、気高い死を贈りたくなるものだろうに。この男の為と云うなら、ここは潔く死なせてやるべきだ」

「潔く死なせるのが龍真のため? それは違う。気高くあろうとするのは頷けるけど、その気高さは、生きることが尊いところから来るの。己の思うがまま生きることが尊いのよ。気高い死なんてあるわけがない。そんなものは、虚無に打ちのめされて、厭世に呑まれた惨めな生き方でしかない。龍真にそんな真似させるくらいなら、私はこのまま死んだっていいわ」


 鳳仙は微笑する。虚勢でも諦念でもない、窮地に陥ったこの状況にはそぐわない、どこまでも自信に満ちた表情であった。


「詭弁を云うでない。いかに理屈を捏ねようとも、妾が龍真を殺すことに変わりない。そなたの説く道は――そなたがどこまでも強いから云えることじゃ。弱い人間どもが、そなたの云うことを理解して、実践できるかなんて分かったものじゃない」


 そなたは人間を分かっておらんのだ、と土蜘蛛は切り捨てる。


「寧ろ、思うがまま生きることを都合のいいように解釈して、悪行の限りを尽くそうとする愚か者がいないともいえないだろう。そなたの説法には瑕がある」

「好きなように云ってなさい。でも、龍真は強い――いいえ、人間は皆強いものよ。あなたのような妖には絶対に負けない」

「ふん。人間は(すべから)く脆いものじゃ」


 土蜘蛛はそこで俺に向き直る。

 漸く、覚悟が決まった。鳳仙の言葉が、在り方が、俺の背を押したのだ。


「待たせたのう。――肚は決まったか」

「この首でよければくれてやる。その代わり、他の者に手を出さず、供を連れてさっさと引き揚げることだ」

「いいだろう。この土蜘蛛の名にかけて、誓いを守ろうではないか」


 太刀を掴んだ脚が、天高く掲げられる。


「龍真、何を云ってるの! 土蜘蛛、その男に手を出したら赦さないわ!」

「日影殿、それはならん! 退くのだ。今は退いて次を待つのだ! 死んでは何にもならぬ」


 鳳仙と月原が叫ぶ。


「ほれ、龍真。近う寄れ。そこでは届かぬ」


 土蜘蛛が器用に鉤爪で手招きをする。

 真正面に立ってやる。

 土蜘蛛の首は、跳べば届く高さにある。


「お主ともこれで終いとなるのが惜しいが――云うても詮なきこと。辞世があるなら聞くぞ」

「そんなものはない。やれ」

「あの世で誇ることだ。己は土蜘蛛という大妖にやられた、とな」

「そうすることにしよう。然らば、土蜘蛛」


 妖刀が薙ぎ払われた。刃は、俺の頸を切り落とす皮一枚のところで止められていた。


「何故じゃ。何故斬れん――」


 驚いたのは土蜘蛛であった。前脚を振り抜こうとした姿勢のまま絶句している。


「貴様には分かるまい。これが人間の尊さというものだ」

「――何だと。お主、まさか」


 土蜘蛛の目が驚愕に見開かれる。それが最期の表情であった。

 その場で跳躍して土蜘蛛の頭上で身を(ひるがえ)し――今度こそ首を()ね飛ばす。

 最後の抵抗か、断面から黒い血が噴き出す。


「鳳仙! 血のかからない処まで退け」

「それには及ばないわ――」


 着地すると同時に、蜘蛛の巨躯が青白い炎に包まれる。立ち上がった鳳仙は、獣の耳に黄金の尻尾を生やして――九尾の狐に姿を変えていた。

 古の妖狐は、足下に転がった女の頭を拾い上げて。


「だから云ったじゃないの」


 と呟いた。云い終わらぬうちに土蜘蛛の頭は炎に呑まれ、瞬く間に灰となり、風に揉まれて消えていった。九尾にしか扱えぬ、この世ならざる火炎である。

 浄化の炎は暫く燃えていたが――蜘蛛を溶かし尽くすと消えてしまった。

 残ったのは、煤に塗れた妖刀だけである。

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