02 無自覚な距離の、その先で
翌日の朝。普段どおりアラームより早い時間に目が覚めた。
いつもならばそのまま身支度を始められるのに、今日ばかりは何もできない。
物理的に不可能な状況に置かれていた。
昨夜僕の背後にいたはずの月城くんは、いつのまにか位置を変え、今や正面からすっぽりと僕を包み込む形で眠っていたからである。
僕の腰に彼の両腕が巻きついている状態で、簡単には抜け出せそうにない。それに、無理やり引きはがせば、よく眠っている月城くんを起こしてしまう可能性もある。
それはちょっと可哀想だ。
僕にできることといえば、月城くんの腕の中でひたすら身を竦ませつつ、ただじっと彼が自然に目覚めるのを待つことだけだった。
唯一動かせる首を動かして顔を上げると、至近距離で月城くんのきれいな顔がある。
改めてみると、本当にイケメンだ。
スッと通った鼻は高いし、眉もキリっとしている。睫毛はとても長いし、薄い唇は形が整っている。これだけ綺麗だと嫉妬すら覚えない。
こんな人がなんで僕なんかと一緒のベッドで寝てるんだろう。疑問だ。
今は瞼を閉じているけれど、キラキラした薄茶色の虹彩を持つ大きな瞳は、彼の魅力を何倍にも膨らませていることを僕は知っている。
今、彼が目を覚ましたらこの瞳が僕を視界に捉えるのだろうか。そう思うとなぜか怖くて堪らなくなって、逃げ出したくなってきた。
しばらく悶々と考えこんでいると、タイミングが良かったのか悪かったのか。月城くんは「ん~」と可愛らしく喉を鳴らしながらゆっくりと瞼を持ちあげた。
「……あ、おはよう」
ようやく解放されるとホッとしたけど、月城くんは寝惚けているのか、彼の腕はまだ僕に巻きついたままだ。僕はとりあえず、彼を見上げながら緊張気味に挨拶をしてみる。
「ん、……おはよ」
月城くんは僕を眺めながら柔らかい春陽のような微笑みを浮かべた。花でも咲かせられそうなその笑顔に見惚れていると、なぜか彼の顔がスルスルと近づいてきて、僕の額にチュッと軽いキスを落としてきた。
え? 今何をされた?
すぐに状況が把握できなくて僕が混乱していると、月城くんが徐々に覚醒してきたのか「ハッ」と小さく叫んだ。
「……ん、あ、あれ。……湊? あれっ俺……?」
バチン、と漫画のように大きい音を立てて、月城くんは自身の両頬を勢いよく叩く。
一拍遅れて、僕も自分がされたことを理解して、ぶわっと顔に血が上ってっていくのが分かった。多分今の僕の顔は熟した林檎みたいに真っ赤になっている気がする。
飛び上がるようにして、月城くんは僕から離れていった。すごい勢いでベッドから降り、床に膝をついていきなり土下座をする。
「悪ぃ! 俺、完全に寝ぼけてて……っ! ちがくて、その、間違って湊を抱き枕にしてたよな? 眠れなかったんじゃないか? 本当ごめん!」
月城くんは、寝癖で乱れた髪をぐしゃりと掻き乱しながら、心底申し訳なさそうにしょんぼり項垂れている。
その姿を見ていたら、昨日の図々しいまでの天真爛漫ぶりとのギャップがありすぎて、妙な罪悪感が芽生えてくる。
確かに最初は驚いたし、今も心臓がバクバクしているけど、予想外に安眠出来てしまっていたのも事実なのだ。
「……大丈夫だよ。ちゃんと眠れたし。まあ、ちょっとびっくりしたけど」
そう答えたら、月城くんは弾かれたように顔をあげた。不安げだった双眸は大きく見開かれ、次第に喜びに染まっていく。
あ、そういう反応するんだ。
怒られると思っていたのに、ちょっと嬉しい。そんな心情が隠し切れないのが丸わかりだ。彼の頭の上に垂れ下がった耳が見えた気がした。
月城くんの感情表現は、ストレートで分かりやすい。
「良かった〜。初日から嫌われたらどうしようかと思って焦った」
初日から部屋替えをお願いしようと、心の中で決心していた僕は、ちょっとだけ良心が痛むのを感じて目を逸らした。
別に彼を嫌っているわけじゃない。月城くんに悪意は全くなさそうで、陽キャ特有の傲慢さも無い。寧ろ人に嫌われるのを恐れて、気をつかっている節さえある。距離感はおかしいけど。
ただ、僕にとってそれは一番の問題だ。
あと、もうひとつ気になることができた。
――『ハル』って、一体誰?
