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潮見台:「死のうと思ったことはある?」

 その崖には、潮見台しおみだいと呼ばれる展望デッキが設置されている。崖の先から海にせり出すようにして建てられた展望デッキからは、太平洋の雄大な景色を一望できる。

 先端部分は鉄柵てつさくに覆われているから、落下事故の危険性はない。それでも、目の前は海、足の下は断崖だんがい。海風が、2人を下からあおるように吹き荒んでいる。


 さっきまでエラーに覆われていたわけだから、当然ここには観光客の1人もいない。そんな2人きりのひととき、玲蘭レイラが縁起でもないことを言った。

「この程度の高さなら、落ちても死なないかもね」


「確かにそれほど高くないけど……打ちどころが悪かったら死ぬかも。じゃなくて、そもそも落ちないでちょうだい」

 とにかく、真咲は何が起きても玲蘭だけは無事に家に帰さなければならない。こんな崖ではかなく死なれては困る。


 それでも玲蘭は、不穏なことをつらつらとしゃべり続けた。

「ここには誰もいなくてさ、2人でせぇのって飛んじゃったら、それで2人の道は途切れる。誰にも知られないまま、死んでいく……」

 なぜそんなことを言い出したのだろう。お嬢様は死をご所望だろうか。

 警戒しつつ、玲蘭の手をぎゅうっと強く握った。


「……こういうこと言われたら、ちょっとハラハラするでしょ? でもね、あたしには死ぬ気なんて、少しもない」

 玲蘭が不敵に微笑む。

「ないなら良かった」

 玲蘭の意図は読み切れない。だけど、その表情はいつも通り自信満々だから、それほど心配しなくてもいい気がする。


「マサキは、死のうと思ったことはある?」

「ないけど……」

 妙なことを聞かれてしまった。

 返事をしながら考える。この不穏な会話はどこへ向かうのだろう。

「マサキは今、崖っぷちにいるでしょう?」

「……」

 なるほど、玲蘭はこの身を案じてくれているのかもしれない。


「……そうね。私は何よりも大事だった秘書の仕事を失った。あとはポイッと捨てられるだけの身。社長がその気になれば、損害賠償だの何だのって制裁を加えることもできて、そうなってしまえばこの身は破滅する」

 あらためて言葉にしてみると、手詰まりもいいところだ。どこからどう見ても、真咲の人生は破綻している。


「ああ、なるほどね。考えてみれば、死は私の近くにある」

 海風が2人の髪や服を容赦なくなぶった。

「田舎の貧乏家庭に生まれて、家族のことも受験もうまくいかなくて、働いても働いても報われなくて、経歴を偽らなければ成り上がれなかった。そういう女がガムシャラに足掻あがいた挙句あげくあえなく失職して、今崖っぷちにいる」

 言っても仕方がないことだ。それでも、この身の不幸を話し始めたら止められなかった。

「そういう我が身を儚んで死を選ぶ。そうすれば、この不幸かつ卑怯な女の人生はそこでおしまい。消えてしまえば楽になれて、もう苦しみのなかで足掻く必要もない」

 手をつないだまま、玲蘭は黙っている。


 苛立ちのようなものが、自分の中からせり上がってくるのを感じる。

「……あいにく、そんな軟弱な女じゃなくてさ」

 玲蘭が真咲を振り仰いだ。


「ヴァーチャルストームみたいな超大手をはかってやろうなんて無謀なこと考えるヤツが、もう私はだめです死んじゃおうなんて殊勝しゅしょうなことを言うはずがない。そういう図太い女だもん、地べたに這いつくばってでも生き続けるから、心配いらない」

 何をどうやってもこの人生はうまくいかない。大声でわめいて、全てを投げ出してしまいたいくらい頭にくる。

 だとしても、まんまと死んでやる気はない。

「これでも天下のヴァーチャルストーム社で社長秘書やってたのよ。しかも社長の一番のお気に入りだったって噂も聞いた。そういう女はね、とんでもなく強いわけ。崖から落ちて死んじゃおうなんて考えるどころか、殺しても死なないの」

