第八十二話「余裕と、囮と、あと不運」
ジェイルは、間合いを測っていた。
対して、キマイラが低く唸る。
獅子の喉が鳴り、山羊の角に細い雷が走る。
互いに、必殺の一撃を狙っている。
いや、正確には、キマイラだけがそう思っている。
ジェイルにとって、今の間合いは遠い。
双剣使いの彼が、決定打を入れるには距離がありすぎる。
飛び道具なし。
魔法なし。
剣技なし。
この距離から、キマイラを仕留める攻撃方法など、ジェイルは持っていなかった。
だが、初見のキマイラに、それが分かるはずもない。
これが、人間とモンスターの違いだった。
モンスターは、種族ごとに攻撃方法がある程度固定されている。
キマイラなら爪、牙、炎、雷。
単純に強い。
だが、事前に情報は揃っている。
一方で、人間は違う。
職業があり、スキルがあり、道具があり、癖がある。
同じ人間でも、何をしてくるか分からない。
だから、情報戦では、人間が圧倒的に有利になることがある。
キマイラには分からないのだ。
ジェイルの使ったデュエルフォーチュンが何なのか。
あの頭上に浮かんだ十面ダイス。
アレによって、何が起こるのか。
この時、キマイラがひたすら遠距離から電撃か炎を放っていれば、勝負はあっさり決まっていただろう。
ジェイルは属性攻撃への耐性があったわけではない。
例えば、距離を取られ、電撃を浴びせ続けられれば丸焦げ確定。
それだけで終わる。
だが、ジェイルは逃げなかった。
臆しもしなかった。
双剣を構えたまま、余裕すら感じさせる顔で立っている。
当然、何かあると警戒する。
それでキマイラは踏み込めなかった。
ジェイルは、それを見逃さない。
「もういっちょ、いっときますか!ロール・ザ・ダイス!」
ジェイルが笑う。
再び、頭上に二つの十面ダイスが浮かぶ。
キマイラの目が、その動きを追った。
明らかに警戒している。
かつてのジェイルなら、その出目に命運をかけていた。
良い目が出ろ。
使える能力が来い。
頼む。
祈り、期待し、そして一喜一憂していた。
だが、今は違う。
スキルに祈るのではない。
スキルを利用する。
ジェイルの行動は、意外だった。
キマイラの視線が頭上へ向いた瞬間、ジェイルは片方の剣を投げた。
鋭い音を立て、剣が飛ぶ。
キマイラは反応できなかった。
意識はダイスへ向いていたのだから。
未知の能力。
その警戒心を、ジェイルは利用した。
剣は、いとも簡単にキマイラを捉えた。
肩口に突き刺さる。
キマイラが低く唸った。
しまった、そう思ったに違いない。
ここから何をされる?
それとも、すでに何かされたのか?
想像がつかない。
キマイラは、追撃に備え、全身に力を込めた。
だが……。
何も起きない。
刺さった剣は、ただ刺さっているだけ。
ジェイルは構えたまま。
ダイスは止まった。
七十八。
効果は、『絶対知覚』。
死角にいようとも、敵の位置、動き、気配、殺気、呼吸、重心。
この部屋で誰がどこにいて、何をしようとしているのか。
すべてが手に取るように分かる。
見なくても、全部分かる。
だからどうした。
誰もが普通に見えている。
少なくとも、今この瞬間、肩に剣を刺した追撃としては何の役にも立たない。
ジェイルとキマイラの間に、奇妙な空気が流れた。
沈黙、警戒、困惑。
そして。
怒り。
獅子の顔が歪む。
こけおどし。
この人間がやったことは、ただのこけおどしだ。
それなのに、余裕ぶった顔をしていた。
脅し、惑わせ、虚勢を張った。
誇り高きキマイラが、最も嫌う行為だった。
遠距離から電撃で仕留める?
ない。
そんな終わらせ方では足りない。
強さを示さねば。
格の違いを思い知らせねば。
こんな貧弱な人間を警戒した、自分自身が腹立たしい。
キマイラは、あえて爪と牙を使うことを選んだ。
全身を沈めると床が軋む。
次の瞬間、巨体が弾けた。
速い。
獣族モンスターらしい、爆発的な加速。
キマイラは一足で間合いを詰める。
爪で裂く。
牙で食いちぎる。
単純。
だからこそ恐ろしい。
爪がジェイルを襲った。
だがジェイルは逃げなかった。
素手で受け止めてしまったのだ!
