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■7-3.虚無に潜む女③ 虚無の境地

「鳳仙。無事だったか」

「……御蔭様で」

「何だその目は。何を不貞腐れている」

「なぜ避けなかったの?」


 鳳仙が俺を睨み付ける。


「何の話だ」

「惚けるのは止して。土蜘蛛が貴方の首を切ろうとしたことよ。貴方、棒立ちだったのよ」

「……それがどうした」

「死ぬつもりだったのでしょう」


 鳳仙が云った。俺を見透かさんとばかりに青水晶の双眸が俺を見据えている。

 そうなのだ。

 手持ちの武器には頼れず、勝機などひとつしか残されていなかった。上手くいけば良し。上手くいかなければ死ぬ。ただそれだけであった。攻撃を躱す必要がなかったのだ。

 だが、それは土蜘蛛に首を差し出すことと同義であり、生きて戦えと望んだ鳳仙の意を蔑ろにすることである。俺を信じた鳳仙の信頼を踏み躙ることである。


「――いや、死んでもいいと腹を括っただけだ。ただで死んでやるつもりはなかった」

「そんなものは詭弁よ」


 鳳仙が、焼け残った長太刀を拾う。


「この太刀が貴方を切れなかったのは、馨さんのおかげでしょう?」

「ああ。その通りだ」


 懐から、古びた一枚の護符を取り出す。


「こいつだけは、俺が馨を殺した罪の証として、肌身離さず持っていたのだ。尤も、最初から効果があると踏んでいた訳ではなかったがな」


 寧ろ、馨の最期を思えば、俺を護るなどもっての外であり、呪い殺されても文句は無かった。

 否、いつかこれが呪符に変わり、死を齎してくれることすら期待していたのだ。


「驚いた。馨さんがそれを渡したのは昔のことでしょう。そんなに効力が続くなんて普通なら有り得ない。それに――まだ残っている」

「残っている、とは」

「護符なんてものは大概、一度きりのものよ。力を使い果たせば、それでお終い。あとは千切れて塵芥になるか、燃え尽きてしまうだけだもの」

「こいつは、俺が馨を思っている限り――俺の信義を糧に、力を発揮するものらしい。そのように馨は云っていた。昔のことだからどうにも曖昧だが」

「なるほど。馨さんではなく、あなたの信義、ね」


 そこが味噌になっていたのね、と鳳仙は訳知り顔で頷いた。


「……やはり、お前も、独り善がりな恋慕だと笑うか。俺自身、自分で殺した女を思い続けるなど身勝手極まりないと自覚はしているのだ」

「思わないわよ、そんなこと。誰かを信じて強くなれるなら、とてもいいことじゃない」

「いいことか」

「加護が発動するという確証はあったの?」

「いや、そんなものはない。故に――賭けだったのだ」

「呆れた」


 鳳仙はそこで横を向いた。

 何となしに俯けば、馨の屍も、土蜘蛛の首も、跡形もなく消えていた。骨はおろか灰すらも残っていない。まるで、最初から何も存在していなかったのようである。


 全て、終わってしまったのだ。

 俺の心に居座り続けた女達は、どこかに遠い処に行ってしまったのだ。

 確固たる信念を砕かれ、仕えるべき主君も率いるべき配下も喪った己であるが、今度こそ本当に全てを失ったように思えた。己を責め苛む罪の意識すらも。

 これが、鳳仙の云うところの、大いなる正午という状態なのだろうか。

 いや、まだだ。

 まだ馨のくれた護符が残っている。俺はまだ虚無に辿り着いていないのだ。


「鳳仙。こいつも頼む」


 護符を差し出せば、鳳仙は神妙な顔で受け取る。


「……いいの? こんな上等なもの、中々御目にかかれないわよ」

「もう、いいのだ。俺にはもう、必要のないものだ」


 根拠はないが――俺がどれだけ馨を思っても、もう二度とこの護符は力を貸してくれないだろう。俺も、こいつも、(ぬけがら)になってしまったのだ。

