第九十八話「井戸と、弱音と、あと宝珠」
ガルディアス城の裏手には、古い井戸があった。
城内の水場はいくつか壊れていたが、この井戸だけは無傷だった。
そこへ、セレスティアはアルドを連れてきた。
「さあ、トンソク。こちらへどうぞ」
何が、さあ、だ。
しかし、抵抗はしない。
いや、できない。
リアから許可が出ている以上、セレスティアに逆らっても、話がややこしくなる。
水浴びそのものは悪くない。
悪くはないのだが……。
「では、失礼します」
セレスティアは袖をまくり、桶に水を汲んだ。
ざばっ。
「ぶひっ!」
思ったより冷たかった。
まだ昼とはいえ、さずが井戸水である。
「すみません。少し冷たかったですか?」
少しじゃねーよ。
心臓止まるかと思った。
オークの心臓も止まるのかは知らないが。
セレスティアは布に水を含ませ、アルドの背中を拭き始めた。
ごしごし。
丁寧ではあるのだが、何か違う。
奉仕されているというより、家畜の世話をされているような感じだ。
井戸の近くでは、通りがかった兵士たちが何やらひそひそ話している。
「セレスティア様が……」
「オークを洗ってるぞ……」
「いや、あれは恩人だからな」
「恩モンスターじゃないか?」
「分からん。だが楽しそうだ」
全部聞こえている。
だが、セレスティアは気にしていない様子。
むしろ、どこか楽しそうだった。
「トンソクは、意外と柔らかいのですね」
柔らかいとは何だ。
肉質ってことか?
高級ってことか?
「もっと硬い筋肉で覆われているのかと思っていました」
失礼だぞ。
ぜい肉が多いっていってんのか、こいつ。
「でも、拭きやすくて気持ちいいです」
少し離れたところでは、メイトが井戸水で遊んでいた。
「きゅいきゅい!」
小さな翼で水を跳ね上げる。
ばしゃばしゃ。
冷たい水しぶきが、周囲に飛び散る。
「きゅいー!」
実に楽しそうである。
人間には、愛らしい小型ドラゴンが水遊びをしているように見えるだろう。
だが、アルドには分かる。
「やっべ!水つめてぇ!コイツは俺っちたちで占めましょうや!人間風情にはもったいないですぜ!見てくだせぇアニキ!」
中身は騒がしいチンピラだった。
アルドは、ため息をついた。
そして、沈んだ。
身体ではない。
気持ちが。
アルドの心は、先ほどから重かった。
どこかでは期待していたのかもしれない。
仲間と合流できれば、何とかなるのではないか。
元に戻れるのではないか。
自分の事情を知る、誰かに会えさえすれば。
そこから、すべてを取り戻せるのではないか。
そんな甘い考えが、どこかにあった。
知り合いの王。
世話になった神官。
勇者機関の上層部。
どこかに頼れば、助けてもらえるのではないか。
意外とそんなことを考えていたようだ。
自分は思っていたより、ずっとずっと甘ちゃんだった。
アルドは、空を見上げる。
井戸の縁の向こうに見える空は、青かった。
勇者機関。
懐かしい名前が出た。
アルドを含め、世界中から勇者因子の強い子供を集めて育てていた場所。
最初は、百人ほどいただろうか。
様々な子供がいた。
勇者になるための訓練を施され、成長を促される。
勝つために必要なものを、徹底的に叩き込まれる。
最終的に残ったのは、五人。
あとはどうなったか知らない。
興味もなかった。
脱落した、ただそれだけ。
五人には、それぞれ勇者しか持ち得ない特別なスキルがあった。
アルドのスキルは、『フルバースト』。
全能力を限界を超えて引き上げる、反則じみた力。
走り出したら止まれないのが問題だが。
しかし、使いこなせば、格上すら真正面から踏み潰せる。
そしてアルドは、機関でベルガ聖騎士剣を徹底的に仕込まれた。
勇者にふさわしい、心技体を融合させた超越剣技。
アルドが勇者機関に連れてこられたのは、実に四歳の時。
親のことは覚えていない。
顔も声も。
何もかも。
覚えている最初の記憶は、白い部屋と、硬い寝台と、名前ではなく番号で呼ばれていたことくらい。
アルドが正式に勇者として選ばれ、旅立ったのは十二の時。
そこから、様々な仲間と出会い、別れた。
最後の勇者パーティが揃ったのは、十六歳の時だった。
トール。
カナ。
ライン。
エリス。
共に旅をした。
何度も死にかけた。
