第4話:思い出は、陽だまりの中に
第4話:思い出は、陽だまりの中に
「―――兄貴、火、消えそうだよ」
フィンの気の抜けた声が、爆ぜる薪の音を貫いた。
聖都ヴィナ・カノンを発ってから数日。街道沿いの名もなき平原で、一行は野営の夜を迎えていた。
レオンはハッとして、手に持っていた木の枝を焚き火に投じた。
揺らめく橙色の光が、膝の上に置かれた地図を照らし出す。指先には、ペンを握りしめていた跡が白く残っていた。
「……すまない。明日のルートを計算していたんだ」
「そんなの、道なりに行けば着くって。ガルネリでしょ? 煙が見える方に行けばいいんだよ。ほら、肉焼けたよ」
フィンが突き出してきた串には、お世辞にも丁寧とは言えない焼き加減の野兎の肉が刺さっていた。
レオンはそれを受け取り、一口運ぶ。味付けは塩だけ。けれど、その野性味溢れる脂の熱さが、氷のように冷え切っていたレオンの思考を、強引に「現実」へと引き戻した。
「……レオン。あまり根を詰めすぎるなよ」
焚き火を挟んで対面に座るユリウスが、心配そうに眉を下げた。彼の傍らでは、セイルが薬草の仕分けをしながら、手際よくハーブティーを淹れている。
「ユリウスの言う通りよ。魔王との遭遇以来、あなたの睡眠時間は『最適化』という名の欠落に陥っているわ。英雄は、倒れることすら許されないというけれど、倒れる前に休むのが知性というものよ」
「セイル…相変わらず言い回しが難しいよ……。要するに、兄貴は真面目すぎるんだ」
フィンが地面に寝転がり、両手を頭の後ろで組んだ。
夜空には、エニグマの粒子が星屑のように瞬いている。
「覚えてるかな? ユリウス。十歳の頃だったかな。近所の悪ガキに喧嘩を売られた時、あらかじめ『負けないための戦術ノート』を三十ページも書いてきたんだよ」
「三十ページ!? そんなことあったっけ…レオン、それは……その、戦略的というか……」
ユリウスが目を丸くする。レオンは堪らず顔を伏せた。
「よせ、フィン。昔の話だ」
「いやいや、傑作だったのはその後だよ。ノートを完璧に暗記して挑んだのに、いざ対峙したら緊張で足がもつれて、最初の一歩で派手に転んだんだ。戦わずして自爆。ノートには『転んだ時の対処法』が書いてなかったから、兄貴、そのまま地面に顔を伏せて一分間動かなかったんだぜ」
「あはは! レオン!やっぱり昔から変わらないな」
ユリウスの快活な笑い声が、夜の静寂を揺らす。
セイルもまた、口元に手を当てて小さく微笑んだ。
「……一分間、じゃない。正確には五十八秒だ」
ボソリと呟いたレオンの訂正に、さらに一座の笑いが深まる。
焚き火の温もり。友の笑い声。それはかつて、当たり前のようにそこにあった日常の断片。
レオンは、笑い合うフィンたちの姿を、どこか遠い場所から観測しているような感覚に陥った。
(ああ……俺は、こうして笑っていたかったんだ)
民衆の前で振る舞う「完璧な勇者」の仮面が、一瞬だけ、その重みを失う。
だが、その安堵は、同時にもう一つの感情を呼び覚ました。
―――嫉妬だ。
「弱さ」をさらけ出し、失敗を笑いに変え、ただそこに「フィン」という個として存在する弟。
選定の光を浴びながら、何も背負わず、何も変えようとしない弟。
自分を縛り付けている「正解」や「責任」という名の鎖を、フィンはそもそも認識すらしていない。
「……いいよな、お前は。そうやって、笑っていられて」
無意識に零れ落ちた言葉は、焚き火の爆ぜる音に紛れた。
いや、紛れたはずだった。
フィンが、ふっと薄目を開けてレオンを見た。
その瞳は、暗闇の中で青白く発光する回路のように、レオンの内側を静かにスキャンしていた。
「……兄貴。昨日のスープ、少し塩辛かったな」
「え?」
脈絡のない一言に、レオンは呆気に取られた。
「セイルが作ったやつ。兄貴、『完璧な栄養バランスだ』って言って、味の異変に気づかないフリして全部飲んだだろ。俺は半分残して、セイルに怒られたけど」
「それは……彼女の厚意を無碍にするわけには……」
「そういうとこだよ。兄貴が『正解』を飲み込むたびに、兄貴の心は少しずつ不味くなってる気がするんだ。俺は、美味い飯を食いたいだけ。それだけだよ」
フィンはそれだけ言うと、今度こそ本当に寝息を立て始めた。
沈黙が訪れる。
焚き火の火が、最後の一筋の煙となって夜に消えていく。
レオンは一人、暗闇の中で自らの掌を見つめた。
この手は、明日にはまた剣を握り、世界が望む「正解」を執行しなければならない。
―――世界は、あまりに静止していた。
見上げる空の青さは夜に溶け、ただ冷酷な星々の瞬きだけが、進むべき座標を示している。
それは、愛と呼ぶにはあまりに重く。
嫉妬と呼ぶにはあまりに、切ない絆だった。
明日は鋼の町。
煤煙と鉄の響きが待つ地獄への路程。
レオンは、眠る弟の横顔にそっと毛布をかけ、再び地図を手に取った。
「英雄」という名の孤独な演技を、誰にも悟られないように、暗闇の中で何度も、何度も繰り返しながら。




