腕の中:「なんで、あたしを脱がしたの」
ぱち、と目が覚める。
知らない天井だなと思う。
……ほんの数秒。
旅先だ、と気付いた瞬間、昨日の出来事を全部思い出した。
真咲は寝付きがいいし、寝起きもいい。目が覚めればすぐに頭も冴える。
睡眠をキッチリとコントロールすることも、秘書の必須スキルだ。真咲はそう固く信じている。
(ああ、でも秘書の仕事はもう……)
ひっそりと心にダメージを受けつつ、ベッドサイドのデジタル時計に目をやった。
驚いた。朝8時を過ぎている。
休日を除けば、真咲がこんな時間まで寝腐ってしまうことなんてありえない。いくらホテルの部屋に遮光カーテンがかけられていて暗いからといって、緊張感のかけらもなくこんなに眠るとは……。
リラックスしてしまった、ということなのだろうか。いや、あんな風に気分が激しく乱高下するようなお嬢様の隣にいて、気を抜くなんてことはありえないと思うのだけど。
それでも、ぐっすり眠れてしまったのは事実だ。どうにも、自分の身体や心のことがよく分からない。
愕然としつつ、ゆっくりと顔を傾けた。
思わず息を呑む。
天使みたいに可愛らしい寝顔がそこにあった。
昨日は小悪魔な一面をたびたび覗かせてきたお嬢様だけど、眠っている姿はあまりにも、あまりにも天使。
ダブルベッドでこの天使の寝顔を独り占めできるのなら、それはそれで悪くないな、なんて思ってしまう。
***
できるだけ音を立てないようにしてお手洗いに行ったのだけど、ベッドに戻ったら「……ん」と小さな声が聞こえた。起こしてしまったのかもしれない、ちょっと申し訳ない。
「……眠っていて」
ほとんど声を出さず、囁くようにして伝える。そうしながら、ダブルベッドの隣に静かに滑り込んだ。
玲蘭が眠そうな態度で、ゆっくりと手を伸ばしてくる。真咲に触れる。そのまま真咲を抱き寄せようとしているようだったから、抵抗せず身を任せた。
「!」
ほよん、と柔らかすぎる感触。
あろうことか玲蘭は、その胸元に真咲をかき抱いた。しかも、察するに浴衣の中に下着はつけていない。そんな無防備な状態で、警戒心のかけらもなくウトウトしている。
危なかった。自分が男だったら一瞬で理性を失っていたかもしれない。
なにしろその感触は昨日の大浴場で体感したのと同じ、高級ホテルのパンケーキだ。はっきり言って、たまらない。
そもそも真咲が男だったとしたら、玲蘭がこんなに無防備に眠っていてくれるわけはない。女に生まれて得したな、なんて妙なことをつい思ってしまう。
それでも、誘惑に抗わなければならない状況ではある。玲蘭を刺激しないよう、できるだけ身動きをせず、幸せすぎる極上のひとときを満喫することにした。
「なんで……」
すごく眠そうな声がゼロ距離で聞こえる。
「ん?」
「ふくきてるの……」
寝ぼけたような発音だったけど、かろうじて聞き取れた。
……またとんでもないことを言い出した。
無機質な天井に目をやりつつ、言葉の意味と今後の方向性をフル回転で考える。
脱げ、という意味なのだろうか。そういう意図だった場合、要望を無視すれば『逆らった』と怒られるだろう。
だけど、脱げと言われたわけではない。とにかく落ち着いて、さっきの言葉を脳内でリピート再生してみる。『なんで服着てるの?』……なるほど。あくまで、単なる疑問文だ。
真に受けて浴衣を脱いだとする。玲蘭がそれを意図していなかった場合、あるいは玲蘭が寝ぼけてその言葉を発しただけだった場合、真咲は玲蘭の起床後に大変な窮地に陥るはずだ。即時的な身の破滅すらあり得る。
そもそも、真咲が浴衣を脱いだとしたらどうなるのだろう。いけないと思いつつも、つい想像してしまった。
生身の肌同士を触れさせて……そして……。
(そして? ……そのあとどうしたらいいの?)
