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03 僕だけが知らない名前

 歓迎会から数日が経った。

 みんなが部屋に雪崩込んできたときは、恐怖で泣きそうになっていたけれど、あの夜を境に、僕に対して気さくに話しかけてくれるようになった人たちが増えた。

 月城くんが間に入ってくれるからか、クラスメイトたちともそれなりに交流できていると思う。といっても、月城くんほど距離を詰めてくる人はいない。みんな、ほどよい距離感を保ってくれている。

 佐々木くんなんかは特にその辺の空気を読むのが上手くて、僕が困っているとさりげなく話題を逸らしてくれる。ありがたい存在だ。


 そして月城くんは相変わらずだった。

 僕がうっかり教科書を忘れれば、僕が慌てふためく前に「大丈夫だよ」と、笑いながら机を躊躇なくくっつけて、肩が触れ合う距離で教科書を僕に見せてくる。

 食堂へ一緒に行けば、当然のように隣に座って配膳を手伝ってくれるし、なぜかデザートを僕のお皿にのせてくる。寮の部屋では四六時中だいたいそばにいて、おはようからおやすみまで、生活を共にしている。

 初日以来、ベッドに侵入されることは今のところないけど、なんやかんやといつも世話を焼かれていて、気が付けば僕は月城くんに頭を撫でられながら、本を読んだり勉強したりして過ごしている。

 こうして距離が近すぎる月城くんから、当たり前のように触れられながら過ごす日常に、少しずつ慣れてしまっている自分がいる。その事実が何より怖かった。


***


 今日は寮の掃除当番だった。

 僕と月城くんに割り当てられたのは、寮の共有スペースの掃除だ。清掃時間は放課後の一時間程度で、二人一組同じ部屋の者同士で割り振られている。


 同室になって、一緒に生活をしてみて、いろいろとわかったことがある。

 月城くんは整理整頓が苦手らしい。やろうという気持ちはあるのかもしれないけど、僕からすると片付け方があまりにもいい加減だ。


 だから、掃除当番も月城くんはさぼって僕一人でやる羽目になるんだろうと覚悟していたけれど、予想に反して月城くんは律儀に参加してくれた。

 むしろ、月城くんのテンションは掃除前より上がっている気がする。


「二人で掃除ってなんか楽しいよな」

「……そうかな」

「俺、しばらく寮の部屋一人だったからさ、掃除も一人でつまんなかったんだよな」


 だから湊と一緒に掃除できて楽しい、と月城くんは笑う。

 そういうことを真正面から堂々と言ってのけるところが、月城くんの強みだ。少し前までの僕だったら「実は心の中で何を企んでいるんだろう」と彼の言葉を疑ってたかもしれないけど、今はなんとなく彼の人柄がわかってきたので、素直に「そうなんだ」と納得できる。

 彼は多分本心からそう思ってる。もしかしたら、月城くんは寂しがりやなのかもしれない。

 ただ、問題がないわけじゃない。月城くんの掃除の仕方はあまりにも雑すぎる。


「月城くん、ダメだよそれ。埃、水拭きする前にまず掃除機かけないと」

「えー、めんどくせえ。こうやって一気にやったほうが効率的じゃね?」

「非効率的だよ! 濡れた埃が床にこびりついちゃうから」


 僕が眉を吊り上げて指摘すると、月城くんは「湊は細かいなあ」と呟きながらも素直に掃除機を取りに行ってくれた。今は素直に従ってくれたけど、僕がこんな風に注意したから、本当は内心ムッとしているかもしれない。

 月城くんがあまりにも自然に、なんでも笑顔で話を聞いてくれるから、僕は気を抜いて自己主張しすぎたかもしれないと、ちょっと後悔した。

 掃除のルールなんて、誰かに押し付けるものじゃない。でも、月城くんは、僕が思わず言ってしまったことを忠実に実行しようとしてくれているようだ。

 彼が部屋の隅のゴミや埃を丹念に掃除機で吸い取ってから、僕がモップで床を拭く。

 でもやっぱり僕が拭き始めたばかりの濡れた床を、月城くんはなんのためらいもなく上履きのまま横切ろうとしたりするので、僕は何度も彼の行動を遮らなければならなかった。


「あ、ちょっと待って! 今そこ拭いたばかり!」

「わりぃ」


 月城くんは「わりぃ」と言いながら、気にした様子もなく笑っている。

 僕は彼が通った後の濡れた床を、再度モップで拭き直した。拭いた後に踏まれると、せっかくの努力が台無しになるだけじゃなくて、床に汚れた足跡がついてかえって汚くなる。それが我慢ならない。

