第八十三話「悲鳴と、見切りと、あと鏡」
「ぶひいぃぃぃぃぃっ!」
アルドの情けない悲鳴が、謁見室中に響き渡る。
その声を聞いて、キマイラは笑っていた。
獅子の口が歪む。
蛇の尾が、愉快そうに床を叩く。
電撃を放つ。
ドガンッ。
アルドが逃げる。
また電撃を放つ。
バチバチッ!
「ぶひゃああっ!」
またアルドが逃げる。
まるで、猫がネズミを弄ぶようだった。
場違いなオーク、最初はそう思った。
なぜ、こんなところにオークがいるのか。
なぜ、こんな奴が自分の前に立っているのか。
疑問だった。
だが、攻撃してみると、意外なことが分かった。
避ける。
このオークは、器用に避けるのだ。
しかも、悲鳴を上げながら。
短い足で部屋中を走り回り、腹を揺らし、涙目になりながら、それでも電撃を食らわない。
実に滑稽。
そして、だんだん楽しくなってきた。
踊れ。
もっと踊れ。
キマイラは、また雷を撃つ。
「ぶひぃぃぃ!」
アルドは情けなく飛び退いた。
柱の陰から、リアが叫ぶ。
「こらっ!トンソク!しっかりしなさい!」
「ぶひぶひっ!」
アルドが抗議する。
やかましい。
お前は黙って隠れていろ。
そう言いたかったようだ。
だが、実際に出てるのは「ぶひぶひ」。
まるで冗談のような光景だった。
だが、キマイラにとって、人間の子供の存在は冗談では済まない。
柔らかい。
小さい。
美味い。
このキマイラは、多くの人間を食ってきた。
食った人間に区別はなかった。
戦うもの、逃げるもの、無抵抗のもの。
裂けば赤く、噛めば柔らかい。
だから、リアのことも当然認識していた。
柱の陰にいる極上の肉。
後で楽しもう。
そう考えていた。
ただ、仲間を呼んだのは失敗だったかもしれない。
どういう方法を使ったのかは分からない。
が、この部屋にはたくさんの人間が現れた。
ごちそうだ。
ごちそうが、自分たちの巣にやって来た。
だが、部屋の表にいる人間程度、長くは持たないだろう。
入口を塞いでいるようだが、城中のモンスターが押し寄せれば、いずれ破れる。
ここへなだれ込んでくるのも時間の問題。
そうなれば、早い者勝ちになる。
あの子供を横取りされるのは困る。
ならば。
このオークで遊ぶのは、そろそろ終わりにするべきだ。
キマイラは、獅子の頭を低く沈めた。
鋭利な爪が床を噛む。
次の瞬間。
首を飛ばすつもりで踏み込んだ。
だが……アルドは、すっと間合いから離れていた。
まるで、来ると分かっていたかのように。
爪は空を裂き、石床に傷だけが残る。
いらっ。
今度は、もう少し真面目に踏み込む。
床を蹴り距離を潰す。
だが、またしてもアルドは距離を確保していた。
ぽてぽてした体で。
いらっ。
偶然だろう。
偶然のはずだ。
だが、このオークは妙に旨いタイミングで距離を取る。
キマイラの苛立ちが増す。
仕方ない、面倒だが全力を出す。
キマイラは、床を砕くほどの勢いで駆けた。
だが、今度はアルドの方から突進してきた。
「ぶひいいっ!」
真正面から悲鳴つきで。
キマイラの爪が振るわれるが、アルドはその脇をすり抜けた。
一瞬の交差。
触れられない。
またしても。
キマイラは振り返る。
獅子の喉が、怒りで鳴った。
よく考えれば、電撃は一度たりとも当たっていない。
だが、それは当然だった。
無明朧流。
その極意は、相手の急所となる部分を感知するだけではない。
動きを見るのではない。
筋肉の動作を読むのでもない。
呼吸を追うのでもない。
魂の在り方から、次を読む。
すべてのものは、動く前に心が動く。
攻撃しようとする意志。
逃げようとする意志。
殺そうとする意志。
恐れ、怒り、欲。
それらが、肉体よりも先に揺れる。
その気配を感じること。
それこそが、今アルドがやっている動きだった。
達人同士になれば、その気配すら消す。
互いに心を沈め、無心を読み合う。
無我の境地、そう呼ばれる領域。
一対一なら無敵を誇る。
それが無明朧流だ。
