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第82話:小話・「遠い波音」(届かぬ旋律と、一人の夜)

王国を揺るがす情報の嵐も、店舗を巡る喧騒も、この深夜の静寂までは届かない。ケニーは本店の屋上テラスで、一人、この世界で最も質の良い蒸留酒を傾けていた。

1. 異世界の星空

見上げる夜空には、前世では見たこともない二つの月と、歪な星座たちが冷たく輝いている。

酒を喉に流し込む。心地よい灼熱感が胸を焼くが、心の奥底にある「空洞」までは埋めてくれない。

(……もう、どれくらい経っただろうか)

49歳。この世界で築き上げた富も名声も、あの頃の自分が憧れた「自由」とは少し色が違っていた。ふとした瞬間に、かつて過ごした日本の、蒸し暑い夏の終わりの匂いが鼻先をかすめる。

2. 消えないメロディ

ふと思い出したのは、かつて熱狂した「海辺の街の音楽家たち」のことだ。

◯◯ンオールスターズ。

かつての自分の人生には、常に彼らの歌があった。ドライブの車内、仕事帰りのコンビニの駐車場、そして失恋した夜。

今、この世界のどこを探しても、あのしゃがれた、けれど温かい歌声は響いていない。最新の魔導蓄音機ですら、あのリズムを再現することは不可能だ。

(……『忘れじのレイド・◯ック』。好きだったな)

3. 口ずさむ「孤独」

歌詞を一字一句思い出すのは難しい。だが、身体に染み付いたメロディは、驚くほど鮮明に脳裏を流れる。

ケニーは、誰に聞かせるでもなく、小さく鼻歌を口ずさんだ。

切なくて、少し気だるくて、でもどこか救いのあるあの旋律。

酒の力も手伝って、口ずさむ声は次第に形を成していく。言葉にならないハミングが、異世界の夜風に溶けて消えていく。その瞬間だけは、彼は「情報の支配者ケニー」ではなく、茅ヶ崎の海を夢見る「一人の男」に戻っていた。

4. 49歳のセンチメンタリズム

「……ふっ、何をやっているんだか」

歌い終えると、余計に孤独が際立った。寂しさは少しだけ紛れたが、胸の奥の渇きは消えない。この世界でどれだけ成功を収めても、あの砂浜で聴いた音楽を、もう一度だけ生で聴きたいという願いだけは、決して叶わないのだから。

「オーナー、冷えますわ。そろそろお戻りください」

背後からソラリスの声がした。ケニーはグラスを置き、いつもの「隙のない経営者」の仮面を被り直す。

「ああ。……少し、遠い国の古い歌を思い出していただけだ」

二つの月に背を向け、ケニーは再び、自分が守るべき明かりの下へと戻っていった。

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