第八十七話「制圧と、寄生竜と、あと千里眼」
アルドは、刹那の姿のまま、ヴァルデマールの頭を踏みつけていた。
それが当然であるかのように。
ガルディアス城主であり、セレスティアの父である。
その男の後頭部を、足で押さえつけている。
セレスティアの頭に、かっと怒りが湧いた。
確かに、あの侍が勝ったのだろう。
何が起きたのかは分からない。
セレスティアの実力では、皆目見当もつかない。
父は無様に地面を転がり、そして頭を踏まれている。
それでも……。
命をかけて戦った相手にしていいことではない。
敬愛する父だ。
剣士としても、領主としても、ずっと追い続けてきた理想。
その頭を踏むなど。
「やめ――」
思わず抗議しようとした、その時だった。
「すげぇ……」
ジェイルの独り言が聞こえた。
「イグナード流を完全制圧してやがる……」
セレスティアは、言葉を失った。
完全制圧。
その言葉の意味を、遅れて理解する。
イグナード流は、負けを知らぬ剣である。
強い、という意味ではない。
負けを認めない、死ぬまで立ち向かう、ということ。
足を斬り落とされても止まらない。
腕を落とされても、残った腕で剣を拾う。
両腕を失えば、歯で剣を咥えようとする。
這ってでも前へ出る。
相打ちでもいい。
玉砕でもいい。
一撃さえ届けば!
そういう剣だ。
激情型。
だからこそ、恐ろしい。
だからこそ、強い。
それを無傷で制圧している。
頭を踏みつけられては、どうにもできない。
首を動かせないのだから起き上がれない。
なるほど。
これは侮辱ではない。
制圧だ。
最も安全に、最も確実に、イグナード流を止めている。
それでも、ヴァルデマールの身体は動こうとしていた。
ぎしり。
首の骨が軋む。
「お父様……!」
セレスティアが息を呑む。
それはヴァルデマールの意思ではない。
彼自身は、もう戦いたくない。
だが、身体は別だ。
寄生モンスターが、まだヴァルデマールを動かそうとしている。
戦わせようとしている。
アルドの足に、力がこもる。
このまま無理に起き上がろうとすれば、ヴァルデマールの首が折れる。
寄生しているモンスターにとっては、それでも構わないのだろう。
ヴァルデマールが死のうが、しばらくは身体を動かせる。
宿主が死んでも、神経命令で暴れさせることはできる。
肉体が壊れるまで使い潰せばいい。
モンスターにとって、宿主など、ただの道具でしかない。
アルドは、それを百も承知だった。
頭を踏んでいるのも、ただの嫌がらせではない。
まぁ、嫌がらせの気持ちがないと言えば嘘になる。
だが、目的は別だ。
見たかったのは、背中。
黒い翼の根元、鎧の中が不自然に盛り上がっている。
ここだ、ここにいる。
アルドは、見切った。
刹那の身体でも、中身はアルド。
無明朧流だけではない。
勇者時代に身につけた剣技の数々も、当然使える。
ベルガ聖騎士剣「ヘビィ・ダスト」。
とんでもない威力を秘めた剛剣が、振り下ろされた。
セレスティアは、息を呑んだ。
本来なら、父の心配をするはずだった。
やめて。
殺さないで。
父を殺さないで。
そう叫ぶべきだった。
だが、できなかった。
アルドの剣筋に、見惚れてしまったのだ。
それは、イグナード流を体現したような剣だった。
重く。
真っ直ぐで。
何者も寄せ付けない。
一撃にすべてを込める。
だが、父の剣とは違う。
荒々しさの奥に、清涼とした筋がある。
そんな矛盾したものが、そこにあった。
刃が落ちる。
しかし、アルドの剣は、ヴァルデマールには当たらなかった。
紙一枚、髪の毛一本ほどの距離で止まっていた。
その瞬間、衝撃だけが走った。
空気が潰れ鎧が鳴る。
背中の奥に、叩きつけるような圧が加わった。
「ぐげっ」
妙な声が聞こえた。
ヴァルデマールの声ではない。
人間の声でもない。
潰れた蛙のような奇妙な声。
アルドは剣を引いた。
「おい、もういいぞ」
刹那の姿のまま、肩越しに言う。
「終わったの?」
ジェイルとセレスティアが、慎重に歩み寄った。
「どうなったんだ?」
ジェイルが問う。
「寄生モンスターを気絶させた。首筋から神経に侵食されているはずだ。ゆっくり外してやれ」
「外す?」
「雑にやるなよ。最悪、こいつが死ぬことになる」
その言葉に、セレスティアの顔が青ざめた。
「お父様……」
「息はある。急げ」
セレスティアは、すぐに膝をついた。
ジェイルも隣へ回る。
ヴァルデマールは気を失っているようだった。
生きている。
セレスティアの口から、安堵の息が漏れた。
二人は慎重に、ヴァルデマールの鎧を脱がしていく。
普段なら何人もかけて外す重装備だ。
それを、震える手で、それでも可能な限り丁寧に。
やがて、背中が露わになった。
「……ドラゴン……か?」
ジェイルが呟いた。
セレスティアも息を呑む。