 僕は潔癖症なわけじゃないけど、それでも一定のルールは守りたい。


「湊って、マイルールが多いよな」


 不意に月城くんが言った。

 僕は心臓が凍り付くのを感じて、モップを握る手にぎゅっと力を込めてしまう。

 ついに僕のことが面倒くさくなったのだろうか。嫌な奴だと思われただろうか。胸がざわついて、僕はなんとか平常心を装いながら「……ごめん、やっぱり僕、細かすぎるよね」と謝っていた。


「なんで謝るんだよ。俺の方が悪いだろ。湊のやり方のほうが効率的で正しいし」


 月城くんは、あっさりとそう言った。

 そして、部屋の端の方へ移動しながら、僕が先ほどから気になっていた埃が溜まった場所を、手にしたハタキで取り始めた。

 

「湊が言ってたルール、ちゃんと覚えたからさ。まず乾いた埃をとって、それから水拭き。靴で濡れた床を歩かない。掃除の順番は上から下。あってるよな?」


 月城くんは、僕がさっき掃除しながら彼に説明したことをきちんと反芻してくれた。彼はさりげなく、自分の掃除のやり方を僕に合わせて変えてくれていたのだ。


「……覚えてくれたの?」

「えー、俺わりと湊から指摘されたら、改善してるつもりだけど。読み終わった本は本棚に、使い終わったものは元の場所に、洗濯物は放置しない。違うか?」

「あ……」


 よく考えたら最近、月城くんが脱ぎ散らかした制服やらジャージやらを僕が片付ける頻度が減っている気がする。あれは僕が寛容になったんじゃなくて、月城くんがちゃんと自分で片付けていたからだったのか。


「月城くん、でもそれ当たり前のことだよ」

「まあそうだけどさー。でも俺、結構ルーズなんだよな。弟たちからもよく怒られてたし。母さんにもガサツって言われてるし。湊に呆れられないようにって、結構気をつかってるんだけど」


 月城くんはバツが悪そうに呟きながら、髪を掻く。その仕草を見て、じわりと胸のあたりが温かくなるのを感じた。

 彼は僕の細かいルールをバカにせず、むしろ尊重しようと努力してくれていた。僕が月城くんのために何かを変える前に、彼は既に僕のために変わろうとしていたのだ。

 月城くんは人のお世話をするのは得意だけど、自分の世話は後回しにするタイプみたいだ。案外周りからは世話焼きだと思われている月城くんも、本当は不器用なのかもしれない。


「別に呆れたりしないよ。でも……ありがとう」


 消え入りそうな声でなんとかお礼を言うと、月城くんは一瞬目を丸くして、それから嬉しそうに破顔した。

 一緒に掃除をしながら、彼はスキップしそうなくらい上機嫌になる。なんだかこっちが恥ずかしくなるから、そういう表情はやめてほしい。顔に出すぎなんだよ。

 僕は気恥ずかしさを隠すため、黙々と床の水拭きに専念する。床はもうかなり綺麗になってきた。

 あとは、使った掃除用具を元の場所に片付けるだけだ。


「湊、掃除道具片付け終わったら、購買行かないか?」

「うん」

「この前食った期間限定のチョコレート菓子が美味かったからさ。湊、甘い物好きだろ? 買いに行こうぜ」


 すっかり僕の嗜好を把握している月城くんの提案に、小さく頷いた。なぜか月城くんは僕に甘いものをやたらと与えてくる。理由はわからないけど。

 それに、今では、僕が月城くんと行動を共にすることは日常になっている。絶対に無理だと思ってたはずなのに、いつの間にか彼と一緒にいることが当たり前になってしまっていた。

 それどころか、彼が僕に寄り添ってくれようとしている事実が、単純に嬉しいと感じる。


 僕が掃除道具を用具室の上の方の棚に片付けようと、背伸びをして手を伸ばした。その時だった。

 ガタン、という大きな音が頭上からしたかと思うと、ドサドサと上に積まれていた何かが一斉に落下してきた。掃除に使う様々な器具と一緒に、古びた金属製の箱のようなものまで混ざっていた。

