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お風呂上がり:「1本なら平気ってことね」

 ぬるいお湯に長時間浸かったから、今日一日蓄積していた体の疲れはなんとなく取れた。

 それでも、精神的な疲れは増したような気がする。


 なにしろ、湯船の中で一糸まとわぬ状態で激しめのキスをされる、なんて危機的状況をなんとか回避したのもつかの間、「体洗ってるところ、見ててあげる」なんて、即席の観賞会が始まってしまったのだからたまらない。

 玲蘭レイラとしては、真咲が恥ずかしがれば恥ずかしがるほど嬉しいらしい。お陰で、お風呂から上がる頃にはどうにもグッタリしてしまった。


 しかも、お風呂上がりに体を拭いてパンツを履こうとしたら怒られた。

「あのねマサキ。バスローブを着るときにはインナーはつけないの」

 それ自体は、知識としてうっすら知っている。バスローブはあくまでバスタオル代わりに羽織るものだから、中に何かを着るのは辻褄つじつまが合わない、という理屈だったはず。


「だって、なんか心もとないし……」

 玲蘭の前でそのスタイルは、さすがに防御力が低すぎる気がする。だけど、玲蘭にギロッとにらまれてしまったから、しぶしぶ全てのインナーを手放した。


 さて真咲には、玲蘭の髪を乾かすという仕事がある。ロングヘアはなかなか乾かないから、ある程度時間をかけてゆっくりとケアしていく。


 ふわふわのバスローブをまとい、ソファに座って大人しく髪をブローされている玲蘭が、一点を指さして言った。

「お酒入ってるよ」

 彼女の指の先には、ラブホ備え付けのコンパクトな冷蔵庫。


「飲まない」

 お風呂上がりにビールなんて最高だろうな、という気持ちをグッと押し殺す。その誘惑に負けるわけにはいかない。なにしろ、この旅行中は禁酒をするつもりなのだから。

「ウェルカムドリンクだから1本無料なんだって」

 そのこと自体は、ホテルのフロントにも室内の案内にも明記されているから分かっていたけれど。

「無料でも有料でも、飲まないものは飲まない」

 とにかく、どうあっても断るしかない。


「レーラはジュース飲むといいよ。取ってあげようか? 私もコーラなら飲みたい……」

「マサキがお酒飲まないんならあたしが代わりに飲む」

 やんわりと断ったつもりだったけれど、玲蘭は意固地いこじな言い方で真咲の言葉をさえぎった。

「ジェーケーが悪いこと言うのね。絶対ダメよ」

 とんでもないことを言い出したから、きつい言い方にならないように止める。どうあっても、そのルートだけは絶対に回避しなければならない。

「じゃあマサキがお酒飲んで」

「私も飲まないし、レーラも飲まない」

「でもマサキが飲まないならあたしが飲む」

「だめだってば……」

 堂々巡りになってきた。


「レーラは、お酒飲みたいの?」

 絶対に叱ってはいけない。立場上、玲蘭が真咲に叱られるなんてことがあってはならない。だからとにかく、説得の方法を探りつつ、下手に出つつ尋ねてみる。

「全然。お酒には興味ない」

 飲みたいという気持ちを持っていないのなら、ひとまずは安心かもしれない。

「あたしはただ、マサキに飲ませたいだけ」

「飲まないよ」

 そろそろあの論法が来るのだろう、と半分諦めながらも抵抗を続ける。

「でも、マサキはあたしが飲んでって言ったら断れない」

 ……ほら出た。


 結局、これが出たらもうどうにもならない。一応抵抗は試みるけれど、敗戦色は濃厚。

「私しか運転できないし……」

「どうせ今日はもう車動かさないでしょ?」

 その通り。ラブホテルにチェックインしてしまった以上、今夜はここにカンヅメ状態だ。飲酒運転の心配はどう考えてもゼロ。

 いよいよ説得材料は尽きかけている。

「何かあったときに、酔ってたら対処しにくいし……」

「何かってなあに? そもそも、1本飲んだくらいで何の対処もできなくなっちゃうほどお酒弱いの?」

「んー……。そういうことにしておいてもらえるのなら、そうしてもらえると、いいんだけど」

 嘘をつくことを禁じられているから、濁した。

「1本なら平気ってことね」

 やっぱり無理だった。論破されてしまった。