そんな簡単な質問が口に出せなくて、僕はさっき月城くんからキスされたおでこを、俯きながら撫でていた。
***
転校初日。
身支度を終えた僕は、教室まで案内してくれるという月城くんと一緒に登校している。月城くんは昨夜の失態を帳消しにしようとしているのか、やけに甲斐甲斐しく僕の世話をしてきた。
「湊、こっちこっち。まず職員室に行くぞ。教科書は全部揃ってるか? 昼休みに購買とか案内してやるからな」
一人だったら、ガチガチに緊張して吐きそうになりながら歩いていたかもしれない。月城くんが横にいるおかげで、少なくとも迷子にはならずに済んでいる。
僕の歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれる気遣いはありがたい反面、やっぱり距離が近い。肩がぶつかるかぶつからないかの微妙なラインを、彼はまったく気にせずに歩く。
僕は自分を落ち着かせるため、さり気なく、三センチずつ月城くんから距離をとるように外側にずれていった。けれど離れた分だけ笑顔の月城くんがお喋りをしながら、僕に近寄ってくる。多分無意識だ。
結局、職員室に到着する頃には、僕は月城くんから廊下の端まで追い詰められていた。
職員室で担任の先生と挨拶を済ませ、ホームルームの時間に合わせて教室へ移動する。
月城くんも一緒だった。どうやら同じクラスらしい。
「先生〜、湊が慣れるまで俺の近くの席にしてあげて」
「そうか? じゃあ、月城の隣の空き席を白倉の席にするか」
またもや僕を置いてけぼりにして、先生と月城くんの間で話が勝手に進んでいく。
気がつくと僕の席は、月城くんのすぐ隣になっていた。
よりにもよって、窓際の一番明るい席だ。授業中ずっと太陽の光と月城くんの陽キャオーラを浴び続けることになるらしい。干からびてしまうかもしれない。
「よろしくな、湊」
俯いていた頭の上にぽん、と大きな手が乗せられた。
恐る恐る顔を上げれば、ニコニコした月城くんが、当たり前のように僕の頭を撫でている。
まるでペットか弟でも可愛がるかのような気安い仕草に、僕の全身は氷漬けにされたかのように、ピシリと固まった。心臓だけが早鐘を打つ。
きまずくならずにこの手を払いのけるにはどうすればいいだろう、と僕の頭が真っ白になっているうちに、彼の手はそっと離れていった。
月城くんは、僕を見つめながら、「やっと顔あげたな」とだけ言って、目を細めて嬉しそうに笑っていた。
***
「よーし、体育祭の種目決めていくぞー」
教壇に立った体育委員の岡崎くんという人の掛け声で、ざわめきが一気に大きくなる。この学校の体育祭は秋の十月。前の学校は春にやったから、僕はこれで二回目だ。
転校早々、一年に二度も体育祭を経験する羽目になるなんて、まったくツイていない。
「湊、ラッキーじゃん。一年に二回も体育祭できるなんて、お得だよな」
隣の席から、無邪気な声が降ってくる。月城くんは本気でそう思っているのだろう。純粋な羨望の眼差しを向けられて、僕は曖昧に苦笑いするしかなかった。
彼には、体育祭のようなイベントが憂鬱に感じる人がいるなんて概念、一ミリもないんだろう。
「航、お前は八百メートルリレーのアンカーやれよ」
「おう、任せとけ!」
体育委員の岡崎くんと交わされるやりとりを聞いて、やっぱりな、と思う。月城くんは運動神経も良いらしいし、性格も明るい。リーダータイプの彼は、華のあるエース扱いなのだろう。納得だ。
次々と埋まっていく種目に、僕は内心頭を抱えていた。
できれば一人で淡々と走るだけで終わるものがよかったけど、走るだけの種目はリレーしかない。あまり注目されずに済む、控えめな種目がいいのに、なんだかやたらと誰かと協力しなければいけないやつが多い気がする。
「湊。お前どうすんの?」
「えっ、まだ考えてる」
「早く決めて主張しないと、やりたくない種目になっちゃうぞ」
月城くんに急かされ、ますます焦る。すると体育委員の岡崎くんが割り込んできた。
「白倉は、前の学校のとき何に出たんだ?」
「……えっと、リレー、だけど」
「もしかして、足速い?」
周りの数人も会話に入ってきた。好奇心旺盛な視線が向けられ、身体が萎縮する。