 鳳仙は暫く護符を見詰めていたが、それ以上は何も云わずに燃やしてくれた。


「これで、お主の因縁は片が付いた訳だな」


 月原がやって来る。顔半分の皮膚が溶かされ、その姿は無残であった。


「お前、大丈夫なのか」

「自分では見えぬから分からぬが、中々に酷い面をしているようだな」


 月原は自嘲するように云うと、まだまだ精進が足らぬようだ、と零した。


「酷くなんてないわ。立派な傷だけど――放っておくと死んでしまうから治してあげるわ」


 今回だけは特別よ、と云って鳳仙は月原の頬に手を添える。


「御狐様。これは――」


 鳳仙の掌から眩い光が発せられる。鳳仙が撫でた箇所は、みるみるうちに肉が盛り上がり、皮に覆われ――傷跡を消し去ってしまった。

 陽光の如し暖かな光は、妖力の類ではない。あれはおそらく。


「流石、九尾はやることが違うと云ってやりたいところだが――今のは妖術ではないな。それよりもっと凄い――命のそのものか」

「御明察。私の活力を分け与えているの。寿命とでも云えばいいのかしら。私が持っていても余すだけだし、別に十年くらい早死にしたって構いやしないもの」

「御狐様。寿命とはいただけんな。傷は塞がったのだろう」


 ならばもういい、と月原は振り払おうとするが、鳳仙はそれでも放さない。

 諸手で月原の顔を挟んだまま。


「鳳仙よ」


 と云った。


「今の私は鳳仙と名乗っているの。そう呼んで頂戴」

「承知した」


 月原の手がだらりと下げられる。


「大人しくしていなさい。妖怪の血は人にとって悪疫(あくえき)なの。祓うには時間がかかるわ」


 鳳仙の掌から光が失せたと思った時、鳳仙は人間の姿に戻っていた。大きく嘆息して、酷く消耗した様子だった。


「やっぱり無理なんてするものじゃないわ。龍真が死んでしまうと思ったから九尾になってあげたけど――もう駄目ね。当分は力が出せないわ」

「鳳仙。胸の傷はもういいのか」

「大丈夫よ。貴方が思うより、妖怪というものはしぶといものよ」

「そうか。ならいい」

「ならいいって、もう少し心配してくれてもいいんじゃないかしら」

「誰が九尾の心配なぞするものか」


 俺と鳳仙の遣り取りが収まったのを見て、月原が橋の中央に歩み出る。


「日影殿。もういいだろうか」

「待たせたな、月原」


 俺も月原の前に立つ。


「麟之助? あなた、まさか」

「鳳仙殿は黙っていてくれ。治してくれたことは感謝してもしきれないが――これは別の話だ。日影殿との勝負に水を差した馬鹿を退治したまでに過ぎんのだ。それが済めば、私と日影殿は、あなたをめぐって――否、ひとりの武人として死合っていたのだ。そうだろう、日影殿」

「相違ない。だが、よく見ろ。お前の剣は(なまくら)だ。それでもやるというのか」


 月原が手にする刀は、土蜘蛛を斬ったことで赤錆だらけであった。一振りしただけで根元から折れてしまいそうであり、鞘に収めることすらできないだろう。


「此方としても、加勢してくれたお前とやるのは気が引けるのだ。それに」


 鳳仙を見れば、渡してなるものかと云わんばかりに、妖刀を抱くように持っている。


「俺の得物は大妖怪に盗られてしまった。これを奪う方が難しい」

「なるほど。ならば、致し方ない」


 月原は微笑した。


「だが、俺は役目を果たさねばならぬ。鳳仙殿、俺と共に都に来るのだ」

「あなた、まだ云うのね」

「何度だって云うさ。時に鳳仙殿。かつて都にいた頃、とある本を書いて――その中で語ったな。この世は虚無である。かくあるべき標など他の誰かが説いたものでしかない。虚無を克服して、思うままに生きるべき――と」