それでも進んだ。
魔王を討つために。
人類を救うために。
裏切られたけどな。
アルドは、深くため息をついた。
「あなたは、人間の言葉が分かるのですよね?」
そんなアルドの背中を洗いながら、セレスティアが話しかけてきた。
「……」
アルドは答えない。
答えてはいけない。
こいつは何か探っている。
そして、距離感がおかしい。
僅かな油断が命取りになるかもしれない。
「父を助けてくれた時に、私たちに話しかけてくれましたよね?」
「……」
「私たちの作戦も、状況も、かなり正確に把握していましたし」
「……」
アルドは、井戸の縁を見つめる。
返事はしない。
ただのオーク。
そういうことにしておく。
セレスティアは少しだけ間を置き、別の質問をした。
「どうやって強くなったのですか?」
「……」
「命がけの修行をしたのでしょうか?」
「……」
「それとも、特別な師がいましたか?」
「……」
アルドは答えない。
答えられない。
ベルガ聖騎士剣を叩き込まれました。
各地を旅して、いろんな流派の達人から吸収しました。
勇者だったんでね。
などと言えるはずがない。
沈黙。
井戸水の音だけが響く。
ぽたり。ぽたり。
徐々に、セレスティアの顔が曇っていく。
やばい。
無視しすぎたか。
アルドは、ちらりと横目で見る。
怒ったのか。
傷ついたのか。
だが、違った。
セレスティアは布を絞ると、静かに言った。
「私も、強くなりたいのです。誰かを守れるくらいに」
アルドは、思わず振り返った。
セレスティアと目が合う。
その目は、怖いほど真剣だった。
水滴が、アルドの背中から地面へ落ちる。
「私は、近日中に王都へ向かいます」
セレスティアは言った。
「ガルディアス城奪還の報告と、今回の詳細を伝えなければなりません」
ヴァルデマールは動けない。
ならば、その代理を務められるのはセレスティアしかいない。
ガルディアスの領主家の娘。
奪還作戦を指揮した者。
ヴァルデマールを救い出した当事者。
彼女が行くしかない。
セレスティアの手は、震えていた。
背中に触れる布が、わずかに揺れる。
セレスティアは、小さく笑おうとしたが、うまく笑えていなかった。
「すみません。少しだけ、……弱音を吐かせてください」
「……」
「あなたは、誰にも言わないでしょうから」
言わないのではない。
言えないだけだ。
だが、アルドは黙っていた。
それで十分なのだろう。
セレスティアは続けた。
「さきほど、お父様が言っていたように、王都は臨戦態勢に入っています」
声が少し小さくなる。
「勇者……いえ、元勇者と対決するために」
元勇者。
「戦争が起きるかもしれません」
セレスティアは目を伏せる。
「それなら、まだいいのです」
まだいい?
「戦って散るなら、戦えばいいだけです。守るために剣を取ることは、騎士として当然です」
セレスティアの声が、震えていた。
「怖いのは、そうではない時です」
「……」
「ガルディアス城の陥落が、元勇者の仕業だとわかった場合、私たちも厳罰に処されておかしくありません」
ガルディアス城が落ちた。
事情を知れば、彼らは被害者だ。
だが、政治はそう単純ではない。
勇者アルドにしてやられた。
誰かに責任を負わせる必要がある。
「お父様は、まだ満足に動けません。兵たちも傷ついています。砦に残した者たちも、城に戻った者たちも、皆、限界まで戦いました」
布を握る手に、力が入る。
「それでも、処罰されるかもしれない」
彼女は、自分のことを言っているのではなかった。
父のこと。
兵士たちのこと。
共に死線を潜り抜けた、仲間の身を案じている。
セレスティアは怖がっている。
自分がどうなるかではない。
自分の周りにいる者たちが、どうなってしまうのか。
それが怖いのだ。
「私は……あなたのように、自分を押し通す強さが欲しい」
セレスティアは、少しだけ顔を上げる。
アルドは何も言わない。
「誰に何を言われても、必要なら立ち向かえる強さ」
「……」
「お父様を前にしても、怯まず、迷わず、己を信じる強さ」
セレスティアは、アルドを見た。
「あなたが、羨ましい」
アルドは答えなかった。
「お願いがあります」
その声は、先ほどよりも、さらに小さかった。
