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■5-1.虚無の克服①『超人』

「この世に意味なんてない。貴方は湯殿でそう云った」


 狭い庵の中、鳳仙は口を開いた。夜の静寂を壊さぬよう心遣った言葉であった。

 傍らの火鉢に収められた数本の炭が、照柿色(てりがきいろ)に光っている。


「ああ。故に、俺は生きることに懸命になれん。命を賭して役目を果たした結末があれだったのだ。最早、流れる儘に生きることしかできんのだ」

「それならそれでいいじゃない。悪いこととは思わないわ」


 鳳仙は火鉢に手をかざす。細く白い指である。とても二人の忍を縊った手には見えなかった。


「生きることに真摯でありたいとお前は云った筈だ。それが己の在り方だと」

「慥かに云ったわね」

「何故そう思える。この世は無常だ。俺だけじゃない。どいつもこいつも、皆生きることは苦しいと喚きながら生きている」

「だからじゃないの」

「だから、何だ」

「無常だからよ」


 止して頂戴、と突き放すように鳳仙は云った。


「生きる死ぬに意味を求めるなんて、飼い慣らされた畜生のすることよ。『蓄群(ちくぐん)』になってはいけないわ。貴方にそんな生き方は似合わない。貴方はどこの誰よりも気高くあるべきよ」

「その高貴な生き様は、どこから来るのかと俺は訊いているのだ」

「この無意味な世から」


 何でもないことのように鳳仙はあっさりと答えた。


「貴方の云う通り、慥かに此の世に意味なんてない。人によっては飢えや乾き、痛みや悲しみばかりで地獄のそのものかもしれない。でも、そんな辛いことに価値なんてないの。苦しみは苦しみで、悲しみは悲しみ。それでお終い。それ以上の意味を求めたって無駄よ。ないものを探したって仕方ないでしょう。分かる?」

「……続けてくれ」

「何かに喩えるのなら――そうね。『大いなる正午』とでも云えばいいかしら。想像して頂戴。陽が真上に昇って、目の眩むような光の中にいるの。そこでは影も失せて一切の価値が分からない。どこを目指すべきか(しるべ)もない世界。そこで立ち尽くしているのが可哀想な貴方」


 そう云い、鳳仙は口許だけで笑った。

 俺が何か云う前に、鳳仙は続ける。


「でも、何かを目指しては駄目。目的なんて、どこかの誰かが勝手に据えた無責任なもの。それこそ縋る価値なんてありやしない。貴方は、虚無という在り方を徹底しなければならない」

「虚無?」


 鳳仙は頷き返す。

 話は核心に迫っているようだった。


「何のために生きるのかなんて考えても無駄よ。人生に意味なんてないのだから。私達は、意味がないことに――虚無に耐えなければならない」


 耐えなければ、と云った鳳仙の表情に険が差す。


「永きを生きる妖狐と雖も、簡単にはいかぬ境地なのか」

「ええ。云うは易く行うは難しよ。でも、一度受け容れてしまえば、この無常すべてを肯定するしかなくなるの。だってそうでしょう? 光差す影なき世において、すべてが無価値ということは――逆に云えば、すべてが等しいということになる。何を選び、どこに行くかは己で決めるしかない」


 分かるようで分からない話であった。

 内心首を捻る俺を余所に、鳳仙は語る――。


「自分のしたことに誇りを持つこと。それさえできれば『超人』にもなれるでしょう」

「超人、とは」


 聞き慣れぬ言葉であった。


「己だけの価値観で、孤独に、気高く生きる――最高の存在だと私は考えているわ。克己とか、卓越と云えば分かりやすいかしら」


 それは詰まるところ――。


「お前のような者か」

「貴方からはそう見えるの」

「ああ。俺はお前のように佳い女を他に知らんよ」

「厭ね、口説(くど)いてるの?」


 鳳仙ははにかんでみせる。

 その愛らしい顔のまま唇を動かす。


「超人となるには『力への意志』が不可欠なのよ」


 また、馴染まぬ言葉が出てきた。

 視線で問えば、「内なる声に従うこと」と鳳仙は補足する。


「もっと強く、もっと豊かに、もっと高く――常に膨れ上がる、誰もが持つ、生きたいと思う心のことよ。目的もなく、善し悪しもなく、果てもない気持ち。それが私達を駆り立てるの。人を動かすのは、決して理性や感情なんかじゃない。聞いたこともない考えでしょう?」