 父親の会社を謀ったような女にこれを言われたら、玲蘭は腹を立てるかもしれないなと思う。だけど、死のうなんて考えが、本当に微塵みじんもないのだから仕方ない。


「あたしが選んだ女は、一番いい女ね」

 ふと、隣からそんな声が聞こえた。

「マサキはやっぱり、いいなあ。最高にいい女」

 デレデレとした声で言うと、嬉しそうに真咲の腕にまとわりついてくる。


「私も正直、自分はそれなりにいい女だって思ってる。ところが世の中には私よりいい女がいるんだから困るのよね。萌蘖ほうげつ玲蘭って子なんだけど」

 たわむれにそんなことを言ってみたら、玲蘭は声を上げて笑った。


 ***


「結局、あたしに見る目がありすぎるってことなのよ」

 タイカンに乗り込みながら玲蘭が言った。シートベルトを装着し、長い脚を優雅に組む。

「あたしさぁ、モテるわけ」

 唐突だなと思い、つい聞いてしまった。

「彼氏いたとか?」

「怒るわよ」

 声がズドンと低い。しまった、逆鱗げきりんに触れたかもしれない。

「冗談よ。女子高でモテるってこと?」

「そういうこと。年上も同級生も年下も、気を抜くとすぐコクってくる」

「わぁ……百合の園……」

 にらまれた。どうにも失言が続いている。


 緩やかな坂を下る真っ赤なタイカンの中で、玲蘭は口を尖らせながら話す。

「イモみたいなジャンスカの制服着たイモみたいな子たちにコクられても嬉しいわけなくない?」

 同意しにくいから濁すことにしよう。

「ジャンパースカートの制服っていかにもお嬢様学校って感じねぇ。玲蘭は何でも綺麗に着こなすから、きっと周囲から憧れられちゃうんでしょ」

「あたし、マサキにあの制服着せたい」

 急にとんでもないことを言い出した。

「26歳に女子高の制服はキツいと思う……」

倒錯とうさくって感じでいいじゃない。ベレー帽も付くのよ。あーあ。持ってきたらよかったなぁ」

 さすがに制服はこの旅行に持参していないらしい。ひとまずは安心だ。

「まあいいや。旅行終わったら着てもらおう」

 前言撤回。まったく安心できない。


「それでね、コクられたけどめんどくさって思って放置しといた子が、調子に乗ってベッタリしてくるんだけど。夕暮れの美術室でね、言うの。わたくしはレイラ様と一緒に死んでしまいたいわ、とかって」

「ミッション系の女子高ってそういうノリなの?」

「知らない。近代文学にかぶれてるんだと思う。太宰とか読んでたし」

「ああ、『人間失格』?」

「そ。『斜陽』とか。『斜陽』なんてドンピシャね、お嬢様の心にガッツリ刺さるんでしょ、きっと」

 あいにく、真咲はそのあたりの文学作品を読んだことはない。どうやら女子高のお嬢様方には刺さるらしいけれど、はたして真咲に刺さるだろうか。……いや、刺さらないんだろうな。


「あの子達って別に、死ぬ理由はないの。温室で何不自由なく育てられてさ、朝と夕にはキリスト像に祈りを捧げて、ご学友にごきげんようなんて挨拶してお嬢様言葉でたおやかにおしゃべりして。そうやって温室で大人しく咲いてりゃいいのに、なにが不満なのか知らないけど死んでみたいとかなんとか言っちゃって」

 完全に別世界のフラストレーションをぶつけられている。ほとんど異世界物語だ。粗野な育ちの真咲には1ミリも理解できない上に、同意のしようもない。

 話題の方向性はよく分からないけれど、玲蘭は饒舌じょうぜつだ。せっかくだからこのまま話を聞いていよう。


「あたしにも死ぬ理由はなくて、あの子にも死ぬ理由はなくて、そんなのに付き合って死ぬとか、まっぴらじゃない?」

「まぁ……確かに意味は分かんないわ……」

 とにかく、意味が分からないとしか言いようがない。

「そもそも、あんな子と一緒に死ぬ価値はないわけ」

「うん」


 玲蘭は少し黙ったあと、意志の強い声で言った。

「一緒に死ぬ価値のある相手と一緒にしぶとく生きる。それが一番美しい」


 その言い回しの意味を少し考えた。

「確かに、それは美しいわね」

「でしょ?」

 悪くない主張だと思った。玲蘭の美意識は、かなりいい線いっていると思う。

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