そこに張り付いていたのは、小型のドラゴンだった。
黒く、硬い鱗。
細い胴。
鋭い爪。
しかし体そのものは小さい。
猫か子犬ほど。
ただし、翼だけは異様に大きかった。
小さく縮こまり、必死にしがみつく姿は意外と愛嬌がある。
腹立たしいことに。
そのドラゴンの額から、触手のようなものが伸びていた。
細く、嫌な光沢を帯びている。
それが、ヴァルデマールの首の裏へ食い込んでいた。
「これを……外せばいいのですね」
セレスティアの声が震える。
「そうだ。途中で切るなよ。全部引き抜け」
セレスティアは息を整えた。
震える指で触手を掴む。
ぬるりとした感触。
吐き気がした。
だが、父を救うため手は離さない。
慎重に。
少しずつ。
「ぐ……っ」
意識のないヴァルデマールから、苦悶の声が漏れた。
「お父様……!」
「止めるな。止めた方が危ない」
セレスティアは涙をこらえ、さらに引く。
触手は、意外なほど簡単に外れた。
ずるりと首筋から抜け落ちた。
その瞬間、完全に気絶している小型ドラゴンの身体がびくりと震えた。
ジェイルが、張り付いていたドラゴンを引き剥がす。
「こいつが……」
床に投げ捨てる。
べちゃり。
小型ドラゴンは動かない。
セレスティアは、すぐにヴァルデマールを抱きかかえた。
自分より、はるかに大きな身体。
それでも、抱きしめずにはいられなかった。
「お父様!」
強く叫ぶ。
「お父様!しっかりしてください!」
その声に、ヴァルデマールのまぶたがゆっくりと目が開く。
焦点の合わない瞳。
それが、少しずつセレスティアを捉える。
「セレス……なのか……?」
「はいっ!」
セレスティアの涙があふれた。
「はい、お父様!セレスティアです!」
ヴァルデマールは、弱々しく息を吐いた。
それでも、微笑んだ。
「無事で……よかった……」
「お父様……!」
今度こそ、偽りではない、感動の再会だった。
セレスティアは泣いた。
ヴァルデマールの目にも、熱いものが溢れる。
そのどさくさに紛れて、アルドは通常のオーク姿に戻っていた。
メタモルフォーゼは便利だが、刹那の姿は体力を消費する。
長く保つものではない。
何より。
あの姿のまま注目されるのは、まずい。
「なあ」
ジェイルだ。
そら来た!
こいつはこういう奴だよ。
空気を読まないよな。
感動のシーンだろがい!
俺に絡むんじゃねーよ。
「ちょっと聞きたいんだが。あの時、どうやったんだ?」
「ぶひ?」
アルドは目をぱちくりさせる。
「どうやって、ヴァルデマール卿の剣をかわした?」
「ぶひぶひ?」
首を傾げる。
そして、両手を広げた。
言葉が分かりませーん。
そんなジェスチャー。
ジェイルの目が白目になった。
「さっきまで話してたじゃねーか」
「ぶひっ」
アルドは明後日の方向を向いた。
知らん。
何も知らん。
俺はただの可愛いオークだよ?
実際あの時、何が起こったのか。
その答えは無明朧流の神髄にある。
無明朧流は、相手の魂を読む流派。
ただし、それだけではない。
真に意味するのは、相手の魂と対話するということ。
相手が、こうしたがっている。
こう動きたい。
こう勝ちたい。
それを察知する。
そして。
こちらも魂で語りかける。
なら、こうしますよ。
ここで打ち合いますよ。
その一瞬。
魂が触れ、意志が伝わる。
本当に言葉を交わすわけではない。
だが、達人ほどそれを察知する。
反応してしまう。
ありもしない影を、はっきりと見る。
ヴァルデマールは、打ち合いを望んでいた。
この強者と剣を交えたい。
磨き上げた技を試したい。
己の剣が届くのか知りたい。
アルドは、それに魂で応えた。
打ち合おう。
真正面から。
一撃に魂を乗せて。
その意志を、見せた。
ヴァルデマールは反応した。
当然だ、あれほどの剣士なら。
その魂の誘いに、乗らないはずがない。
だが。
アルドの身体は、動いていなかった。
動いたように見せたのは、魂だけ、意志だけ。
刹那の姿をしたアルドは、そこにいた。
実際の肉体は、まだ間合いの外に残っていた。
結果。
ヴァルデマールの剣は空を斬った。
その事実に気づいたのは、地面を舐めた後だった。
それまでは、自分の見えていた物が幻だったという事実にすら、気づけなかった。
剣士なら誰でもできる技ではない。
むしろ、できる者がおかしい。
アルドを含めても、世界で数人。
その領域の技だった。
だからこそ、まずい。
そこから辿れば、オークがアルドであるという事実に到達するのは、そう難しくない。
勇者が寝返った。
その噂の真実を確かめるまでは、正体を明かせない。
今はまだ、すっとぼける。
知らぬ存ぜぬ。
それが最善。
そして、のちに判明する。
結果的に、アルドのこの判断は正しかった。
なぜなら、この作戦を計画したのは、勇者パーティの一人、『千里眼の魔導士』。
トールだったのだから。