 瞬間的に避けなければと思うのに、恐怖で足がすくんでしまい、身動きが取れない。

 

「——湊!」

 

 月城くんの切迫した声が響くと同時に、彼の大きな身体が僕を押しのけ、覆い被さってきた。

 衝撃と同時に、大きな物音がして、埃が舞い上がる。そのまま床にもつれ込むように倒れ込み、月城くんの腕が僕の頭をガードするように巻き付いたまま、数秒が経った。


「……っつ……」

 

 低く呻くような声が耳元で聞こえて、はっと我に返る。

 見れば、月城くんの右手に錆びた工具箱の角が直撃していたらしく、ぱっくりと切れた皮膚から、真っ赤な血が流れ出ている。


「月城くん!」

「へーきへーき。これくらい。しかし危ねえな。湊は? 怪我ねえか?」

「僕は大丈夫だから! 血、血が出てる!」


 こんなに血を流しているのに、月城くんはケロっとしていて、自分の怪我より先に僕の心配をしてくれた。

「病院、すぐ行こう!」

 動揺のあまり声が震える。なんでこの人はこうなんだ。僕は無傷でいるのに。僕を庇わなければ、月城くんが怪我することなんてなかったはずなのに。

 ハンカチで応急処置をしたあと、用具室から飛び出し、彼の左腕を引いて廊下を走る。

 その間も、月城くんは「大袈裟だって、湊」なんて呑気に言っている。その余裕が僕をさらに焦らせる。


 寮の管理人さんに事情を説明すると、月城くんはすぐさま車で病院へ連れて行かれた。僕も付き添いたかったけど、管理人さんから「君は部屋で休んでなさい」と言われてしまい、しぶしぶ自室へ戻ることになった。

 僕にできることは、部屋をピカピカにして彼の帰りを待つことだけだ。


 部屋で待っている間、僕の頭の中では、最悪のシナリオばかりが浮かんでは消えた。

 もしもあの怪我で、月城くんが大好きなサッカーができなくなったら? 大事なリレーのアンカーもできなくなったら?

 原因は、間違いなく僕だ。僕に避ける能力がなかったから。

 人に迷惑をかけないために、目立たず平穏に。

 最初にそう誓ったはずなのに。結局僕はまた誰かに迷惑をかけてしまった。それも、最もかけたくなかった相手に。


 夕方遅くになってようやく月城くんが部屋に帰ってきた。彼の右手には包帯がぐるぐる巻きにされている。

 月城くんの明るい顔を見て、思わず涙腺が緩むのを堪えながら「おかえり」と絞り出すように言った。情けない声だったと思う。

 月城くんは怪我した手をそっと持ち上げて見せた。


「ただいまー。骨に異常なし。ちょっと深く切ったから軽く縫ったけど、安静にしてればすぐ治るってさ」

「……本当? 後遺症とか……」

「大丈夫。念のため抜糸するまでは部活とか体育は見学だけど、体育祭は間に合うって。あ、でも湊が俺の分までリレー走ってくれるなら、俺はそれでもいいけど」


 ふざけて明るく笑う月城くんに、今度こそ涙が溢れた。


「え、嘘、なんで泣くの」

「だって、僕のせいで……僕がもっとちゃんと避けてれば、月城くんが庇わなくて済んだのに」

「なんでそうなるんだ。あれ完全に用具室の管理が悪いせいだろ? 普通は避けられないよ。それに、俺が勝手に庇っただけなんだから。湊は気にすんなって」

「無理だよ。気にするよ……」


 反論しながら、自分でも子供じみてると思った。理屈じゃわかっているけど、目の前でケガをされたのだ。怖かった。感情はなかなか整理できない。

 だけど彼は呆れることもなく、僕の頭に包帯の巻かれた右手をそっと乗せてきた。

 