モンスターがこの境地に至るはずがない。
少なくとも、目の前のキマイラには無理だった。
怒り。
食欲。
嗜虐心。
誇り。
苛立ち。
全部、だだ漏れである。
アルドから見れば、すべてがテレフォンパンチだった。
爪を振る前に、爪が来ると分かる。
牙を開く前に、噛みつく気配が見える。
電撃すらも『今からここに撃ちますよ」、そう大声で叫んでいるようなものだった。
当たれという方が難しい。
倒さなくていいなら。
間合いを取っていいなら。
距離は、アルドの味方だった。
そして、キマイラの苛立ちは最高潮に達した。
逃げるなら逃げればいい、その逃げ道があるのなら。
キマイラは、口を大きく開いた。
喉奥に炎が灯る。
熱が増大していく。
獅子の口の中で、巨大な火球が膨れ上がる。
最大火力。
全力の火炎攻撃。
辺り一帯を焼き尽くすつもりだ。
避けられるなら、避けてみろ。
空間ごと全て燃やす。
アルドの目が見開かれた。
恐怖に慄いたように見えた。
もう遅い、後悔しながら、丸焼けになれ。
キマイラは勝利を確信する。
そして、極大火炎が吐き出された。
謁見室を埋め尽くすほどの炎。
赤い奔流。
熱が空気を歪ませる。
だが、アルドは逃げなかった。
万能包丁を構え、刃先を炎へ向ける。
「馬鹿がっ!」
そう叫んだ。
実際には。
「ぶひぃ!」
アルドの剣が、淡く光った。
エルヴィント魔剣術「リャクレイの鏡」
それは、魔法の種類や大きさに寄らず、相手の放った魔法、あるいは非物理的攻撃の属性を変える技である。
防ぐのではない。
受け止めるのでもない。
跳ね返す、という言葉ですら少し違う。
起きた事象の中身を書き換える。
その攻撃が、どこへ向かうのか。
どのような効果を及ぼすのか。
その命令を改ざんする。
完全な対魔法カウンター。
しかも、この技は相手の攻撃の大きさによって、消費MPが変わらない。
巨大な炎だからといって、その熱量を力で押し返すわけではない。
そう、力比べではない。
現象の変更。
アルドは、キマイラの炎に二つの命令を刻んだ。
一つ、方向。
進行方向を逆に。
二つ、収束。
拡散する炎を一点へ絞り、熱線へ変える。
炎の奔流が、剣の前でぐにゃりと歪んだ。
赤い壁が折り畳まれように収束する。
荒れ狂う火炎が、細く、鋭く、白熱する。
炎はレーザーのような熱線へ変わった。
そして、跳ね返る。
どこへ?
もちろん出所へ。
キマイラの、いまだ呑気に開けている口へ。
白熱した熱線が、一直線に突き刺さった。
獅子を貫く。
頭蓋を貫通した熱線は、そのまま、後方の石壁へ穴を穿った。
焼けた匂い。
キマイラの目が、ぐるんとひっくり返る。
何が起きたのか理解できなかっただろう。
キマイラの巨体が揺れた。
一歩。
二歩。
そして、そのまま崩れ落ちた。
謁見室の床が震える。
動かない。
勝負は終わった。
狙っていたのは、これだった。
キマイラの最大火炎攻撃。
それを待っていた。
リャクレイの鏡。
一見、便利そうな技ではある。
相手の魔法を利用して、相手を滅する。
実に性格が悪い、アルド好みの技ではある。
だが、この技は決定的にアルドに向いていなかった。
理由は二つ。
一つ目。
相手の攻撃を待たなければならないこと。
勇者時代なら、相手の攻撃を待つより、自分から斬った方が手っ取り早かった。
しかも、その方が威力も高いという。
二つ目。
高度に練られた魔法には使えないこと。
命令構造が複雑すぎる魔法。
術者の制御が強すぎる魔法。
最高位の魔術師や、伝説級モンスターが放つような魔法。
そういうものには、干渉できない。
つまり。
アルドが本当にカウンターせざるを得ないほど強い相手には、使えない。
逆に、この技が通る相手なら、普通に斬ればよかった。
だから、使う機会がなかった。
実戦で使ったのは、今回が初めてである。
思ったより、うまくいった。
MP消費も軽い。
ついでに、かなり格好いい。
アルドは大満足だった。




