■5-2.虚無の克服②『永遠回帰』
鳳仙は視線を落とし、火掻棒で火鉢の炭を小突いた。
「時の流れにだって、同じことが云える」
白い灰の中から、煌く炭が現れる。
「これは炭。今、私達のために燃えているわ」
この女は、何を云うのだろうか。
「この子の過去、現在、未来を考えてみましょう。火が点かず乾いているのが過去。こうして火鉢に抱かれているのが現在。燃え尽きて灰になるのが未来。ここまではいい?」
「ああ」
「この子は、過去と未来で色形が変わるけど――この子の価値が変わったと思う?」
「変わったのではないか」
一度燃え尽きてしまえば、暖を取るという使い方はもうできない。価値が減ったと云うことはできよう。そう思ったが、鳳仙は首を横に振った。
「違うのか」
「物事の移ろいに価値の揺らぎなんてないのよ。この世の全てに意味はない。いいえ、無意味でなければならないの。時間は過ぎて姿形は変わるけど、本質は何ひとつ変わらない」
「よく分からんが――こいつの形が変わることに意味を見出してはならぬということか」
「ええ。慥かに神羅万象は皆刻々と姿を変える。大きくなったり小さくなったり、丸くなったり角ばったり、濡れたり乾いたり――老いたり若返ったり、満ちたり欠けたり、死んだり産まれたり――。でも、何度でも云うけど、そこに意味はないの。この無価値という考え方を徹底すれば、時の流れも変わってくるのよ」
「それは、どういうことだ」
先程の話に戻ってきた。
「貴方は、時間というものをどのように捉えているの?」
「豪く曖昧だな。強いて喩えれば――河のようなものだろうな。櫂も持たずに小舟に乗って、只々流されていく。そんなものだと思っている」
その大河の水が時間である。時には澄んで緩やかに、またある時は船を呑まんとする濁流にもなる――まるで先の読めぬものである。転覆して舟から投げ出された時が死であり、その行く末は誰にも分からない。
「貴方らしい物云いね。それじゃあ、今も揺られているの?」
「何が愉しいのやら、未だにしがみ付いている」
「――ふうん」
鳳仙は愉快そうに唇の端を吊り上げる。
「何だその顔は。違うのか」
「違うわ。時間は何かに向かって進むものではないのよ」
時間は進まない?
「……分かるように云ってくれ。進まなければ、俺達は動けないのではないか」
「ならないわよ。そういうことじゃなくて、時間の流れにも意味を見出してはいけないの。生きることは生きること。死ぬことは死ぬこと」
だから、ね。
鳳仙はそこで言葉を切り、紅く光る炭に灰を被せた。
「時間なんて、どれだけ進んでもどこにも近付きもしないし、また何からも離れてはいない。等しく無価値な状態が永久に続くだけなの。『永遠回帰』と云えば――どう?」
「永遠回帰――」
「喩えるなら円ね。円には始まりも終わりもない。想像してみて。私達は今、巨大な門の前に立っている。これが刹那の門。振り返れば、永い永い小路が横たわっている。この路は、今の今まで私と貴方が走り抜いてきたもの。そしてその路は、刹那の門の先にも待ち構えている。遥か遠くまで続く永遠の道よ。私達はこの門を抜け、また走ろうとしているけど――この路は、もしかしたら既に走り抜いてきた路なのかもしれない」
刹那の先が、既に走り抜いてきた路?
「待て。刹那の先は、まだ通ったことがない未来というやつではないのか」
刹那の門が現在。その背後が過去だというのなら、門の先の未来など知りようがない。
「突飛に聞こえるかもしれないけれど、この世は、永遠に同じことの繰り返しなのよ。云ったでしょう、永遠回帰って。変化しているように見えるのは上辺だけ。少なくとも、この刹那で、過去と未来が堅く繋がっている以上、簡単に迎えることができる。――いいえ、どんなに足掻いたところで、迫り来る結末からは逃れられない」
「逃れられない」
鳳仙は軽く云おうとしたのだろうが、重い響きを隠し切ることはできなかった。
「虚無という在り方にとっては、未来は過去であり、過去は未来なのよ。私と貴方がこうして向かい合ってる刹那は、明日を迎えることができた刹那にとっての原因であり、結果なの」
「――成程な」
鳳仙の云わんとしていることが薄々解ってきた。
俺が馨を斬り殺した過去。鳳仙と共に在るかもしれない未来。この二つはは慥かに違う事象だが、今という瞬間、この暗い草庵で繋がっているのだ。
逆に云えば――俺が馨を殺したからこそ鳳仙と逢い、この刹那を迎えることができた。そして、この刹那の動きようによっては、思い望んだ未来に辿り着けるのだろう。
この刹那は、次の瞬間には過去になり、この過去は未来を形作る。
全ては刹那の積み重ねなのだ。即ち、全てが始まりともなるのだろう。
――だが。
過去、未来という捉え方も正しくはないのかもしれない。
過去、現在、未来は等しく価値を持たない。時間とは瞬息が積み重なっているだけであり、この永遠回帰という円環の世においては、時の流れ――目的が存在しないため、終わりすらも望めないのだ。
だとすれば――嗚呼、何と残酷な世界か。
「だから私達は尚更、この無価値な輪を克服し、全てを肯定して生きる必要があるの」
そこまで云って、鳳仙は脱力したように笑った。
「私からの説法はこれで終いよ」
これが貴方の欲しがった私の在り方、と鳳仙は云った。
「途方もない在り方だな」
「やはり貴方は考え過ぎよ」
「考えなければお前の有り難い説法が無駄になる」
「男は皆考えたがりね。貴方の思うが儘、生きたいように生きればいいのよ」
「生きたいように、か」
「それができれば、愉しいわよ、きっと」
俺は、己が生涯を愉しいと思ったことはあっただろうか。
俺に、実践できるだろうか。
「やはり途方もないことだ。だが」
俺も、笑っていた。
「お前と一緒ならば、それもできそうな気がする」
俺の台詞に、鳳仙は一瞬目を丸くした。
そして、奇遇ね、私もそう思うわ――と薄く笑った。




