第5話:鋼の町の咆哮
第5話:鋼の町の咆哮
空が、死んだ魚の腹のような鈍色に濁り始めていた。
街道の先、地平線を切り裂くように聳え立つのは、巨大な鉄の円環――クレーターの縁にへばり付くように形成された、鋼の町『ガルネリ』である。
聖都の静謐とは対極にある、暴力的なまでの重低音。
地下からせり上がるプラズマ焼却炉の熱気が、大気を歪め、陽炎となって視界を焼く。ここは女神の慈悲が届かぬ、再構築の「残りカス」を燃やし続ける鉄の胃袋だ。
「うへぇ……鼻の奥が鉄の味でいっぱいだよ。ねえセイル、鼻血とか出ないかな、これ」
フィンが、煤けた空気を払うように鼻を摘まんで眉を寄せる。
「残念ながら、大気中の重金属粒子が粘膜を刺激しているだけよ。血が出る前に、あなたの肺が『炭鉱夫の標本』へと最適化されるのが先ね。……ユリウス、そんなに身を乗り出さないで。火の粉が危ないわ」
「すごい……! 見てくれよ、あんな巨大な歯車が門の代わりに回ってる!」
ユリウスは、煤で頬を汚しながらも、子供のように目を輝かせて巨大な「廃棄物処理施設」を仰ぎ見ていた。彼にとって、この無骨な鉄の響きは、世界を動かす鼓動のように聞こえるのだろう。
レオンは、その背後で静かに《アストライオス》の柄に触れた。
聖都の選定以来、彼の感覚は異常に鋭敏化している。周囲を漂うのは、熱と油、そして――隠しきれない「恐怖」の匂いだ。
町の入口を跨いだ瞬間、景色は一変した。
石造りの古い家屋の隙間を、血管のように這い回る銅のパイプライン。
高圧蒸気が絶えず噴き出し、道行く人々の顔を、濡れた影で塗りつぶしていく。
ガラン、と。
頭上で巨大なクレーンが空荷を揺らし、不吉な鐘の音のように響いた。
その時だった。
「―――止まれ。それ以上、俺の『聖域』にノイズを混ぜるな」
鉄錆の雨が降る広場の中心。
無造作に積まれたスクラップの山を玉座として、一人の男が座っていた。
逆立った髪。破れた外套。そして、過剰なまでに装飾された革のベルト。
男は、腰に佩いた巨大な槌――《雷槌ミョルニル》を肩に担ぎ、冷笑を浮かべた。
「俺は最強。俺は絶対。俺の名はガルド・バルク。闇より出でし黒き雷霆にして、運命を屠る裁断者―――」
「……えーと、兄貴。あのお兄さん、何か言ってるけど、あれ何語かな?」
フィンの素朴な疑問が、広場に漂っていた緊張感を、不敬なまでの脱力で塗りつぶした。
レオンは眉間を押さえた。ガルドと名乗った男の言葉は、その尊大さとは裏腹に、極限まで張り詰めた弦のような「震え」を孕んでいたからだ。
「……フィン、静かに。彼は……極度の防衛本能に基づいた自己暗示を行っている」
「暗示? なんだ、ただの変な人じゃないんだ。良かった」
「良くない。見て、あのエルディアを」
セイルが冷静に指摘する。
ガルドの持つ《ミョルニル》から、パチパチと青白い火花が散っていた。
それは魔術的な雷ではない。物理法則を無視して、大気から強制的に電子を剥ぎ取る「高電圧の呻き」だ。
「ふん、無知な凡俗どもめ。俺の《ミョルニル》が欲しているのだ……貴様らのような『予定調和』の犠牲をな!」
ガルドが跳躍した。
鉄の山を蹴り飛ばし、重力加速度を無視した軌道で、レオンの頭上へと肉薄する。
「ユリウス、下がれ!」
レオンが叫ぶと同時に、《アストライオス》を抜剣。
光の属性を纏った白刃が、雷を帯びた巨槌を真っ向から受け止めた。
―――轟!
衝撃波が広場の煤煙を吹き飛ばす。
レオンの足元の石畳が、数式が崩壊するように細かく砕け散った。
「くっ……この重圧、ただの虚勢ではないな……!」
「ハハハ! 震えろ、絶望しろ! これこそが俺の孤独! 俺の、暗黒の深淵だ!」
ガルドは叫ぶ。槌を振り下ろす度に、彼の肉体は電気的な負荷で軋み、皮膚の下で血管が青く発光していた。
それは自滅的なまでの出力。
レオンは、眼前の男の瞳を見た。
狂気。傲慢。その奥に、泥沼のように沈殿しているのは――「逃げ出した過去」に追われる者の、惨めなまでの恐怖だった。
(こいつも、俺と同じなのか)
自分は「天才」を演じ、この男は「強者」を演じている。
その歪みが、エルディアという名の鏡を通して、互いの魂を削り合う。
「―――兄貴、その人、たぶんお腹空いてるよ」
激突の最中、またしても場違いな声が響いた。
フィンが、いつの間にか瓦礫の山に腰掛け、懐から干し肉を取り出して齧っている。
「……フィン! 今、そんな場合じゃ――」
「だってさ、足が震えてるもん。武者震いにしては、リズムが『腹ペコのワルツ』だよ、あれ」
ガルドの動きが、一瞬だけ硬直した。
「……黙れ……黙れ黙れ黙れ! 俺を憐れむな! 俺は最強のガルド・バルクだ! 誰も見捨てない、誰も裏切らない、絶対の――!」
「そうか。お前も、誰かに見られたいんだな。その『中身』を」
レオンが、《アストライオス》に闇の属性を乗せる。
光を呑み込む漆黒のオーラが、雷撃を吸収し、その圧力を無効化した。
力任せの突進が止まり、ガルドの体が大きくよろめく。
《ミョルニル》の光が失せ、残ったのは、煤にまみれて肩を上下させる、一人の怯えた青年の姿だった。
沈黙が広場を支配する。
噴き出す蒸気の音だけが、世界の故障を告げるように鳴り響いていた。
「……ふん。……いいだろう。貴様ら、名は何という」
ガルドが、膝の震えを必死に抑えながら、再び「最強」の仮面を被り直して問う。
「レオン。レオン・クラウスだ」
「……レオンか。……悪くない名だ。貴様が俺の『右腕』として相応しいか、この街の地獄で見極めてやろう。勘違いするな、助けるわけではない……俺の伝説に、彩りが必要なだけだ」
そう言って背を向けるガルドの背中は、ひどく小さく、そして不器用なほどに真っ直ぐだった。
「……兄貴、仲良くなれそうだね、あのお兄さん」
フィンが、最後の干し肉を飲み込んで笑う。
レオンは鞘に剣を収め、自らの手のひらに残る、ピリピリとした雷の残滓を見つめた。
―――世界は、あまりに騒がしく。
鉄の響きと煤煙の向こう側で、新しい絆の歯車が、重い音を立てて回り始めた。
それは、誇りと呼ぶにはあまりに痛々しく。
同志と呼ぶにはあまりに、泥臭い共鳴だった。