「随分昔のことを持ち出すのね」

「それが問題なのだ」

「……どういうこと?」


 鳳仙は首を傾げた。


「あれは、この世に生きる全ての人間へ、私の叡智を授けるために書いたものよ。問題なんてなにひとつありやしないわ」

「ところがそうでもないのだ。今、都が荒れていることは知っているか」


 月原が訊いた。


「噂にはね。なんでも、賊が出で反乱が起きたりということくらいはね。今はどうにか落ち着いたとは聞いてるけど、それが私とどう関わってくるの?」

「土蜘蛛も云ったことだ。あの本は――毒だ」 

「毒?」


 然様、と頷いた月原は続ける。


「高貴さに誇りを見出せぬ者にとって――虚無であることに耐えられない者にとって、己を狂わせる毒となるのだ。鳳仙殿の説法は、悪しき者達によって曲解され、反乱の道具に成り果てたのだ。詰まるところ、道徳まで無意味と切り捨てた結果――『(しか)らば、朝廷に(ひざまず)くのも無意味。我々を縛る者など壊してしまえ。それが力への意志だ』という者が後を絶たぬのだ」

「――そう。あなた達が困っているのは私が蒔いた種だと云いたいのね」

「あくまで遠因だ。元はといえば、真意を正しく汲めぬ愚か者と、それを利用する悪党共のせいなのだが――詮なきことだな。鳳仙殿には、その愚かな連中に、虚無を超える術を正しく説いて欲しいのだ。俺が求めるのはそれだけだ。都に住む民の安寧のためでもある」


 いかがだろうか、と月原は返答を促す。鳳仙は逡巡した後、そんなことでいいの、と云った。


「あの方にもう一度仕えろとか、逆賊を鏖殺(おうさつ)しろなんて云われると思っていたわ。あの人は、私を傍に置きたがっていたのではなかったの?」

「慥かにあの御方は、過去に逃げられた九尾を今も求めているが――そいつとあなたは違う。そうだろう、鳳仙殿」

「……麟之助。あなたはそれでいいの?」

「無論だ。あなたは思うままに生きたいがため都を飛び出したのだろう。そんなあなたに教えを請うのだ。それならば、俺はその生き方を尊重してやるのが筋というものだ。それに」


 考える素振りをみせてから月原は云う。


「あの御方に、女に溺れられても困るのだ。この国の為、民草の為の(まつりごと)をしてもらいたいのだ。俺としても、鳳仙殿が誰かのものになるのを見たくない」 

「とんだ忠臣もいたものね」


 鳳仙は笑った。


「都に戻ってあげてもいいけれど――ひとつ、条件があるわ」

「条件とは」

「龍真も一緒がいいわ。それが守れないなら、この話はなしよ」

「日影殿も、か」


 月原は思案顔になる。鳳仙の言葉は意外であった。


「鳳仙、どういうつもりだ」

「どういうつもりも何も、私が貴方といたいからよ。貴方だって都にいたほうが退屈はしないでしょう。そうでしょう、麟之助」

「慥かに、日影殿がいれば賊魁討伐も楽にはなろうが」


 月原は難色を示す。


「止せよ。俺は主君を殺した悪人だ。そんな奴が、今更、正義面(せいぎづら)をして誰かの為に働けるものか。俺は未だにその罪で追いかけ回されているのだ。お前と共には行けんよ」

「そんなの、都の守護に比べたら些事でしかないわ」

「そういうことではない。俺自身が、我慢ならぬのだ。それに――辺りを見回してみろ」


 何時の間にか、一条戻橋は武装した男達に囲われていた。人数にしておよそ百に届こうかという軍勢であり、川面には弓兵を乗せた小舟が何艘も浮いている。


「誰かさんが結界も張らずに尻尾を出すからこんなに寄ってきたんじゃないのか」

「私のせいにするの? そんな余裕なんてなかったし、そもそもあの蜘蛛のせいでしょう」


 鳳仙から妖刀を掠め取ると、陣笠を被った役人らしき男がやって来る。

 厳めしい顔をして俺だけを睨んでいることから察するに――土蜘蛛退治の感謝を述べに来た訳ではないらしい。標的は俺だ。俺の素性を知って捕らえようというのだ。


 ――否、そんな生易しい話ではない。


 連中は俺を殺しに来たのだ。

 案の定、陣笠が佩いていた刀を抜くのを皮切りに、男達が一斉に己の得物を構える。

 大小様々な刀、槍に薙刀、弓に鎖鎌――未だ燃え続ける宿場町を背景に、数多の凶器が掲げられる様は壮観ですらあった。


「神妙にせい。貴様が日影龍真であることは分かっておる。貴様が主君を殺したことも、仇討ちにやって来た家臣を返り討ちにしたことも――貴様がこの街に大蜘蛛を呼び寄せ、斯様な大火を招いたこともな」

