第87話:境界線上の誇り(汚れなき手と、汚れた言葉)
王都の喧騒が落ち着く深夜。本店に一人の男が怒鳴り込んできた。以前、ケニーの提案を蹴った王立ギルドの若き幹部だ。彼は引き抜いた店員たちが「元の店に戻る」と言い出したことに、自尊心を深く傷つけられていた。
1. 向けられた蔑蔑(蔑み)
「ケニー殿! 一体どんな魔術をかけた! 掃き溜めのようなレジに立たされるより、我がギルドで書類を捲る方がよほど高潔なはずだ。……あいつらは、一生ドロドロの床を掃除し、油の匂いに塗れていたいというのか!」
男の言葉には、肉体労働やサービス業に対する、根深い、そして無邪気なまでの差別意識が透けて見えていた。
2. 「高潔」の正体
ケニーは、事務作業の手を止めることすらなく、冷徹に応えた。
「……高潔、ですか。あなたは、自分がペンを握るために、誰がその部屋を掃除し、誰があなたの食べる食事の鮮度を保証しているか、一度でも考えたことがありますか?」
「それは……下々の者がやるべき当然の務めだろう!」
男の叫びを、ケニーは鋭い一瞥で切り裂いた。
「彼らの手は、確かに油で汚れ、清掃の洗剤で荒れているかもしれない。だが、その手こそが、この街の機能を一秒も止めずに支えている『生きた手』だ。……自分の手で何も生み出さず、ただ他人の労働を『位』という物差しで測るだけのあなたの指先より、彼らの拳の方がよほど清らかだ」
3. 49歳の教育
ケニーは席を立ち、男を店舗のバックヤードへと案内した。そこでは、戻ってきたスタッフたちが、驚くべき集中力で商品の検品を行い、棚をミリ単位で整えていた。
「見ていろ。彼らは、自分が何のために動いているかを理解している。……客の『助かった』という一言のために、自分たちの技術を研鑽しているんだ。それを『誰にでもできる仕事』だと切り捨てるあなたの無知が、この街の最大の損失だ」
4. 尊厳の守護者
男は、店員たちの迷いのない動きと、その瞳に宿る静かな誇りに圧倒され、言葉を失った。
「……二度と、俺の店のスタッフを『位の低い仕事』などと呼ぶな。彼らが誇りを持って働ける環境を守るのが、経営者である俺の、何よりも重い『高潔な仕事』だ」
ケニーの言葉は、深夜の店内に重く響いた。
男が逃げるように去った後、レジに立つ店員が、少し照れくさそうに、けれど深くケニーに一礼した。
49歳。彼は知っている。世間が何と言おうと、この24時間の明かりの下で働く者たちが、この国で最も「代えのきかない宝」であることを。