キマイラの目が見開かれる。
止めた。
自分の爪を、この人間がっ!
しかも、力は互角。
いや、わずかだが、ジェイルの方が押している。
「っは!」
ジェイルは、残った剣を突き出した。
狙いは眉間。
生物の急所。
だが、それをキマイラの牙が許さない。
獅子の顎が刃を噛み止める。
ぎりぎりと金属が軋む音。
しかし、ジェイルは、その剣をあっさり離した。
キマイラの目に動揺が走る。
なぜ離す。
なぜ武器を捨てた。
その瞬間、ジェイルの両手が空いた。
彼は、あろうことか、キマイラの体へ踏み込むと。
「しょっ!」
ジェイルは、キマイラの前足と胴を掴み、体を沈め、腰を入れる。
そのまま背負い投げ。
巨大なキマイラの体が、宙に浮いた。
どんっ!
謁見室の床が揺れる。
キマイラは、ぶざまに背中から落ちた。
だが、さすがは獣族モンスター。
キマイラは一瞬で起き上がった。
爪を立て、牙を剥き、攻撃に備える。
だがジェイルは追っていない。
その場から動いてもいなかった。
相変わらず、余裕そうな顔をしている。
キマイラには、それがすべて腹立たしかった。
力で人間に負けたこと。
投げられたこと。
腹を見せられたこと。
そして、隙を見せたのに、必死に食らいついてこないこと。
まるで、格上ですと言わんばかりの態度。
許せない。
「来いよ、犬っころ」
言葉が通じているかは分からない。
「それとも、猫ちゃんだったか?」
だが、ジェイルが挑発していることは伝わった。
完全に伝わった。
キマイラの怒りが、さらに膨れ上がる。
もう、絶対に雷も炎も使わない。
そう決めた。
どちらが上か。
どちらが強いか。
どちらがオスとして格上か。
はっきりさせる!
キマイラの動きが、さらに加速した。
縦横無尽に謁見室を駆け回る。
柱が爆ぜ、床が削れる。
方向転換の度に建物が損壊していく。
爪が、牙が、次々とジェイルを襲った。
ジェイルは避ける。
だが、完全ではない。
頬が裂け、肩を抉られた。
血しぶきが舞う。
地力では、キマイラの方が上だった。
当たり前だ。
ジェイルは強い。
だが、人間だ。
キマイラは強力な獣族モンスター。
正面から打ち合い続ければ、当然差は出る。
キマイラの爪が、ジェイルの脇腹を浅く裂いた。
ジェイルは、よろよろと一歩下がる。
そこで、なぜか首を傾げた。
あまりに場違いな動きだった。
キマイラは一瞬、呆れた。
この状況で何をしている。
追い込まれ、死が迫っているこの状況で。
分かった。
こいつは、どうかしているのだ。
まともではない。
恐怖で錯乱している。
今、ようやく理解した。
ならば、とどめを刺してやろう。
キマイラは床を蹴った。
上下逆さまになっている愚かな人間へ向けて。
ん?
上下逆さま?
キマイラの世界が回る。
天井が床になり、床が天井になる。
石柱がぐにゃりと曲がったように見えた。
倒れているのは、ジェイルではない。
自分だ。
キマイラ自身が、床に崩れ落ちていた。
足に力が入らない。
視界が回る。
体が動かない。
「よかった。毒が効かないのかと心配したぜ」
ジェイルの声が聞こえた。
そう。
デュエルフォーチュンで最初に引き当てていた効果。
それは、毒付与。
初撃で投げた剣。
キマイラの肩口に刺さった刃。
あの時点で、毒は入っていた。
ジェイルの勝ち筋は、火力で押し切ることではない。
キマイラを毒状態にして、時間を稼ぐこと。
そのために、彼は虚勢を張った。
警戒させり、怒らせたり。
電撃と炎を封じさせるため、わざと接近戦に引きずり込んだ。
すべては、毒が回るまでの時間稼ぎ。
ジェイルは血のついた口元を拭った。
「体がデカいと、効きが遅いんだな」
そう呟いた。
だが、キマイラにはもう聞こえていなかった。
獅子の口から泡を吹き、山羊の角から最後の雷が散る。
そして、動かなくなった。
キマイラは絶命していた。
ジェイルは倒れた巨体を見下ろす。
それから、肩で息をしながら笑った。
「運が悪かったみたいだな、ご愁傷様ってことで」




