第七十一話「勝利と、進化と、あと黒いオーク」
ぜいぜい。
肩が上下する。
全身が汗だくだ。
砂を噛むような表情。
いや。
本当に口の中が砂だらけだ。
ぺっぺっ。
アルドは口中の砂を吐き出す。
戦いの余韻。
そういうものに浸る前に、まず砂をどうにかせねば非常に不快。
だが、何はともあれ完全勝利である。
モンスターの群れは壊滅。
ランドコカトリスのチャンピオン個体も討伐。
ガルディアス砦に向かうはずだったモンスター侵攻は、アルドとジェイルの二人によって食い止められた。
そう、たった二人だけで。
正確には、リアも黒焦げ料理で参戦していたが。
もしかして、影の功労者か。
アルドは首をひねらざるを得ない。
あれが勝負の決め手になったのだから。
遠くで見張っていた三人の兵士たちは、しばらく呆然としていた。
誰も声を出せなかった。
目の前で起きたことが、あまりにも現実離れしていたからだ。
百を超えるモンスターの群れ。
しかも、ランドコカトリスを中心とした、危険な混成部隊。
普段の侵攻とは規模が違う。
倍、いや、質を考えればそれ以上かもしれない。
もし、あれが砦に到達していたら。
ここを突破されていたら。
砦は全滅していた可能性すらある。
仮に勝てたとしても、壊滅的な被害を受けていたのは間違いないだろう。
未曽有の危機だった。
それを……オークと冒険者ひとりで……。
片付けた。
「報告だ。早く、セレスティア様に知らせないと」
一人がようやく声を出した。
「信じてもらえるかな?」
「見たまま言うしかないだろ」
三人は大慌てで砦へ走り出した。
ガルディアス砦、始まって以来の快挙。
空前絶後の大快挙である。
もっとも、その快挙を成し遂げた当の本人は、というと。
ランドコカトリスのチャンピオン個体を見下ろしていた。
首を失った巨体。
強敵だった。
ジェイルには分かった。
トンソクは、今、何かを噛みしめている。
モンスターとはいえ、命をかけて戦った相手。
強敵との別れ。
もちろん、勝利の充足感の方が大きいだろう。
だが、それだけではない。
どこか寂しさもある。
強敵と書いて、「とも」と呼ぶ。
命をかけて戦うということは、互いに理解し合うということでもある。
言葉などなくても。
種族が違っても。
死線の中でしか分かり合えないものがある。
ジェイルは、静かに見守る。
やはり、トンソクはただのオークではない。
この背中に、どれほどの宿命を背負っているのか――。
そしてアルドは考えていた。
蒸しか。
焼きか。
それが問題だ。
チャンピオン個体の肉質はいかほどのものか。
普通のランドコカトリスより筋肉が発達している。
おそらく、硬い。
だが、その分、旨味も濃いはず。
じっくり蒸して柔らかくするか。
あるいは、皮をパリッと焼いて、噛みごたえを楽しむか。
香草があれば最高。
旨塩があればなお良し。
いや、贅沢は言うまい。
今はあり合わせの物で我慢してやろう。
あの触れるだけで斬れそうな殺気は、どこかへ消し飛んでいた。
完全にいつものブタ顔である。
アルドは、ふっと息を吐くと、メタモルフォーゼを解除した。
ワイルドオークの姿が崩れ、筋肉質だった体が縮む。
だが、そこに現れたのは、いつものピンク色のオークではなかった。
漆黒で小柄。
リアとそう変わらないほどの背丈。
今まで見たこともないオークの姿だった。
「おい!お前その姿はどうしたんだ!?」
ジェイルが目を見開く。
驚くのも無理はない。
そこにいたのは、見たこともない小柄なオーク。
どこか、影のように薄く、悪戯を企んでいる子供のような姿。
それが、アルドの新たな進化、「ハイドオーク」だった。
時は、少しだけ遡る。
アルドが、上半身だけで地面を駆けていった時のこと。
両腕だけで、がしがし、口には万能包丁。
下半身はない。
残ったアルドの頭にあったのは、一つだけ。
ジェイルが落とした料理。
あれを食えば、体が戻るはずだ。
正確には、もう一つあった。
殺す。
絶対に殺してやるからな、あの鳥野郎。
なぜここまで怒りが湧いてくるのか、アルド自身にも分からなかった。
感情というより、魂の命令に近い。
理屈ではない。
遺伝子に刻まれた何か。
奥底に埋め込まれた衝動。
かつて、剣の師である『刹那』に言われた言葉が、頭の片隅をよぎった。
お前の中には、もう一人のお前がいる。
お前という人間ではなく、『勇者』という概念そのもの。
御せよ。
でなければ、それは、いつかお前自身を飲み込むぞ。
知るか。
なら、この滾る何かを、どこにぶつければいい。
答えてみろ!