「まるで見てきたように云うのだな」

「事実、見てもいたし聞いてもいた。貴様らは戦いに夢中で気付かなかったようだがな」

「俺にも、とうとう年貢(ねんぐ)の納め時が来たということか」

「抗うだけ無駄ぞ。貴様は途方もない災厄を齎したのだ。あの蜘蛛を討ったことは慥かに褒められるべきことやもしれぬが――貴様が此処にいなければよかっただけのこと。そこの二人も、まとめて消してしまえ!」


 陣笠の一喝と共に、軍勢がじりじりと躙り寄る――。

 見ただけで分かった。陣笠も、その配下も、皆鍛え上げられた立派な兵である。俺ひとりでは、戦うことはおろか、逃げることすらも叶わないだろう。

 鳳仙と月原がいれば少しは望みもあるだろうが――駄目だ。月原の刀は使い物にならず、鳳仙は力を使い果たしている。それに、これは俺が招いた災いなのだ。戦う理由のない者に頼るなどできない。


「こんな状況だ。都にはお前らふたりで行くことだ」

「貴方はどうするの?」


 切羽詰まったように鳳仙が問うた。


「さあな。月原、鳳仙のことは任せたぞ」


 月原は返事をしなかった。


「日影殿、都で待っている。決着はそれまで預けるぞ。――行くぞ、鳳仙殿」

「待ちなさい。いくら龍真でも、これは」

「日影殿は俺達を逃がそうとしているのだ。ここは退かねばならん」

「逃げるって、どこに――」

「いいから行くぞ、ついてこい!」


 叫ぶなり、月原は欄干に足をかけ、真下の舟に飛び下りた。

 驚いたのは舟に乗っていた兵士であった。月原は、漕ぎ手の老父を残して、弓兵達を川に蹴飛ばしてしまう。

 他の舟に乗った男達が、月原に向けて弓を引き絞る。


「鳳仙殿、跳ぶのだ!」


 鳳仙も続こうとして、此方に振り返る。何かを云おうとして口を開くが――結局言葉にならず顔を背けてしまう。

「急げ、長くはもたない!」


 月原は、今にも折れてしまいそうな刀で、四方から飛来する矢を弾いている。


「……行ってやれ。あの男を、此処で死なせるには勿体ない」


 目を合わせずに告げれば、鳳仙はすぐに跳んだ。月原が爺に命じ、舟は緩やかに水流に乗って動き出す。弓兵達が放った矢が次々と襲い掛かるが、舟は半透明の薄い膜に包まれていた。膜に触れた矢は、粉々に爆ぜる。鳳仙の作り出した防御の結界である。


「龍真! 貴方も乗るのよ!」


 鳳仙が船上から手を伸ばすが、月原がそれを制止する。


「鳳仙殿、これ以上は無理だ! 日影殿の意思を無駄にしてはならん!」

「でも――」


 鳳仙と視線が交差する。涙を湛えた美しい眼であった。


「――」


 鳳仙は何かを云ったようだったが――聞き取ることはできなかった。

 あのふたりならば、無事に都に行ってくれることだろう。あとは野となれ山となれ、だ。

 そう思うと――肩の力が抜けた。


「貴様も色男だな。あの狐は何と云うたのだ」


 陣笠が云った。皺だらけの顔には、勝ちを確信した余裕がありありと浮いている。


「分からん」

「分からぬ、とな」

「あれだけ離れたのだ。聞こえなくても無理はない。だが――どうしてくれる。このまま死ぬのも已むなしと思っていたが――あいつが何と云ったのか気になって仕方ない。お前ら全員を斬ってでも、俺はあの女を追って都に行く!」