「王都までついてきてもらえないでしょうか?」
切なる願いだった。
命令ではない。
依頼でもない。
ただ、セレスティア個人の願い。
怖い。
そばにいてほしい。
そういう願いだった。
アルドの口から、ため息が漏れた。
それどころじゃねぇっつーの。
確かに、少し前なら、喜び勇んで、このチャンスを利用していただろう。
王都へ行く口実。
カナを探す足がかり。
使えるものは何でも使う。
だが、状況が変わった。
勇者アルドは、各国のお尋ね者。
正体を明かせば即処刑。
アルドの肉体にはデモンレイアが入っている。
カナの尻を百回叩いたところで、問題は解決しない。
いや、ものすごく叩きたいが。
これからどうするか。
どう動くか。
何を優先するか。
アルドは考え込んだ。
ふと、目の前で水遊びをしているメイトが視界に入る。
「きゅいー!」
馬鹿がはしゃいでいる。
アルドは、何気なくメイトへ声をかけた。
「なあ」
メイトが振り返る。
「デモンレイアって、どんなモンスターなんだ?勇者に乗り移って、なんか意味あんのか?」
「あー、デモンレイア様っすか」
メイトは濡れた翼をぶるぶる震わせた。
水滴が飛ぶ。
「たしか、ゴースト系だって話ですぜ」
ゴースト系。
「依り代が必要なんで、乗り移ってるんじゃないっすかね?」
「依り代?」
「そうっす。依り代がないと消えちまうんすよ。不便っすよねぇ、身体を持たないってのは」
「なんで勇者の体を?誰でもいいだろう?」
「デモンレイア様に乗り移られた体は、だんだん衰弱していくって聞いたことあるっす。普通の体だと長持ちしねぇんでしょうね」
アルドの表情が変わる。
「だから勇者か」
「たぶん。頑丈だし、魔力も多いし。都合いいんじゃねーかなー」
また爆弾だ。
メイトは相変わらず、おしゃべりで、爆弾の宝庫だった。
だが、便利だった。
乗り移られた身体は衰弱する。
勇者の肉体は、頑丈で、魔力が多く、利用価値がある。
なるほど……筋は通る。
しかし、分からない。
確かに、憑依するモンスターはいる。
だが、他人の魂を抜き、別の肉体へ移す?
そんなことまでできる奴がいたか?
少なくとも、アルドは知らない。
デモンレイア自身の能力か。
魔王の力か。
それとも、別の何かか。
アルドがそう考えた瞬間、メイトがあっさり言った。
「あー、それなら」
「ん?」
「魔王様から賜った宝珠のおかげっすね」
アルドの目が見開かれる。
「宝珠?」
「そうっす。デモンレイア様が、いつも持ってるやつっす」
なんだと!
そんな便利アイテムが!
いや、便利という言葉で済ませていい代物ではない。
魂を移す宝珠。
アルドの頭の中で、点が繋がる。
待てよ。
デモンレイア自身の生来の力じゃないってことだよな。
アイテムということは、他人が使用できる可能性が高いんじゃないのか?
道具に頼って魂を扱っている。
ならば。
奪えばいい。
勇者の身体と宝珠。
デモンレイアがいつも持っているなら、その二つはセットであるってことだ。
うまくすれば、身体を取り返せるのではないか。
アルドの心臓が、どくんと跳ねた。
勇者の身体。
本来の身体。
それさえ取り戻せば……。
勝てる。
逃げる必要もない。
世界を敵に回そうが、一人ならどうにでもなる。
なにせ、俺は歴代最強の勇者だ。
魔王を殲滅しろと言われるなら面倒だが、別に世界を救わなくていいなら楽勝。
自分の身体を取り返すため、デモンレイアから宝珠を奪う。
そのためにカナを追う。
目的が見えた。
道が見えた。
白く沈んでいた思考に、火がつく。
きたきたきた。
これだ!
これならイケる。
勝ち筋がある!
「ぶひっ!」
アルドは、急に立ち上がった。
「きゃっ」
背中を洗っていたセレスティアが驚いて手を止める。
「トンソク?」
アルドは水滴を飛ばしながら、メイトを指さした。
「おい、メイト!」
「きゅい?」
「うまいもの食わせてやるから、ついてこい!」
メイトの目が輝いた。
「マジっすか、アニキ!アニキの行くところなら、どこでも行くっす!」
誇り高きパラスワイバーンは、どこへやら。
まあいい。
アルドは、口角を上げた。
腹が決まった。
王都へ行く。
カナを探す。
デモンレイアを見つける。
宝珠を奪う。
そして。
俺の身体を取り返す!