 2分後。

「乾杯!」

 玲蘭がジンジャーエールの缶を、真咲のビール缶にトンとぶつける。

 今夜も今夜とて、真咲はあらゆるシチュエーションにおいて玲蘭に逆らえないのだ。


 ホテルに入る前に買っておいたチョコクッキーを開封しながら、玲蘭が憮然ぶぜんとした声を放った。

「マサキってさぁ……イヤならイヤって言えばいいのに」

 急になんなんだろう、と思いながら答えた。

「私はレーラが言うこと、レーラがすることを、断れない……」

 そもそも自分に抵抗の権利はない。方向性は決まっているのだから、迷いもない。


 ソファに座った玲蘭が言う。

「例えばさ。耳なんて噛まれたら、イヤとか、やめてとか、ダメとか、普通は言うものでしょ?」

 なるほど、それが一般的な感覚というものらしい。


 だけど昨日、思いっきり歯を立てられているさなか、そんなことを言おうとはつゆほども思わなかった。

「ごめん、言い直していい? 私は断らない」

 小さなテーブルを挟んで真咲は、床に置いたクッションに腰を下ろしている。玲蘭を床に座らせて自分がソファに座るなんていう逆のポジションはあり得ないのだ。

 立場が違う。身分が違う。こうやって座る場所を決めるような些細なことを通して、自分はそれを意識し続けているのだと思う。身の程を知れと、自分に言い聞かせ続けているのだと思う。


「本当の、本当に、無理だったら、そう言えばいい」

「言わない」

 ビールを一口飲んだあと、つい強い言葉で断言してしまった。

「いや……断言して大丈夫なのか、分かんないけど、でも、無理だとか、そういうことを、言うつもりはない……。私はレーラの要望は聞くし、文句も言えない、言わないんだよね。だから」


 そうだ。懸念していることを1つだけ伝えておこう。

「あのさ。だからさ、旅行中に、レーラがお酒飲むのは、絶対にやめてね。文句を言えない立場だけど、それは困るから、だから私は、死んでも止めるから」

「死なれるのは困るなあ」

「約束」

「約束かあ。……いいよ」

 すんなりと応じてもらえたからホッとした。


 ひょいとチョコクッキーを食べながら、玲蘭が言う。

「あたしがお酒飲めるようになるまで、あと……728日?」

「ん、そうか」

 瞬時に計算したらしい。確かに、18歳の誕生日を迎えて間もないわけだから、20歳の誕生日までの日数は計算しやすそうだ。

「マサキはさ、728日後に、あたしと一緒にお酒を飲んでくれる?」


 妙なことを言うんだな、と思ってしまった。

 玲蘭は昼間にも、未来の約束をくれた。どうやら玲蘭と真咲は、次の春にネモフィラを一緒に見るんだそうだ。あの話に続いて、728日後の約束まで……。


「728日後に、私とレーラは隣り合っていられるの?」

 うっかり、言わなくてもいい疑問が口をついて出てしまった。お酒のせいかもしれない。

「だめなの?」

 その声色が思いがけず寂しそうだったから、結構慌てた。言い訳みたいに取りつくろう。

「だって、700日とか、経つうちに……そもそも、それよりもっと早い段階で、私の人生が、破綻しているかもしれないから」


 旅行の非日常的かつ和やかな雰囲気に心がごまかされかけているけれど、自身がおちいっている窮地から目をそむけられるはずはない。

 この特命が終わり次第、真咲はおそらく会社を追われる。秘書の仕事を失ったあとには、悪評の影響で再就職もままならなくなる。要するに、今は崖際になんとか留まれているだけで、あとは早晩そうばん落下するだけの状態だ。


「あたしは、マサキがいいの」

 そんな真咲の思いを知ってか知らずか、玲蘭は言い切った。

「たとえ人生が破綻していても、マサキがいい」


 どうしてそんなことを言い切るのだろうと不思議に思った。どうも、玲蘭にとって真咲は相当なお気に入りらしい。

「だって……私の、この先の人生のことが、見えなさすぎるもん。萌蘖ほうげつのお嬢様が、人生が破綻したような女と遊んでいてはいけない」

 やっぱりお酒なんて飲んではいけなかった。玲蘭の前でこんな弱音を吐くはずじゃなかったのに。

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