ここで「実は速いんだ!」と堂々と言える厚顔さがあれば、どれだけ楽だろう。
「いや、たまたまなっただけで、僕走るの苦手で、すごく遅くて。前の学校でもミスして僕のせいで最後負けちゃったし……」
「え、マジか? そりゃ災難だったな。ドンマイ」
ヘラヘラしながら、何でもないことみたいに自虐的に言えば、みんな信じてくれたみたいだ。僕は心底ほっとする。
別に嘘はついていない。僕のせいで負けたのも事実だ。僕がバトンをつなぐことができなかったから。一瞬だけ胸がキリっと痛む。
安心したのも束の間、岡崎くんが「じゃあ」と提案してきた。
「二人三脚はどうだ? ペアになったらフォローもしやすいし、楽しそうじゃないか?」
「え゛」
二人三脚なんて、最悪の選択肢の一つじゃないか。絶対にムリだ。
僕はとりあえず、全力で首をブンブンブンと横に振った。それでもなお勧めてくる岡崎くんに対し、月城くんがすかさず割って入ってくれた。
「おいコラ、岡崎。嫌がってる奴に無理矢理やらせんなよな。それなら、自分のペースでできる障害物競走とかの方がまだ湊に合ってるんじゃないか?」
「そうか? おっけ! 白倉、それでいいか?」
「う、うん……」
月城くんが抗議してくれたおかげで、僕の担当種目は比較的安全なもので確定した。
正直、障害物競走だって本当は嫌だけど、他人と身体を密着させないといけない二人三脚より、遥かにマシだ。
それにしても月城くんはスゴい。自分の意見をハッキリと主張できて、しかも空気を悪くさせず、周りも納得させてしまう。
これが陽キャ特有のカリスマ性というものだろうか。僕には一生持てないスキルだ。
そのあと、リレーメンバーの補欠が必要になったときに、どういうわけか僕が指名された。
「白倉も一緒にやろうよ」と岡崎くんに言われてしまい、断る隙もなく決定してしまった。さっきからやたらと岡崎くんに絡まれてる気がする。転校生だから気をつかわれてるのだろうか。
「お、白倉もリレー出るのか。よろしくな」
後ろの席から声をかけられて振り向くと、昨日寮の食堂で会った、月城くんの幼馴染みの佐々木くんが意味深な笑みを浮かべていた。
彼も同じクラスだったんだ、と今更気づく。どうやら佐々木くんもリレーメンバーに決まったらしい。
「いや、僕は障害物競走で。リレーは補欠だから!」
慌てて訂正の言葉を挟んでいると、佐々木くんと僕のやりとりに月城くんが無理やり割り込んできた。
「湊。もし俺が怪我したりしたら、代わりに頼むな」
「絶対無理だから、絶対怪我しないで」
冗談なのか本気なのか分からない軽口を叩く月城くんに、即行で否定して、ビクビクしながら縋るような視線を送る。
すると、月城くんは僕に視線を合わせながら楽しそうに笑って、なぜかまた僕の頭を撫でてきた。
***
その夜、僕は寮の自室で引き攣った笑みを貼り付けたまま、固まっていた。
部屋に招き入れた客は総勢十人を超える。同級生だけでなく、先輩や後輩もいるらしい。
昼間クラスで話した佐々木くんや岡崎くんの顔はかろうじて分かるけれど、それ以外の人たちはもう誰が誰だか区別がつかない。
圧倒されて、月城くん以外の顔はみんな同じに見える。じゃがいもだ。
月城くんがお風呂に行ったあと、部屋の扉がノックされたので、てっきり月城くんがタオルでも忘れたのかと思って何も考えずに扉を開けたら。
「湊くんの歓迎会だよ!」と言いながら、この大量の人間が部屋に雪崩れ込んできたのだ。
本来プライベートなはずの自室が、あっという間に共有スペースと化した。
部屋の中央にどこから持ち込まれたのか座卓が設置され、周囲をみんなが取り囲んでいる。が、明らかにキャパオーバーの人口密度で、狭い空間は熱気で蒸されていた。
各々が持参したお菓子やジュースが雑多に並べられ、賑やかな笑い声が飛び交っている。
そして何よりも最悪なことに、僕の私物が置かれたデスクのすぐそばに、おそらく先輩と思われる人たちが陣取ってしまっていた。
つまり、僕が定義するところの『安全地帯』である机の辺りに、侵入者がいる状態だ。
今のところ先輩たちは穏やかに談笑しているだけだけど、いつ私物を勝手に触られるか分からないと考えると落ち着かない。
どうしよう。どうしたら追い払える?
