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■6-1.月原という男

 俺と鳳仙が布団から這い出たのは、昼間になってからだった。 

 煎餅(せんべい)布団と火鉢を納戸に仕舞ったあとは、何をするでもなく文机に頬杖を突き呆けていた。

 昨夜、鳳仙が云ったことを思い返す。


 ――私と貴方は、虚無という在り方を徹底しなければならない――。


 九尾の説教は、この世が無価値であることを、これでもかという程に説くものであった。

 だが、それに失望してはならない。自らの意志で生きていくのだと。さすれば、己にとって喜ばしい生涯にもなろうと。


 そうだ。虚無に打ちのめされてはならない。何も見えぬ光の中だからこそ、己が脚だけで歩かねばならぬ。俺は、この刹那の責を負わねばならぬ。


「そんなに遠くを見て、何を考えているの?」


 不意に右袖を引かれ、埋没していた意識が浮かび上げられる。


「お前のことだ」

「へえ。そんなに好かったの」


 そう云い、鳳仙は俺の右腕に手を絡ませる。蛇に締め上げられているようだ、と云えば、白蛇なら縁起がいいでしょ、と鳳仙は返す。放す気はないようだった。


「冗談はさて置いてだ。礼を云うぞ。あれだけ重かった気分が嘘のように軽い」

「そうでしょうね。今の貴方、佳い顔をしているもの」

「自分じゃまるで分からんな」

「貴方が人斬りだなんて、きっと誰も分からないわ」

「それは嬉しいことだが――そろそろ人斬りに戻らねばならんようだな」


 庵の一つしかない戸口が開かれた。


「御免」


 入ってきたのは白い着流しの男――月原麟之助であった。

 ついに、この時が来たのだ。

 俺と鳳仙を見た男は、土間で足を止めた。


「月原と云ったな。随分と無粋な登場じゃあないか」

「承知の上だ。そこの女に用がある」

「そうか。なら勝手に話すことだ」

「気を利かせて出て行ってはくれんのか。時間はそう取らせない」

「断る」

「何故」


 視線が交差する。空気が一瞬で張り詰める。


「お前と鳳仙を二人にはできんよ」

「その女、今は鳳仙と名乗っているのか。お主のものか?」

「見ての通りだ」

「見て分からんから訊いてる」

「分かりたくないの間違いではないか。いずれにせよ、俺は此処を離れん」

「そうか。ならば致し方ない。余計な口を挟んでくれるなよ」


 応酬に一段落ついたのち、月原は鳳仙に視線を遣った。俺の右腕を掴む力が強くなる。


「久方振りだな、御狐様(おきつねさま)

「……都を出る時は世話になったわね。御蔭様で、私はこうして誰のためでもない、私だけの生を送っているわ」

「日影殿といることが、か」

「ええ。どうして貴方がここにいるの? 龍真から私を捜しているとは聞いていたけれど」

「然様。俺は貴女を捜していた」

「もしかして、あの御方の命令?」

「それもひとつ」


 頷いた月原は、都に戻って戴きたい、と云った。


「麟之助。貴方には恩もあるし、聞いてやりたいところだけど――厭よ、私は戻らないわ」

「それ程までに、都は息苦しかったのか」

「まさか。あれほど優雅で贅沢な暮らしは、他のどこに行ったってできないでしょう。でも、飼い殺しは御免だわ。三日で飽きてしまうもの」

「飽いた?」


 解せぬ、と云わんばかりに月原は眉を(ひそ)める。


「龍真。貴方もそんな顔をしていたわね」


 此方に振り向いて、鳳仙は微かに笑った。

 それもそうだろう。帝の寵姫など、なろうとしてなれるものでもない。美貌と教養は当然として、伏魔殿でのし上がる狡猾さと酷薄さが何よりも必須となろう。そのような――女で就ける最も高く尊い場所にこの狐は君臨していたのだ。それを飽いたの一言で一蹴すれば、そんな顔にもなろう。


 だが、今なら分かる。

 鳳仙は、生きるという信念の許、己の内なる声に従っただけなのだ。


「飽いたとは驚いたが、それでも戻ってもらわねば困る。我が主は貴女を欲しているのだ」

「彼の人が、ねえ」

「我が主のため――否、都に住まう民のためでもある。俺と共に来て戴きたい」

「――くどいぞ、麟之助」


 鳳仙が云った。冷たい怒気を孕んだ言葉であった。


「それはお前の云い分だろう。お前は私を好きと云ってくれて、その上、京から抜け出す手引きをしてくれたじゃないか。あの夜のことは今でも覚えている。忘れたとは云わせない。それを今になって、彼奴が大変だから連れ戻そうでは、筋が通らんではないか。昔の己を――そして私を馬鹿にしておるのか」