なにしろ、真咲には恋人がいたことなんてない。あらゆる色事から目を背け、ただ東京の中心で成り上がることだけを目指して必死に走り続けてきた。そういう女だから、人と人が衣類を脱ぎ去ってからやるとされる何らかの行為に関する知識も、正直かなり薄い。
懸命なリスクヘッジを図っていたら、不意に玲蘭の腕が動いた。あろうことか、玲蘭は自身の浴衣の袖を片方、脱ぎ去った。陶器みたいに透明感のある肩があらわになった。
ギクリとした瞬間、その腕がまた真咲に絡みついてきた。あんまりにも豊満な身体が、生身の状態で真咲に触れる。やたらあったかい。
もう、どうしたらいいんだろう。
頭を抱えたい気分だけど、あいにく真咲は半裸の玲蘭に抱き枕のようにガッチリと捕らえられていて、頭を抱えることすら許されていない。
とにかく、あらゆるリスクを天秤にかけて、自分なりの結論を出すことにした。
おそらく『真咲も脱ぐ』は不正解だ。そう信じたい。いや、正解がどうとかではない。それが一番リスクの低い道に違いない。とにかく、即時破滅は回避しなければならない。
すうすうと、かすかな寝息が聞こえている。玲蘭は真咲の葛藤なんてお構いなしだ。
――玲蘭は寝起きが悪いタイプなのかもしれない。真咲はそれから30分近くも、その柔らかい感触の恩恵にあずかった。
秘書を続けられていたのなら、この時間にはとっくにタイトなスーツを身に着け、キリッと髪を整えメイクを整え、会社に到着して仕事を始めている頃合いだというのに。まさか、ベッドの中で半裸の女性に抱かれているような怠惰な朝を過ごしてしまうなんて。とんでもない罪悪感。
それでも、玲蘭が離してくれないのだから不可抗力だ。この怠惰は自分のせいじゃない。自分は悪くない。
自分はあくまで、お嬢様の抱き枕という特別業務に徹しているだけだ。
しばらくののち。
玲蘭の手が、真咲の髪の上でふわ、ふわとゆっくり動いた。そのまま、すごく緩やかな手つきで髪を撫でてくる。
気持ちがいいと思ったから、そのまま身を任せた。
ふと気付いた、という感じで、玲蘭が声を発した。
「……なんで」
「ん」
腕の中で軽く返事をする。
「なんで、あたしを脱がしたの」
そうきたか。
「脱がすわけないでしょ。玲蘭が勝手に脱いだの」
とにかく、冤罪で処罰されるわけにはいかない。事実をありのままに述べ、この窮地からの脱却を図ることにした。
しばしの沈黙。
「変態」
その手が、ゆっくりと真咲の頬に触れた。なんだろうと思った瞬間、頬をつねって引っ張られた。……ちょっと痛い。
やっぱりトラップだった。うっかり脱がなくてよかった、と内心で胸を撫で下ろした。あらためて考えてみれば、あのシチュエーションでほいほいと浴衣を脱いでいい道理なんてない。
それにしても、かなり頑張ってリスクヘッジに努めたつもりだったのだけど。どうしたって軽微な罰は免れられないのか。
「冤罪すぎるわ……脱がせてないってば」
それでも、真咲は頑として無罪だ。とにかく、身の潔白を訴え続けることにした。
玲蘭は抱きしめていた真咲をフイと手放すと、浴衣の袖に悠然と腕を通した。それから、浴衣の前を少し深めに合わせる。
「ところで、おはようのキスは?」
まだ眠そうな声が聞こえた。
「ちょうど今、キスしたいって思っていたところ」
腕に触れる。髪に触れる。おでこや鼻先がほとんど触れるような距離まで近づく。
さあ今日も、このお嬢様に思う存分振り回される難儀な一日が始まるぞ。
内心でそんなことを思いつつ、玲蘭にそっと口づけた。