必死に考えているけど、恐怖と焦りでまともな思考は働かない。
その場所に入らないでと告げたら、どう思われるだろうか。角は絶対に立てたくない。平和に済ませたい。そのためにはどう行動すればいい?
そもそも彼らがこの部屋に集まってくれているのは、ほぼ間違いなく社交的で人気者の月城くんが原因だ。
僕の歓迎会を建前に、みんな月城くん目的で集まってきた人たちなのだ。そんな僕が陽キャ軍団に物申したりなんかしたら、一気に空気が変わる。
もし、「ナニこいつ」みたいな冷たい視線を向けられたり、無視されたら、と想像するだけで身体が凍りついてしまう。
僕がみんなからの質問に適当に答えつつ、愛想笑いで苦しげにごまかしていると、救いの神こと月城くんがやっと浴室から部屋に戻ってきた。濡れた髪から水滴が飛んでくる。
「げ、なんだよこの人数。しかもお前ら来るの早すぎだろ」
「待ちきれなくて来ちゃった。実は白倉、航にいじめられてるんじゃないかと事情聴取してた」
「いじめてねーよ!」
月城くんが現れると、彼は一瞬で中心となり、今まで以上に盛り上がる輪ができていく。
彼はぐるっと部屋を一瞥して、死にかけている僕のことを視認した。
「湊! わりぃ、来ていきなりこんな人数押しかけさせちゃって」
「え……うん」
「あ、先輩! そこ湊の机なんで、あんま詰め寄らないであげてくださいよー! 緊張でフリーズしちゃってるじゃないですか」
彼の明瞭な声が、部屋中に届く。冗談めかしつつも、はっきりとした牽制の一言。けれど、一瞬で周囲の空気が緩み、僕の机を取り囲んでいた先輩たちは「あ、悪い悪い!」と苦笑いしながら、さっとスペースを空けてくれた。
先程まであれほど脅かされていた僕の机が、一瞬で安全地帯に戻る。僕の聖域を守り抜いてくれた。
すごい。まるで魔法使いみたいだ。
月城くんの言葉には、不思議な力がある。
ちゃんと自分の意見を主張しているのに、その場の空気を全く壊さない。どうしたらそんなことができるんだろう。彼の人柄が成せる技なのだろうか。
「湊、俺の隣おいで」
「……うん」
僕が緊張してパニック寸前であることを見抜いてか、月城くんが優しく手招きしてくれる。
僕は月城くんが指示するまま、フラフラとゾンビのように彼に近づき、その隣の狭いスペースにちょこんと収まった。
お風呂帰りの月城くんのシャンプーの匂いが、ふわりと鼻腔をくすぐる。
月城くんの隣は、さっきまでの孤独な戦場に比べたら百倍マシだった。マシ、なんだけど……今度は別の意味で、心臓の音がうるさくて落ち着かない。距離が、近すぎるのだ。
月城くんは先輩たちとにこやかに話しながら、周囲にいる人たちが何者なのか僕にも丁寧に教えてくれた。落ち着いてきちんと会話してみれば、みんな気のいい人ばかりだった。
僕は勝手に陽キャに対する偏見を抱きすぎていただけなのかもしれないと反省する。苦手な気持ちは変わらないけど。
お菓子パーティーは予想に反して終始和やかに進行し、楽しい会は二時間ほど続いた。
その間、月城くんはずっと僕の隣にいて、盾になるように外側の賑やかさから僕を護ってくれていた。
「ほら、湊。これも食べろ」
そして、なぜか僕にせっせとお菓子を与えてくる。なんだろう。世話をしなければと思われているのだろうか。
僕が月城くんからもらったお菓子を、彼の隣で大人しくモグモグしていると、月城くんはニコニコしながら僕の頭をポンポン撫でてくる。
緊張するからやめてほしいはずなのに、彼の大きな手のひらから伝わる熱に、僕は身体の芯が微かに溶けるような感覚を覚えていた。
この温かさに慣れてしまうのは、ちょっと危険な気がしていた。
「警戒心強いくせに、お菓子あげると大人しくなるところがハルっぽいな」
月城くんの柔らかい声が耳元で響く。
『ハル』。またその名前だ。
その名前を聞いた瞬間、心臓が変な音を立てて波打った。
今日一日、僕を護ってくれたこの優しさは、全部その『ハル』に向けられたものの残像なのだろうか。
そう思うと、温かかったはずのシャンプーの匂いまでもが、どこか切なく感じられた。
それでも僕は、お菓子を口に運びながら、彼の隣で小さく頷くことしかできなかった。なんだかんだ言っても今日一日を振り返ってみれば、彼には感謝するべきことが多い。




