12.偽りの信徒⑦
リョユウを始めとするクイヴルの従者たち全員が人質を一人残して去ると、エテルは警護隊長代理兼アイサの世話役という形になってしまった。とはいっても、セレン役をこなすアイサは、エテルに一切面倒をかけることはない。唯一エテルを困らすことと言えば、アイサが警護隊の誰よりも早起きで、朝の散歩を楽しむことだ。エテルは責任上その散歩につき合わざるを得ず、ここ数日あくびが絶えない。
「どうしました、エテル殿? 退屈ですか?」
夕食の席でアイサは笑った。
「いえ、そんなことは」
旅先の宿では、給仕をする宿の者の他には、食卓に着くのはエテルとアイサの二人きりである。
最初の気詰まりはどうやら脱したが、エテルはアイサに自分とはまったく異質なものを感じてくつろげなかった。
アイサにはその年の娘らしいところ、つまり、他人の目に映った自分を意識する様子も、これから自分の身に降りかかることを恐れる様子も、まして、同情を引く様子もない。
エテルは自分が彼女の前でただの石ころにでもなったような気がした。
(高貴な人というのは、皆こんなものなんだろうか?)
エテルの胸に故郷に残した両親のこと、兄弟のこと、そして懐かしい人々のことが浮かんだ。
「私はエテル殿の生まれ育ったところの話が聞きたくなりました」
食事をしていたアイサが顔を上げ、エテルはぎょっとした。
アイサは無邪気にエテルを眺めている。
「セレン様のお気持ちを紛らわすようなことは何も……ただの、田舎の村ですから」
「ただの田舎の村の話が聞きたい。エテル殿の出身はどこなのです?」
「パシパから北東の方角になるでしょうか、村の者は山間の土地で小さな畑を耕し、牛や羊を飼って暮らしています」
仕方なくエテルは答えた。
「オスキュラの中央部は岩山のある荒れ地だと聞いた。その荒れ地は所々砂漠のようになっているとも。荒れ地にはエテル殿の村のようなところが他にもあるのですか?」
アイサは興味をそそられ、エテルは力を込めた。
「ありますとも。荒れ地といっても不毛の地ではありません。雨も降れば、地下水も流れています。草も、木も生えていますよ」
「まあ、そうだったの?」
エテルの目の前の娘は本当に驚いているようだった。こうなると、ぐっと年相応に見える。
エテルは思わず微笑んだ。
「私の両親も畑を作り、羊を飼っています。都のような刺激はないかも知れませんが、自由なところなんです。自分には向いている」
「こことは違って?」
アイサは楽しそうに言った。
それだけのことで、あたりが一気に輝き出すようだ。
そんなアイサに促されて、エテルは村で待つ両親や兄弟のこと、家畜のこと、気のいい村人や村の祭り、厳しいが、時として息を呑む美しさを見せる自然について話した。
「そんな暮らしから、どうしてオスキュラの兵になったのです?」
「義務です」
エテルは答えた。
「オスキュラではどの町や村も兵を出すように命じられています。割り当てが来るのです。誰も逆らえません」
「エテル殿はいつになったら村に帰れるのですか?」
「最低五年はオスキュラのために働かなくてはなりません。その後は、望めばこのまま兵として残ることができます」
「望むのですか?」
「さあ、先のことはわかりません」
それからアイサはエテルにいろいろな話をさせるようになった。
「おい、エテル、何だか楽しそうだな?」
夕食後アイサのもとを辞し、くつろぐエテルに、仲間の一人が声をかけた。
「このところ村の話をしなくなったじゃないか?」
別の男がからかう。
「食事のたびに俺の村の話をさせられるんだ」
エテルは答えた。
「あの人に話していると心が静まる。あの荒れ地に抱かれているような気がしてくる。あの瞳は風にそよぐ草原を思い出させるんだ」
「だが、もうじきポン川のほとりに着く。クイヴルともお別れだ。俺たちの任務もそろそろ終わりだな」
その一言は、エテルがずっと目をそらしていた事柄を思い出させた。エテルはあの人質を力の火のもとに連れて行かなくてはならないのだ。
「セレン様はここから逃げ出す気ならば十分それができるだろう」
エテルの気持ちを知ってか知らずか、ひとりの兵が呟いた。
数人が頷く。
エテルは顔をしかめた。
アイサは勝手に宿の外に出て町を歩いていたらしいのだ。
どうやって出て行ったのかはわからない。
