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応酬:「被虐根性が染み付いてんじゃん」

 萌蘖ほうげつのお嬢様。

 それはマサキにとって最大かつ最強のコンプレックスなのだと思う。

 貧乏家庭の底辺暮らし。ツギハギだらけの人生。経歴を詐称しなければ成り上がれなかった真咲にとって、萌蘖は雲の上の存在だ。真咲が欲しいと焦がれるほどに願った立場と身分を、玲蘭レイラは苦労もなしに手に入れて、持て余している。

 2人の生きる場所は違うのだろう。あまり直視したくないけれど、きっとそうに違いない。


「……マサキは、あたしが728日後に一緒にお酒を飲もうって言ったら、断れない」

 定型の構文が出てきた。それならば、今しがた吐いた弱音は腹にしまい込まなければならない。

「それはそう」

 思案もせず、即答した。


『マサキはあたしが言ったら断れない』

 この構文で命令されるのは何度目だろうか。

 ふと思った。もしかすると玲蘭は不安なのかもしれない。突然真咲が裏切ったらどうしようと思っているのかもしれない。だからあえてそれを言って、かたくなに従わせようとするのかもしれない。……そんな心配をしなくたって、真咲には抵抗なんてできないのに。


 玲蘭は真咲の答えを聞いて沈黙する。

 黙り込んだ玲蘭の表情は硬かった。何かを、ぐっとこらえているような顔に見えた。


「それなら、私はたとえこの身が破綻していても、レーラの20歳のお祝いに、玲蘭と一緒にお酒を飲んで……」

 バン!と強い音。ドキッとして、そのまま言葉を止めてしまった。

 それは玲蘭がテーブルを手のひらで叩いた音だった。


「ねえマサキ。どうして断らないの」

 強い声。

「私は、レーラの要望にあらがったりしない」

 言うべきことは決まっている。だから、言うべきことを言った。


「あのね、マサキ。この関係を破綻させるのなんて、本当は簡単なの」

 玲蘭はコンと音を立てて、ジンジャーエールの缶をテーブルに置く。

「どちらか1人が無理って言った瞬間に、この旅は終わるの」

 妙な絡み方をするなぁと、置かれた缶をしげしげ眺めてしまった。ジンジャーエールにアルコールは入っていないはずだけど。

「私は無理って言わないから、言うならレーラの方」

「だから、何でマサキは無理って言わないのよ!」

 悲鳴みたいな声だった。


 それにしても、今更それを聞くのか。松濤を出発して以降、玲蘭はあんなに高飛車に真咲を従わせ続けてきたというのに。

 そんなもの、答えなんて最初から決まっている。

「私に断るという道はない」

「いいえ、断れる」

 だけど玲蘭はキッパリと言った。


 玲蘭はムキになって話し続ける。

「マサキがパパの会社をはかった罪人なのは事実。だけどね、マサキには、謝ってごまかしたあとどこまでも逃げちゃって、あとは新天地で生きていくって道もあった。マサキは本当は、社長の娘のワガママを一から十まで聞いてやる必要なんてないの」

 当然真咲だって、それに気付いていなかったわけではない。全力逃走する、という選択肢があることは分かっていた。

 だけど、玲蘭の方からそれを言ってくるなんて、思いもよらなかった。今になってそれを言うのなら、なんだってあんなに意固地いこじになって真咲を従わせ続けてきたのだろう。


「マサキには断る自由がある」

「私には断らない自由もある」

 玲蘭がギリギリと鋭く睨みながら言い放った言葉に、悠然と返した。


 半分ほど胃に落ちたビールのお陰で、今の真咲はすっかり肝が据わっている。玲蘭の主張を曖昧にかわす気はない。

「逃亡なんて無責任なことをするつもりは、初めからなかった」

 もちろん、そもそもの原因である経歴詐称が無責任な行為だと言われてしまえばそれまでだけど。

「結局ね、タイカンのアクセルを踏み込んだのは私。あれを踏んだ瞬間に、私の中に、逃走とか後戻りって選択肢はなくなった」


 きっと自分は底なしの愚か者なのだろう。せっかく玲蘭が隙を見せたというのに。

 真咲は今この瞬間に、玲蘭とのいびつな関係を終わらせることもできたに違いない。玲蘭の指南しなん通り『ワガママお嬢様に従い続けるなんてまっぴらだ』なんて言い放って全力逃走をすれば、それで終わり。