「湊が無事でよかった。俺、もし逆の立場だったら、またやらかしたって、自分を責めて死にたくなってたもん」

「……やっぱり、月城くんは僕と違う生き物だよ」

「どういう意味だ?」


「だって、そこまで他人のために頑張れないよ、僕は」

「頑張ってるんじゃなくて、自然と体が動いただけだし」


 彼はこともなげに言って笑った。その言葉の重みに、僕は何も言い返せなかった。

 月城くんにとって、誰かのために自分が動くことは、自然で当たり前のことなんだ。


 ただ、僕のせいで月城くんに怪我をさせてしまったのは事実だ。せめて彼の傷が癒えるまでは、僕が月城くんをサポートしなければ。

 それが僕にできる唯一の償いだから。


*** 


 翌日から、僕はできる限り月城くんのお世話をすることにした。

 授業中のノートをとってあげたり、教科書や資料を運んであげたり。もちろん彼が嫌がることはしない。だけど月城くんはやってもらうのが当たり前だとは思わない人だから、あまりいい顔をしなかった。


「ノート取るくらい自分でできるって」

「左手で書けるの?」

「ゆっくりならなんとか」

「僕のノートをあとで貸すから。授業は集中して真面目に聞いておいた方がいいよ。成績に関わる」

「……湊って、意外と頑固だよな」


 こうして僕が説得すると、月城くんはおとなしく授業を聞くことに専念してくれた。

 普段、僕に対して何かと世話を焼いてくる月城くんだけど、自分がお世話をされる側に回るのはあまり好きじゃないみたいだ。

 だけど「ごめん」とか「ありがとう」とか素直に言えるところは、やっぱり彼の人柄だと思う。

 こういうことが自然に出来るからこそ、彼は人気者なんだろう。


 一番困ったのは、着替えだ。月城くんは右手が使えないから、制服のボタンを留めたり外したりするのに苦労している。あとネクタイを締めるのも。僕は勇気を出すことにした。

 

「月城くん、着替え手伝うよ」

「……マジで?」

「マジで」


 はっきり言って、めちゃくちゃ恥ずかしい。

 普段からスキンシップの多い月城くんだけど、能動的に触るのと受動的に触られるのは全然違うらしい。制服のボタンを外すために、かなり近くに寄らなければならない。

 いつも当たり前のように僕との距離が近い月城くんが、なぜか気まずそうに視線を逸らしている。


「……あのさ、俺、自分で脱ぐから。その方が早い」

「怪我してるのに、無理しないでいいよ」

「だって、湊の顔近すぎてドキドキすんだけど」

「なに言ってんだよ。月城くんはいつも自分から僕に密着してくるじゃん」


 顔から火が出るかと思った。

 こんな風に意識していることを、平気で言葉にするから彼はずるい。

 僕は動揺を必死に隠して、黙々とボタンに手を伸ばして作業しているのに。指先が少し震えている。シャツの布越しに、月城くんの高い体温がじんわりと伝わってきて、僕の心臓の鼓動まで速くなる。

 月城くんの顔が赤くなっているのが視界の端に入る。やめてくれ、君が照れたら僕はもっと照れるんだ。こっちを見ないでほしい。

 なんとか無事にボタンを外し終え、すぐさま月城くんから距離をとる。


「あとは一人で着替えられる?」

「ああ、うん。ありがとう」


 普段、人一倍よく喋る月城くんの口数がなぜか少なくなっていて、なんだか気まずい。僕もなにを言っていいかわからずに目を逸らしてしまう。


「なあ、湊」

「……なに」

「ズボンのベルトもちょっときつくて、外しにくいんだけど」

「…………」

「ごめん嘘」

「……なんでそういうこと言うかな」


 本当に嘘だったのかは分からない。彼の言葉を聞いて、思わず顔が引きつってしまった自覚はある。顔が青くなっていたかもしれない。

 月城くんは硬直した僕の表情を見て「冗談だよ」と苦笑いしてきた。気をつかってくれたのかもしれない。


 ただ、それよりもうひとつ大きな難関があった。


 怪我をするまでは、月城くんはだいたい夜に寮の一階にある共同の大浴場へ行き、僕は部屋のシャワーを使う。このルーティンで平和が保たれていた。

 けれど、怪我をしてから、月城くんも部屋のシャワーを使うと言い出した。

 理由は簡単で、包帯でぐるぐる巻きになった右手で大浴場に行くのは、他の生徒に気を遣わせてしまうし、怪我を庇いながら洗うのは面倒くさいからだという。


「湊ー、風呂入ろーぜ」

「だからなんで一緒に入ろうとするんだよ」


 結局、僕は月城くんの身体を洗うのを手伝うことになってしまった。

 もちろん僕は彼の前で裸になるのは断固拒否したので、部屋着のTシャツに短パンという格好だ。シャワー室へ一緒に入るだけでも抵抗があるのに、月城くんはサバサバしている。