見張りもいた。
警護に手を抜くことはなかったはずだ。
「いったい、どうやって外に出たのです?」
問いつめようとするエテルに、アイサは肩をすくめた。
「このくらいなら誰でも抜け出せる」
「そんなことはありません。セレン様、あなたという人は」
かっとなるエテルを見て、アイサは言った。
「わかった。もうやめる。散歩は庭だけにしておく」
「何故、お逃げにならないのです?」
アイサは答えなかった。
もちろん、エテルには想像がついた。
そんなことをしたら、クイヴルや、クイヴルの家族が窮地に立たされるのだ。
「すみません。余計なことを」
大柄なエテルは身を縮めた。
「いいのよ。気にしないで」
アイサは屈託なく答えた。
パシパが近づくにつれエテルは気が滅入ったが、任務を放り出すことはできない。
ついにエテルがアイサに告げる時が来た。
「明日はポン川のほとりに宿を取ります。翌朝にポン川を渡れば、その日のうちにパシパに着くでしょう」」
「ポン川か……わかりました」
宿の出す夕食を食べながらアイサは頷き、給仕に別の茶を頼んだ。
給仕が部屋を出る。エテルは立ち上がって扉の所に立ち、給仕の足音が遠ざかるのを確認した。
「セレン様、ポン川を渡れば、もうオスキュラです。パシパには僧兵もたくさんいます。今を逃せば、セレン様はもう逃げられなくなってしまいます」
エテルは覚悟を決めて言い、アイサはまじまじとエテルを見た。
「私に逃げろと? エテル殿がそのような冗談好きとは思わなかった」
「冗談などではありません。セレン様の背負っておられるものはわかっています。でも……あの火と何のゆかりもない他国の方を力の火の前に出すなんて、無理やりパシの信徒にするなんて、そんなことは間違っている」
「エテル殿、私がいなくなれば、あなたは責任を問われます」
「その前に逃げ出します」
「自由なエテル殿らしい」
アイサは一瞬笑みを浮かべた。
「でも、どこへ? もう、エテル殿は村に戻れなくなります。それどころか、エテル殿のご家族が酷い目に遭うかもしれないのですよ」
「それは……」
「エテル殿、私は自ら望んでパシパに行くのです。そうしなければならない訳がある。だから心配は無用です」
アイサは言い、それからその表情が冷たく変わった。
「エテル殿、私はあなたのおしゃべりに飽きました。明日からもう来なくてよい。用があるなら、代りの者をよこしなさい」
「セレン様……」
俯くエテルにアイサは背を向けた。
翌朝、エテルは日の出前に川辺の宿を出た。
宿の見張りは厳重になされている。だが、エテルは川辺に行かずにはいられなかった。
しばらくすると太陽の兆しが現れ、あたりに光が生まれる。
エテルは闇に沈んでいた川辺に小さな人影を見つけた。
その人影はエテルが近づいていっても振り向きもしない。光の中に姿を見せ始めたポン川と、その流れる先を一心に見つめていた。
「散歩は庭だけにするのでは?」
エテルはそっと声をかけた。
「私はもう来なくてよいと言ったはずです」
「警護の仕事があります。あなたは嘘つきだから油断できません」
エテルの言葉にアイサは笑い出した。
「オスキュラ兵の中にもあなたのような人がいる。エテル殿、できるだけ早く故郷にお帰りになることをお勧めします。オスキュラは皆が思うほどには安定していない。これから混乱するでしょう。そんな中で傷つくのはあなたのような人だから」
目の前に立つ人はとても人質には見えない。エテルが見たこともないほど力に満ちている。
「それでも、私にはどうすることもできないのです……」
光を避けるようにエテルは俯いた。
この時、エテルは娘の微かな溜息を聞いたように思った。
「では、いつか自分の心に聞いて下さい。自分が何を望んでいるのかを」
アイサはエテルからポン川に目を移した。
(首尾よくゲヘナを封じたとして……私は、その後、本当にセジュに帰れるのだろうか? いや、帰りたいのだろうか? オスキュラ、パシパ、クイヴル……そこには様々な思惑を持つ人々がいる……シンの周りの状況は複雑だ。こんなに混沌とした中にシンを一人残して私は……)
輝く朝日はその力を空全体に広げていく。
(迷うのは後だ。今は、まずはパシパだ)
アイサは大きく息を吸い、それから迷いをすべて吐き出すようにゆっくりと息を吐いた。