 手にした長太刀を抜き放つ。


「道を空けろ、邪魔するならば斬り捨てる!」


 不意に、馨の姿が脳裏を過った。

 馬に跨がり行軍する俺に、控え目に手を振ってくれた――出陣の思い出である。その顔は、涙を堪えた悲しい笑顔で――俺の愛した、人間らしい表情であった。


 斬り合いが始まった。

 最初に後ろの男を、次に前の男を斬った。陣笠は三人目だった。

 迫る者を斬る。それだけであった。

 幾人もの屍を転がして、数多の返り血に塗れ――。


 立ちはだかった大男を袈裟に斬った時、刀身が男の心臓付近で止まった。男が、必死の形相で、白刃を握り締めていた。その隙を逃さんと、背後から匕首(あいくち)を構えた三人が突進してくる。

 俺も妖刀を手放し、男達に向き直る。一人目の顔面を殴り、匕首を奪う。

 その匕首を二人目に投げれば、匕首は男の左目を貫き、男は前のめりに斃れた。

 三人目の刺突は、一人目を盾にすることで避け、一人目もろとも川へ投げ飛ばす。

 大男を貫いた妖刀を引き抜けば、事切れた大男は崩れ落ちる。

 前進しようとして――右足を何者かに掴まれる。見れば、左目から匕首を生やした男が腕を伸ばしていた。切り払おうと太刀を振り被れば、飛び起きた大男が太刀を掴んでいた。

 二人の死に損ないが手を放す気配はない。


 他の追撃が来ると顔を上げれば――。

 前方にいる武者達が引き下がり、代わりに火縄銃を構えた砲兵が隊列を組んでいた。

 既に火縄には火が灯され、黒い筒先が俺を向けられている。


 ――間に合わない。


 身動きもできず、盾となる遮蔽物もない。

 まさか、俺ひとりに鉄砲まで持ち出してこようとは。


「人間を舐めていたのは、俺の方だったという訳か」


 済まぬ、鳳仙。俺には、この世を生き抜くなど叶わなかった。

 赦せ、月原。お前との勝負はできそうもない。

 覚悟を決めて歯を食い縛る。

 火薬の爆ぜる音が轟く。

 俺を射貫くと思われた弾は、目の前に突如できた炎の壁に遮られていた。


 ――これは、一体。


 俺の前に、子狐がいた。山中の庵で、鳳仙が戯れに飼っていた子狐である。

 一本しかない尾を天に突き上げ、全身の毛を逆立てながら、前方に向かって唸っている。


「お前が、助けてくれたのか」


 子狐が振り向いた。眼差しで訴えている。見ての通りだ、早く戦えと――。


「有り難い。何としてでも突破するぞ。ついてこい!」


 太刀を掴む男の頭を踏み潰し、右足を掴む男の手を切り落とす。

 炎の壁を切り払い、敵の前に躍り出れば、全員が狼狽していた。砲兵達に至っては次の弾込めすらしていない。射線に立たぬよう兵士が引いているため周囲は手薄であった。

 この上ない好機である。

 砲兵ふたりの首を飛ばし、走り抜ける。

 俺の隣に子狐が追いついた。短い四肢を懸命に振りながら跳ねるように駆けている。その矮躯は煤に塗れ、生傷を負い、此処に来るまで相当な無理を重ねてきたことが窺える。


「俺は鳳仙を追ってこのまま都に行くつもりだ。お前はどうする。俺と共に来るか」


 子狐は、息を切らせながら歯を剥き出しにする。云われるまでもない、ということらしい。


「獣だと舐めていたが、その意気や良し。輩よ、都への道はこの通りさぞ険しいものとなろう。簡単にくたばってくれるなよ。命を救ってくれたお前に死なれると、流石の俺も鳳仙に合わせる顔がない」


 子狐が走る速度を上げる。己に従えと云わんばかりの、弱々しくも雄々しい疾走であった。


「頼もしい限りだよ、まったく」


 気が付けば、俺は笑っていた。

 背後から、矢と怒号、そして持ち直した兵士が迫り来る。


 虚無の境地が、斯様な修羅道とは誰が思うまい。

 俺はもう惑わぬ。

 他の誰よりも気高く、独りで、この地獄を生き抜いてやる。

 先導する子狐が吠えた。力強く、逞しい咆哮であった。

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