「身勝手なのは最初から承知している。貴女がそれを望んでいないこともな。だが、この国の為なら如何なる誹りも受ける覚悟はある」

「お前もしつこい男だな。だが私の答えは変わらん。先刻も云うたが、私には私の生涯がある。お前も思うがまま、己の生きたいよう生きればいい。その方がよほど愉しいだろう」

「取りつく島もないか。これは参ったな」

「御生憎様。腕尽(うでづ)くで挑んでみてもいいけれど――相手は私と龍真よ?」


 牙を剥き出しにした鳳仙は、挑発するように云った。


「流石のお前も、これじゃあ分が悪いだろう?」

「致し方ない。貴女がそこまで云うのなら、無理矢理連れ帰るとしよう」


 九尾の怒気を真正面から受けた月原だが、少しも動じた様子はない。

 調子が崩れたのは鳳仙の方だった。


「本当にやると云うの?」

「ああ。だが、俺の目標は貴女ではない。日影殿だ」


 そこで、月原は俺を見下ろす。


「俺を? 俺を殺してどうするのだ」

「御狐様を貰う。尤も、役目を抜きにしても、お主とは、相見えた時分から殺り合うものと分かっていたがな」


 お主もそうだろう、と月原は不敵な笑みを浮かべる。


「俺に挑むか。いいだろう」


 太刀を掴み立ち上がろうとすれば、鳳仙に右袖を引かれる。見れば、鳳仙は俺が死ぬと云わんばかりの、切羽詰まった表情である。


「その顔は何だ。云っておくが、俺はお前のために死合うつもりはない。俺が戦うのは、いつだって己のためだけだ」

「待ちなさい。勝手に話を進めないで頂戴」

「お前は黙っていろ。これは俺と月原の問題だ」

「黙るのは貴方よ。ひとりで行って、私が喜ぶとでも思ったの」

「己の本心に従ったまでだ。すぐ戻るから大人しく待っていろ。――行くぞ、月原」


 鳳仙を振り払い、庵から出る。

 俺は、虚無に満ちたこの遣る瀬ない生涯を懸命に生きると決めたのだ。ここで鳳仙を差し出してみろ。俺は間違いなく恥じるだろう。後悔もするだろう。

 俺は己の生き様を肯定できなくなる。数多の仲間を喪った時も、馨を斬った時も果てしない慚愧を抱えたが――鳳仙だけは違うのだ。


 草庵から離れた、開けた処で足を止める。斬り合うには十分な空間である。

 妖刀土蜘蛛を鞘から抜けば、相対する月原も抜刀する。


「日影殿。守れぬ約束など交わすものではない。御狐様が可哀想だ」

「可哀想と思うならお前が引けばいい」

「存外、お主も冗談を好むのだな。だが、既にどちらも抜いている。今更収めることなどできようもない」

「お前を斬るとなると、文字通り骨が折れそうだ」

「果たして骨だけで済むかな。首が飛ぶぞ」

「首か」

「然様。その首だ」


 不意に、記憶の水底から土蜘蛛の姿が浮上する。


 ――これが妾を討ったお主の末路だ――。

 ――お主の生涯、何処まで行っても血塗れじゃ――。


 けたたましい女の哄笑が、空虚な俺の中で反響する。


「土蜘蛛よ。貴様の予言は、当たっていたぞ」


 呟くと同時に、口許が歪んだ。俺は笑っていたのだ。


「どうした。何が可笑しい」

「いや、何。俺は今、慥かに死の淵にいるのだろうが――見ろ。空は青く、吹き抜ける風は心地よい。こんな死地があっていいものか。かといって此処は極楽でもない。己の居所がまるで分からん。それが愉快で仕方ないのだ」

「お主の云わんとしていることは分からんでもないが、此処は人の世だ。牛頭馬頭(ごずめず)に餓鬼や畜生、阿修羅と人間が入り交じって騒ぎ合う――如何ともし難い混沌の世だ。居所(いどころ)などあってないようなものだ」

「時に、月原。今の俺は阿修羅に見えるか」


 俺が問えば、月原は怪訝そうに片眉を上げた。


「お主は人間だろう。まさか、人の皮を被った羅刹とは云うまいな」

「それこそまさかだ。俺を人間と云ってくれたこと、感謝する」

「何を訳の分からぬことを」


 そこで、会話が途切れる。互いにもう言葉は不要であった。

 不思議と、落ち着いた気分であった。


 ――全身全霊をもって、この男を殺そう。


 これが、虚無を受け容れた俺の最初の望みであった。

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