アルドは地面を掻きながら、内心で吐き捨てた。
そして見つけた。
ジェイルが落とした料理。
いや、料理だったもの。
モンスターに踏まれ、ぐちゃぐちゃになっている。
どれが何の肉なのか分からない。
焦げた生焼け。
矛盾まみれの土まみれ。
泥と一体化している。
もはや食べ物ではない。
だから?
あの鳥野郎を殺すのに、それが何の関係がある?
アルドは、その泥ごと散乱していた料理を貪り食った。
土まみれ?
関係ない。
もともと炭化していたのだ。
味?
丸飲みすれば関係ない。
飲み込め。
取り込め。
力に変えろ。
この滾る感情のままに!
アルドは泥と肉と焦げを、まとめて腹へ流し込んだ。
その瞬間。
体の奥で、何かが弾けた。
レベルが上がる。
一つ。
また一つ。
さらに一つ。
泥の中の料理は、複数のモンスターのものが混じっていたのだろう。
アルドの体が熱くなる。
力が満ちる。
そして、頭の中に声が響いた。
『レベルが10になりました。進化しますか?』
あたりまえだ。
アルドは即答した。
使えるものは何でも使う。
オークだろうが、スライムだろうが、モンスターだろうが関係ない。
勝つためなら、何でもやる。
進化開始。
アルドの形が変わる。
崩れた体が、再構築される。
スライム状だった肉が収束し、別の質感を帯びる。
黒く。
影のように。
そして、声が響いた。
『ハイドオークに進化しました』
ハイドオーク。
アルドは記憶を辿った。
確か、そういうモンスターがいた。
物がなくなると、子供がからかい半分に言う。
ハイドオークに持っていかれたー。
そういう存在。
戦闘しているところなど、ほとんど見たことがない。
とにかく手癖が悪い。
何でも盗む。
どうやっているのかは、長年の謎とされていた。
追い詰めても、煙のように消える。
だから、ハイドオーク。
隠れるオーク。
盗むオーク。
消えるオーク。
体も小さく、ノーマルオークより戦闘には向いていない。
だから?
アルドは口の端を歪めた。
進化したからといって、今までの能力が失われたわけではない。
確かに、スライムボディではなくなった。
実体を持つようになった。
だが、メタモルフォーゼの能力が失われたわけではない。
スライムオークに進化した後でもワイルドダッシュが残っていたように、これまで得た能力は形を変えても残っている。
ならば、今、戦闘に適した体へ変わればいい。
ワイルドオークへ。
アルドの体が再び変形する。
漆黒の小柄な姿から、茶色の剛毛をまとった戦闘形態へ。
レベルアップの効果か。
あるいは、アルドの怒りか。
力が漲る。
そして、アルドは走り出した。
ここまでが、先ほど起こったことだった。
そして今、戦いは終わり、アルドはハイドオークの姿で立っている。
ジェイルが目を丸くしたまま固まっていた。
「トンソク……お前、また変わったのか?器用な奴だな」
まあな。
ちょっと得意げな顔をした。
だが、本心では違う。
この姿、小さい体躯。
リアとそんなに変わらない。
歩幅がとにかく短い。
一歩が小さ過ぎる。
移動に時間と労力がかかる。
これはイカン。
そして何より……。
ジェイルが見下ろしてくる。
それが果てしなく気に食わない。
ならば、答えは一つ。
メタモルフォーゼ。
アルドの体が、再び変化する。
漆黒の小柄な姿から、見慣れたピンク色のオークへ。
いつもの姿。
戦闘には向いていないし、格好も良くない。
威厳もない。
だが、体力消費がない。
省エネ形態。
結局、ここに落ち着く運命。
「次から次へと、何がしたいんだ?」
ジェイルが呆れたように言う。
知るかっ!
俺が聞きたいわ!
アルドはブちぎれそうになった。