 人を動かすのは理性でも感情でもない、か。

 本能や欲と云い換えてもいいかもしれない。

 聞いたこともなかったが――自分でも不思議なくらい、その思想は腑に落ちていった。


「初耳だ。昔の俺は、かくあるべきと理想を追い求めていたが」

「間違っているわ」


 鳳仙は断じた。


「……そうか。俺は間違っていたのか」

「御免なさい。気を悪くさせてしまったわね。でも、間違っていたから苦しかったのよ」


 鳳仙は気遣うように俺を見る。

 慈愛の込められた眼差しは、戦で散った同輩達と似て、ある種の頼もしさを与えてくれた。決して同情や憐憫ではない。喩えるのなら――戦場における寝床のような安らぎであった。


「そうだな。気を違えてしまう程度には、苦しかったな」

「理想というものは慥かに私達を律して、背を押してくれる。でも、どんなに頑張ったところで理想には追いつけない。現在の自分を否定するものでしかないの。走れるうちはまだいいけど、いつか己の弱さに耐え切れなくなる時がきっとくる。そうなったら、あとはもう壊れるだけ。貴方なら分かっていることだろうけどね」

「分かるさ。痛い程、よく分かる」


 人間は脆いものだ。肉体的にも精神的にも、壊れるのは一瞬である。 


「だから、ね。人の生き方に、かくあるべきという姿なんて要らないの。草原に根を張った樹と同じように、伸びたいように伸びればいい。『あるべき樹』を目指して剪定(せんてい)を繰り返すのは、己を拒んで、傷つけることでしかないの。あの時ああすれば良かった、こうするべきだったと過去の過ちに苛まれて――結局、後悔に塗れた生涯にしかならないわ」


 そこで、喋り疲れたかのように鳳仙は一呼吸置いた。


「つまり、私達は己の生き方に誇りをもって、己の信じた路を選ばなければならない」

「……解ったよ。よく解った」


 生に懸命になるという意味が。そして、俺が誤っていたということを。


 ――理屈は通っている。


 此岸(しがん)のありとあらゆる物事に意味などない。即ち、全て平等に無価値である。その世界において、他人が定めたに過ぎぬ目標――かくあるべきという姿も無意味なのだ。

 だが、それに失望してはならない。斯様な世であるからこそ、己で価値を見出し、独りで生きていかなくてはならない。


 『畜群』になるなかれ。

 『超人』となるべし。

 『力への意志』に耳を傾け、己が運命を愛すべし――。


「難しいな」


 今の今まで、己を含めた人間すべてを忌み嫌っていたのだ。それを真っ直ぐ受け容れろと云われ、戸惑うなと云う方が無理がある。


「難しいことを云ったつもりはないけれど」

「俺は人が嫌いだ。己のことも、厭で仕方ない」

「何がそんなに厭なの?」

「穢いからだ」

「何故、穢いと思うの?」


 鳳仙は問いを重ねる。


「貴方の道徳は誰のための道徳? 下人(げにん)が己を正当化させるために編んだ怨恨の道? それとも、尊ぶべき御方が信じた善行の道? そもそも、その貴方の云う綺麗や穢いは、本当に貴方が感じたこと?」


 言葉(ことのは)の端々に圧が込められる。

 やはり、死んでいった朋友達が重なって見えた。


「云ったはずよ。人間にあるべき姿なんて存在しない。私達に残された路は、この世の全てを善いものとして肯定することだけなの。慥かに、この世は都合の悪いことで満ちているかもしれない。けれど、悪しきものだけを拒むことなんてできない。逆もまた然り。だって――全てが無価値な世であるとは云うけれど、何かひとつでも欠ければ、それは現実ではなくなってしまうのよ。貴方だってこの世に根を張っているのだから前を向いて歩くしかないのよ」


 そこまで云って、鳳仙は「貴方は少し考え過ぎよ」と笑った。

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