 そうやって逃げてしまえばその瞬間から、8つも下の女子高生に引っ叩かれたり踏まれたりすることはなくなる。次は何をされるのかと毎秒ハラハラしながら過ごす必要だってなくなる。


 手を離すことは、玲蘭にとってもいいことなのかもしれない、そんな意識もなくはない。

 さっきそれを言葉にして確認したばかりだ。『萌蘖ほうげつのお嬢様が、人生が破綻したような女と遊んでいてはいけない』……それならば、この関係を解消することは結果として、玲蘭のためになる。


 よりよい方針が見えているにも関わらずあらがっている自分は、一体何なんだろう。よく分からない。

 それでも、ビールをグッと飲んでから、言葉を吐いた。

「私達の旅は明日からも続く。私達は一緒に北を目指す」


 決然と言い放った真咲をじっと見たあと、玲蘭はジンジャーエールの缶を取り、一口飲んでから言った。

「そんな風に言い切っちゃってさ。あたしにすっごいいじめられたときに、マサキは後悔するんじゃないの?」

 玲蘭はずっと、真咲のことを探るような言い方をする。


 玲蘭の言うとおりだ。明日以降……もしかしたら今夜のうちにでも、真咲は今の宣言を悔やむことになるかもしれない。

 だけど、それでもいいやと思ってしまった。

「するかもねぇ……。でも、しょうがないね、ドMだもんね」

 いじめられるくらい、望むところだ。

「あ、自分から認めていくことにしたんだ?」


「そういうこと。私はレーラの言いなり。もはやレーラ様の奴隷」

 肩をすくめつつ、そんなことを言ってやった。

「様づけはサムいなあ」

 どうやらお気に召さなかったらしい。ダルいを通り越して、サムいとまで言われてしまった。それにしても、引っかかったのは『様づけ』の方らしい。『奴隷』の方にはダメ出しが入らなかった。


「レーラがひざまずけと言ったら跪くし」

被虐ひぎゃく根性が染みついてんじゃん」

 玲蘭が指摘する通り、自分には被虐心があるのだろう。そんなこと、知りたくはなかったけれど、この旅を通して否応いやおう無く見せつけられてしまった。不本意だし情けないけれど、もう否定はできない。

「そう。靴を舐めろと言われれば黙って舐める」

「なあにそれ。でも、そういうのいらない。普通に不衛生だからヤダ。そういうことじゃなくて、美しいことをしたいのよ」

 興味深いことを言う。思わず問い返した。

「私を踏むのは、美しいの?」

「うーん」

 玲蘭は少し考えてから、こんなことを言った。

「頭を踏むのは美しくないと思う。肩や背中を踏むのは、まあまあ」

 なるほど、そういえばさっき、頭を踏まれることはなかった。玲蘭の嗜好しこうはさっぱり分からないけれど、彼女の中には何らかの基準があるらしい。

 そのあたりのこだわりを推測すれば、玲蘭の行動を多少は読めるようになるだろうか。いや、無理だな……。


「マサキは、わりと美しい反応をするから、結構良くて」

「はぁ」

 まったく意味がわからない。

「最初は苦しそうにしたり、イヤそうな声出したりするのに、だんだん声が甘ったるくなってくの。それに、目とかもトロンとさせちゃって。気持ちよくてしょうがないって顔」

「してないよ」

「してるの。あれが、美しいと思う」

 濡れ衣すぎる。美しいなんて言われるとまんざらでもない気がするけれど、いかんせんさっぱり自覚がない。


「分かんないな」

「分かんないのなら、やっぱりこんな変な関係、やめちゃえばよかったのに。……でも」

 「でも一緒にいるよ。そもそもいびつなのは、お互い承知の上だもん」

 玲蘭の「でも」にかぶせるみたいに言った。


 真咲の顔を、まっすぐにじぃっと見つめて玲蘭は黙り込む。

 しばらく無言の時間が続く。……ふと、玲蘭が花のように微笑んだ。

「分かった。じゃあ、一緒にいてよ」

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