第3話:英雄の旅立ち
第3話:英雄の旅立ち
世界が「修復」される音は、ひどく無機質だった。
魔王アーク・レイヴンが去り、空に開いた「穴」が塞がると、聖都ヴィナ・カノンには何事もなかったかのように光が戻った。破壊された大聖堂の瓦礫は、青白い粒子の群れとなって虚空へ溶け、次の瞬間には、欠けた彫像も、ひび割れた大理石も、寸分の狂いなく元通りに「再構築」されていく。
ただ、失われた命と、少年の心に刻まれた「死」の感触だけが取り残されていた。
レオンは、全身の骨が軋む音を聞きながら、ゆっくりと上体を起こした。
視線の先には、青白く明滅する《天秤剣アストライオス》。
そして、その傍らで「あー、腹減ったなぁ……」と、緊張感の欠片もない溜息を吐きながら、埃を払っているフィンの背中があった。
「フィン……」
「お、兄貴。起きた? すげぇな、今の。」
「……フィン…怪我は」
「ないない。全然平気だよ」
「レオン! フィン!」
大聖堂の入り口から、セイルとユリウスが駆け寄ってくる。
セイルの《カリバーン》が放つ青い光が、レオンの傷を塞いでいく。治癒の衝撃。肉体が強引に「正常なデータ」へと書き換えられる感覚に、レオンは奥歯を噛み締めた。
「レオン、凄かったぞ! 魔王に傷をつけるなんて……! やっぱりお前は、本物の勇者なんだ!」
ユリウスの瞳は、純粋な羨望と尊敬に輝いている。
その光が、今のレオンにはどんな刃よりも鋭く刺さった。
足の震えは、まだ止まっていない。心臓は、逃げ出したくなるほどの恐怖で脈打っている。
だが。
「ああ。……ああ、そうだな。皆を不安にさせて済まない、ユリウス」
大聖堂の扉が勢いよく開かれ、避難していた神官たちや騎士団がなだれ込んでくる。
「レオン様! ああ、神よ、ご無事で……!」
彼らの目に映るのは、魔王を退け、瓦礫の山から無傷で立ち上がった「奇跡の英雄」の姿だ。
レオンは、止まらない指先を隠すように、強く拳を握りしめた。
(笑え。……笑うんだ、レオン・クラウス。お前は今、この絶望した民たちの『正解』にならなきゃいけない)
唇を噛み、血の味を飲み込む。
次に顔を上げたとき、レオンの貌は完璧な勇者のそれへと書き換えられていた。
「皆、心配をかけた。……魔王は去った。聖都は、俺が……いや、俺たちが守り抜く。だから、もう大丈夫だ」
民衆が、騎士たちが、遠巻きにレオンを見つめている。
その眼差しは、救世主への縋るような祈り。
―――断たなければならない。
期待を、弱さを、甘えを。
レオンは、自分という名の個を殺し、世界が求める「レオン・クラウス」という偶像を演じる覚悟を、冷酷に固めていく。
「……へぇ。格好いいね、兄貴」
フィンの声が、レオンの耳元で小さく跳ねた。
見透かすような、どこか寂しげな響き。
フィンだけが知っている。兄の背中が、重圧で今にも折れそうなほど、細かく震えていることを。
「そういえば、フィン。その……さっきの光、あれは何だったんだ」
「さあ? なんか『エラー』って出たよ。俺、世界からハジかれてんのかな」
「……そんなわけないだろ」
レオンは、フィンの頭に無造作に手を置いた。
唯一、この「演技」を必要としない存在。
世界がどれほど彼を「英雄」と呼んでも、この弟だけは「不器用な兄貴」として接してくるだろう。
その事実だけが、今のレオンにとって、たった一つの、呼吸を許される酸素だった。
「さて、レオン。王家からの使者が来てるよ。これからの旅の準備を始めなきゃ」
セイルが冷静に告げる。
彼女の視線は、理性的で、慈悲深い。それは時に、逃げ場のない真実を突きつける。
「わかった。……行こう。」
レオンは、アストライオスを鞘に収めた。
チャキン、と冷たい金属音が響く。
それは、彼が自らの「自由」を閉じ込めた、牢獄の錠が閉まる音でもあった。
数日後。
復興の槌音が響く聖都の門前に、五人の姿があった。
レオン、フィン、セイル、ユリウス。
そして、英雄騎士としての威厳を纏いながらも、どこか遠くを見つめるアーグス。
「……ユリウス。お前は、この旅で何を見る?」
アーグスが息子に問う。
ユリウスは胸を張り、迷いなく答えた。
「正義です。父上のような、曇りのない強さを手に入れてみせます」
「……そうか。ならば、決して目を逸らすな。正義が、何の上に立っているのかをな」
その言葉の真意を、ユリウスが理解することはなかった。
彼らを見送る数千の民衆。
先頭を歩くレオンの金髪が、朝日を浴びて神々しく輝く。
「レオン様、我らの光を!」
「魔王に鉄槌を!」
降り注ぐ歓声は、もはや濁流となってレオンの鼓膜を叩く。
レオンは一度だけ民衆を振り返り、完璧な、あまりに完璧な「勇者の微笑み」を振りまいた。
その隣で、フィンはあくびを噛み殺しながら、荷物の中にこっそり忍ばせたパンの端切れを齧っている。
「……行こう」
レオンが最初の一歩を踏み出す。
その足跡が、真っ白な街道に刻まれる。
それは、世界を救う英雄の輝かしい軌跡。
―――空は、あまりに青く、残酷に透き通っていた。
これから向かう先が、鉄と油の煤にまみれた地獄だと知っていても。
少年たちは、まだ立ち止まることを許されなかった。
叙情的な沈黙の中で、世界はただ、審判のときを静かに待ち続けていた。




