第155話:原点の光(見失った宝物と、三十二人の客)
ソラリスたちとの温かな夜から数日が過ぎた。
ケニーは第801支店のバックルームで、一人、魔導端末に映し出されるケニーバンクのデータを眺めていた。
1. 麻痺していく感覚
「……落ち着いてきたな」
独りごちた声は、少しだけ掠れていた。
全店規模で見れば売上は安定している。しかし、一時期の「新店舗オープン」や「新商品発売」の時に見せた爆発的な数字の伸びは影を潜め、グラフは緩やかな下降線の後、一定の水準で横ばいになっていた。
経営者として、ブームが去った後の「巡航速度」に入るのは当然だと頭では分かっている。
だが、49歳の男の心には、冷たい風が吹き抜けていた。
(俺のやり方は、もう飽きられたんじゃないか……?)
かつては数千、数万という数字が当たり前のように叩き出されていた。それに慣れきってしまった自分がいる。数字が落ちるたびに、まるで自分自身の存在価値が目減りしていくような、得体の知れない焦燥感に駆られていた。
2. 妻が差し出した「原点」
「ケニー。少し休まない?」
バックルームの扉が開き、ソラリスが温かいお茶とお盆を持って入ってきた。
そのお盆の上に乗っていたものを見て、ケニーは目を丸くした。
「……塩むすび?」
「ええ。一番最初、あなたが王都の小さな店で、私に作ってくれたものよ。……最近のあなた、少しだけ、遠くを見すぎている気がして」
ソラリスは優しく微笑み、ケニーの隣に腰を下ろした。
ケニーは無骨な手でその塩むすびを手に取り、一口かじった。
絶妙な塩加減と、ふっくらとした米の甘み。それは、彼が異世界で初めて「商売」という名の戦いを挑んだ時の、あの泥臭くて、熱意に溢れていた頃の味だった。
3. 三十二人の重み
「……俺は、馬鹿だな」
ケニーはポツリと呟き、魔導端末の画面を切り替えた。
そこに表示されたのは、ある郊外の小さな支店の、昨日の深夜帯の来店客数だった。
『来店数:32人』
かつての自分なら、この画面を見て「たったの32人か。少ないな」とため息をついていただろう。何万という数字を見慣れてしまった目は、いつの間にか「客」をただの「数字」としてしか見られなくなっていた。
だが、塩むすびの味が、彼に大切なことを思い出させた。
一番最初の店を立ち上げた日。一日に数人しか来なかったあの頃。
自分は、店に入ってきてくれた一人ひとりの客に、涙が出るほど感謝し、深く頭を下げていなかったか。
「……32人だ。昨日の夜、誰もいない暗闇の中を、わざわざうちの看板の明かりを目指して歩いてきてくれた客が、32人もいたんだ」
ケニーの声が、熱を帯びて震える。
たった32人ではない。32の命があり、32の生活があり、そして32の「ありがとう」があったのだ。その奇跡のような事実に気づかず、数字の減少ばかりを嘆いていた自分が、ひどく恥ずかしくなった。
4. 魂の「いらっしゃいませ」
「ソラリス。……ありがとう。目が覚めたよ」
ケニーは立ち上がり、深く息を吸い込んだ。
巨大なインフラのトップとしての顔ではなく、ただ一人の「店主」としての顔つきに戻っていた。
彼はバックルームを出て、静かな店内のレジの前に立った。
やがて、自動ドアのベルが鳴り、夜勤明けの疲れた顔をした若い兵士が入ってくる。
ケニーは、背筋を伸ばし、腹の底から、今までで一番の敬意と感謝を込めて声を張った。
「いらっしゃいませ!!」
その声の大きさと温かさに、若い兵士は驚き、そしてふっと柔らかく笑った。
「……ああ。温かいコーヒーを一つ、頼むよ」
数字なんて、後からついてくればいい。
今日、目の前に来てくれた一人の客を、全力で笑顔にする。それこそが、49歳の男が異世界で見つけた、決して手放してはならない「商売の原点」だった。