「別に減るもんじゃないし、一緒に入って洗えばいいのに」

「やだ。めっちゃ狭いもん。あとで一人でゆっくり洗いたい」


 僕が口を尖らせて拒否すると、月城くんは「そっかあ」と言って、しょんぼりした顔をする。犬みたいな人だ。

 シャワー室が狭いのは事実だけど、それより彼の前で裸になるのは恥ずかしすぎる。彼は完璧な肉体を惜しげもなく披露しているのに、僕は、自分の細くて筋肉もない貧相な身体を見せることに激しい抵抗を覚えていた。

 月城くんは気にしないと言うだろうけど、僕が嫌なのだ。


「せっかく一緒に入るのに、湊は裸じゃないの不公平じゃないか?」

「公平じゃないのは体格のいい月城くんの方だよ」

「そんなことないって。湊はかわいいし」

「全然褒めてないから、それ」


 かわいい、という表現が引っかかって、ちょっとムッとしてしまう。

 初日に目撃したからわかってたけど、月城くんの身体は無駄な脂肪がなくて、アスリート特有のしなやかな筋肉がついている。男の僕から見ても見惚れるくらい綺麗で、そんなものを見せつけられているこっちの身にもなってほしい。


 しかも、狭いシャワー室の中で月城くんと肩が触れ合うたび、僕の心臓はドラムのような音を立てていた。この距離感で世間話をしていること自体、冷静に考えれば異常事態だ。

 僕の脳内では「逃げろ」という警報が鳴り響いている。危険すぎるので、早く終わらせてしまおう。

 先に頭を洗ってくれと頼まれたので、シャンプーを手にとって泡立て、彼の濡れた髪に手を差し入れる。


 月城くんの髪は思ったより柔らかい。一見硬そうなのに、水に濡れるとしんなりと指に絡む。強く洗わないように気をつけながら指を丁寧に動かす。

 

「ヤバい。湊の指、超気持ちいい。これに慣れると俺自分で洗えなくなりそう」

 

 月城くんが喉を鳴らして笑う。彼の熱を帯びた視線が、鏡越しに僕の顔をじっと射抜いていた。その真っ直ぐな眼差しに、泡を流す手が一瞬止まる。

 彼にとってはこの距離感は当たり前なのだとしても、僕にとっては一分一秒が試練だ。

 

「俺さあ、中学のとき弟たちの世話いつもしてたから、こうやって誰かに洗ってもらうのって新鮮かも」

「弟、何人かいるんだっけ」

「三人」

「お兄ちゃんだね、月城くんは」

「まあ、そうだけど。でも案外俺がいなくても平気だと思うよ。可愛がってはいるけどな」

 

 月城くんはそのまま目を閉じて、ぽつりと言う。その言い方がちょっとだけ寂しそうに聞こえた。


「相手にされてないの?」

「ていうか、多分バレてたんだと思う。俺が一番溺愛してたのはハルだったから。俺がハルばっかり特別扱いしてたから、他の弟たちはサッサと兄から自立したのかも」

 

 また、ハルの名前が出た。

 彼の口から語られるその名前に、僕は少しだけ胸がチクリとした。

 この流れでいうと、ハルは月城くんの家族の誰か、ということなのだろうか。それとも全くの別人か。でも、少し前に月城くんは寝ぼけて僕を抱き枕にしたときも、ハルの名前を呼んでいた。

 家族の中に、ハルという名前の人はいるのだろうか。

 どうしよう。尋ねてみてもいいだろうか。

 

「……月城くんは、今でもそのハルくんを可愛がってるんだね」

「いや、もう可愛がれないんだ。ちょっと後悔してる」

「? どういうこと?」

 


「ハルは、俺のせいで死んじゃったようなもんだから」


 彼のその言葉が耳に入った瞬間、手元が狂って、シャワーのヘッドから勢いよく吹き出したお湯が、僕のTシャツの胸元に直撃した。



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