第2話:世界の終わりは、羽音もなく
第2話:世界の終わりは、羽音もなく
祝祭の鐘の音は、断末魔の叫びによって塗り潰された。
聖都ヴィナ・カノンの空を覆っていた幾何学的な光の網目――女神の加護が、鏡が割れるような音を立てて崩落していく。空に穿たれた巨大な黒い「穴」から降り注ぐのは、光を食らう漆黒のノイズ。
大聖堂の天井が、物理法則を無視して静かに「消滅」した。
瓦礫すら残らない。ただ、世界がその部分の記述を削除したかのように、ぽっかりと虚無が広がる。
「―――ッ、総員、退避せよ!」
レオンの声が、混乱に陥った大聖堂に響き渡った。
祭壇に降り立ったのは、一人の男だった。
漆黒の重厚な鎧。感情を凍土の奥底に埋めたような、怜悧な貌。その背後には、情報粒子の塵を撒き散らす不吉な翼が、死の宣告のように羽ばたいている。
魔王、アーク・レイヴン。
存在そのものが世界の「バグ」でありながら、最も「秩序」を体現する、絶対的な管理者。
アークは、跪き震える群衆を視界にすら入れない。彼の瞳に映っているのは、ただ一つ。レオンの手に握られた、青白く発光する《天秤剣アストライオス》のみ。
「……セイル、ユリウス! 民を外へ!」
レオンは、震える膝を「勇者の矜持」という名の鋼で固定し、前へ出た。
アークは何も答えない。ただ、一歩。
彼が足を踏み出した瞬間、周囲の空間が歪み、重力が倍加した。
「させ……ない!」
ユリウスが吠える。父譲りの正義感が、恐怖を上回った。
《紅蓮剣ティルフィング》から爆炎が吹き上がり、アークへと肉薄する。だが、アークは剣すら抜かない。
ただ、視線を微かに動かした。
ドォッ!
不可視の圧力。ユリウスの炎が、まるで消火剤を浴びせられたかのように瞬時に鎮火し、彼の体は真後ろの壁へと叩きつけられた。
「ユリウス!」
セイルが《賢者の杯カリバーン》を掲げ、水の帳を展開する。
アークの視線が彼女を射抜く。
慈悲はない。アークの指先が、空中に浮遊する黒い情報粒子――《ネメルディア》の断片に触れる。
それは黒い閃光となり、セイルの水の防壁を「無意味なデータ」として透過した。
「――くっ……!」
レオンの体が、思考よりも先に動いていた。
《アストライオス》を交差させ、光の盾を生成する。
黒い閃光と光の盾が衝突し、大聖堂に、この世のものとは思えない電子的な火花が散る。
「……逃げろ、みんな」
レオンの声は、静かだった。
完璧な勇者の微笑みは、もうない。そこにあるのは、血の気が引いた顔で、それでも「守らなければならない」という強迫観念に突き動かされる、一人の少年の形相。
アークは、初めてその瞳に僅かな色を宿した。
それは嘲笑でも憎しみでもない。ただ、深く、冷たい哀憐。
アークの手が、腰の黒剣《虚無装置アカシャ》の柄にかかる。
抜剣の音はなかった。
気づいた時には、レオンの視界は真横に回転していた。
「あ、が……っ」
衝撃すら遅れてやってくる。
レオンの体は祭壇の石柱を粉砕し、床を数十メートル滑って止まった。
内臓が軋み、視界が赤く染まる。
アークは、ただ歩む。止めを刺すための動きではない。ゴミを片付けるような、事務的な足取り。
「兄貴!」
その時、場違いなほどに抜けた声が、静寂を破った。
フィンだ。
彼は倒れたレオンの前に、ふらふらと立ち塞がった。
その手には、未だ実体すら定まらない「壊れた翼」――《未完の翼ダイダロス》が頼りなく明滅している。
「フィン……逃げ……ろ……」
レオンが吐血しながら手を伸ばすが、フィンは動かない。
アークはフィンの前で足を止めた。
フィンの能力値を読み取ろうとする。
だが。
『――エラー。思想条件、未定義。演算不可能。』
アークの眉が、僅かに動いた。
この少年の瞳には、恐怖も、覚悟も、正義もない。
ただ、「今日の晩飯」を案じるような、あまりに不純で、あまりに純粋な、日常の欠片だけが淀みなく流れている。
アークは無言で、漆黒の剣を振り下ろした。
世界を最適化する一撃。回避不能、防御不能。
だが、フィンの背後の翼が、バグのようなノイズと共に激しく発光した。
キィィィィィン!
「俺の弟に……触れるなあああああ!」
レオンが咆哮した。
《アストライオス》が、レオンの「守りたい」という狂信的な情熱に呼応し、暴走気味の光を放つ。
レオンは折れた肋骨の痛みも、死の恐怖も、すべてを「勇者としての責任」という燃料に注ぎ込み、アークの懐へと飛び込んだ。
光と闇の奔流が、大聖堂を埋め尽くす。
レオンの剣は、アークの漆黒の鎧を僅かに掠め、その表面に「傷」を刻んだ。
魔王の絶対性に、凡人が刻んだ、執念の傷跡。
アークは、その傷を一度だけ見つめると、剣を鞘に収めた。
アークの瞳に、初めて明確な「個」への興味が宿る。
「……そうか」
アークが、初めて言葉を発した。
その声は、地平線の彼方から届く風のように、冷たく、重い。
「次は、貴様か」
彼は、何かを確信したかのように、静かに背を向けた。
「……プライマル・コードの芽吹きを確認。これ以上の干渉は、システムの再起動を早めるのみ、か」
アークは黒い翼を大きく広げ、重力を嘲笑うように垂直に天へと昇っていく。
砕けた空の穴へと吸い込まれる間際、彼は一度だけ地上を――呆然と立ち尽くすフィンと、彼を庇うように倒れ伏したレオンを見下ろした。
そこに残されたのは、半壊した大聖堂と、鳴り止まない警報のノイズだけだった。
「……兄貴、大丈夫か?」
フィンが、レオンの隣に座り込む。
レオンは血を拭い、震える手でフィンの腕を掴んだ。
「フィン、お前……今のは……」
「わかんね。」
フィンは、いつものようケラケラと笑う。
遠くで、復興を告げる女神の鐘が鳴り始める。
空の穴は塞がり、世界は何事もなかったかのように「最適化」を開始する。
だが、少年の胸を焼く絶望、そして名付けられない絆の熱量は、システムの修復プログラムでも、消し去ることはできなかった。
「……行こう。兄貴」
フィンが手を差し伸べる。
レオンはその手を借り、立ち上がった。
―――世界は、あまりに静止していた。
空を舞うデータの欠片は、いつか見た雪に似て。
握りしめた剣の重みは、これから失うすべてのものの質量だと、この時の俺たちはまだ、知る由もなかった。




