第六十話「乱戦と、点火と、あとガス欠」
兵士の一人が、白目を剥いて倒れている。
顎を打ち上げられ、宙を舞い、地面に落ちた男だ。
動かない。
もちろん、死んではいない。
少なくとも、アルドは殺す気では殴っていないはず。
たぶん。
本人基準では。
「……」
砦の中に、沈黙が落ちる。
全員が、倒れた男を見ていた。
そして、アルドを見る。
アルドは拳を構えたまま、鼻を鳴らした。
「ぶひ」
セレスティアの話は聞こえていた。
「素手で試す」「何人相手でも構わない」
兵士たちも聞いていたはずだ。
なのに、誰も動かなかった。
ぬるい。
あまりにもぬるい。
ルールを決めて。指示を待って。きれいに並んで。
開始を待つつもりか。
ここは戦場ではないのか。
敵が待ってくれるとでも。
「始め」と言うまで攻撃しない?
馬鹿か。
戦いは、始められる時に始めるものだ。
だから、アルドは動いた。
さらに呆けている兵士の一人へ踏み込む。
左ストレート。
どごっ!
拳が、革製の胸当てに深く沈みこむ。
「ぐえっ!」
男が後ろへ吹き飛んだ。
その背後にいた別の兵士を巻き込み、二人まとめて転がった。
さらに一人巻き添えで、後頭部を打って白目を剥く。
計三人。
効率がいい。
アルドは軽やかにステップを踏んだ。
丸い腹が揺れ、短い足が地面を叩く。
見た目は完全にふざけている。
が、その動きは鋭く、無駄がない。
この時になって、兵士たちはようやく理解した。
このオーク戦う気だ。
しかも、やる気満々。
「こ、この野郎!」
「ふざけやがって!」
「殺せ!」
「殴り殺せ!」
怒号が飛び交う。
怒りに任せて暴行の限りを尽くすつもりだった兵士たちは、完全に出鼻をくじかれた。
まさか、オークの方から先手を打ってくるとは思っていなかったのだ。
だが、その行為は火に油を注いだ。
たかがオーク一匹。
たかが食料泥棒。
たかがブタ。
そのブタに、仲間がやられた。
許せるはずがない。
「囲め!」
「逃がすな!」
「やっちまえ!」
兵士たちがなだれ込む。
しかし、その時にはアルドはもう別の場所にいた。
ワイルドダッシュ。
地面を蹴り、一気に人の壁の隙間へ飛び込む。
視界から消えたように見えた。
兵士たちは混乱する。
前にいる人間が邪魔で、アルドの姿をうまく捉えられないのだ。
人数は多い。
だが、多すぎる。
互いの肩がぶつかり、肘が邪魔になる。
踏み込みたい場所に味方がいる。
殴ろうとすれば味方の背中がある。
数の利が、まるで活かされていない。
烏合の衆。
アルドはその中を縫うように動いた。
脇腹を殴る。
肘を入れる。
尻を蹴る。
地味。
非常に地味。
だが、確実に効果がある。
「ぐっ!」
「いでっ!」
「誰だ今の!」
「足が!」
「鼻が!」
集団に紛れ、ちまちまとダメージを与えていく。
勇者らしさの欠片もない。
だが、合理的だった。
相手が多いなら、多さを利用すればいい。
混乱させて、味方同士で邪魔をさせる。
怒らせて、視野を狭める。
そして、隙を突く。
セレスティアは、それを見て驚いていた。
あのオーク……戦闘勘がいい。
動きも戦略的だ。
何より、先制で主導権を握った。
普通のモンスターなら、囲まれた時点でパニックになるだけ。
だが、あれは違う。
人の流れを読んでいる。
まるで、歴戦の兵。
落ち着けば、兵士たちも対処できるだろう。
いくらでもやりようはある。
だが、今は頭に血が上りすぎている。
そして、それを見越していたのなら大したものだ。
ただし、モンスターにしては。
セレスティアは、そう判断した。
ガルディアスの兵士たちも甘くはない。
ここにいる者たちは、最前線で戦い、生き残っている。
恐怖に慣れている。
痛みに慣れている。
死に慣れている。
怯むという言葉は、とうに捨てていた。
一人が、アルドの足に飛びつく。
「ぶひっ!?」
短い足に、両腕でしがみつく。
アルドは蹴り飛ばそうとした。
だが、その瞬間、別の男が反対の足へ飛びつく。
さらに一人が腕へ。
さらに一人が腹へ。
次々にしがみついてくる。
こいつら……馬鹿だ。
相打ち覚悟。
自分が殴られてもいい。
蹴られてもいい。
とにかく止める。
そういう動き。
実に厄介。
「押さえろ!」
「乗れ!乗れ!」
「潰せ!」
アルドは引き倒された。
どさっ!
地面に叩きつけられる。
そこへ、兵士たちが次々と乗ってくる。
一人。
二人。
三人。
五人。
十人。
重い。
おい。
やめろ。
重いって。
ふざけやがって。
その上から、拳が降ってくる。
ぽこ。
ぽこぽこ。
ごつ。
ぽか。
どす。
腰の入ったパンチではない。
集団戦で体勢も悪く、密着している。
だから、一撃の威力は低い。
だが、数が多い。
しつこい。
うざい。
あちこち殴られる。
痛い。
地味に痛い。
しかも臭い。
汗臭いし、男臭い。
この状態は精神的にかなりきつい。
セレスティアは、それを見て静かに言った。
「これで終わりですね」
数で押し潰す。
単純だが、確実。
どれほど妙な特性を持っていても、身動きできなければ終わり。
だが。
ジェイルの目は、なぜか生き生きとしていた。
まるで「見たかったのは、この先だ」、そう言わんばかりに。
「トンソクーーー!」
リアが叫ぶ。
「もうやめて!もうやめてあげて!」
だが、怒号と人の山の中で、その声は届かない。
重い。
臭い。
痛い。
うざい。
そして、何より。
屈辱。
この俺を。
この勇者アルドを。
地面に引き倒し、上に乗り、殴るだと?
これが、お前たちを守っていた勇者への仕打ちか!
もう許さん。
俺様の力を思い知れ!
心の中で、アルドは叫んだ。
イグニッション!
次の瞬間。
赤い光が爆ぜた。
アルドの体から、真紅のオーラが噴き上がる。
怒りそのもののように。
アルドに乗っていた兵士たちが、一斉に吹き上がった。
まるで間欠泉だ。
「うわあああっ!」
「何だ!?」
「みんな飛ばされたぞ!?」
人の山がばらけたあとに、中心にいたのは一匹のオーク。
真紅のオーラを身に纏った、ぽっちゃりしたブタ。
勇者の奥義「フルバースト」。
命を賭した魔力解放。
それを。
アルドは、一般人相手にソレを決めてしまった。
完全にキレている。
「ぶひいいいいいっ!」
アルドが吠えた。
そして、暴れた。
近くにいる奴を殴る。蹴る。放り投げる。
転がす。足払い。腹パン。
背負い投げ。
兵士が次々と宙を舞う。
屈強な男たちが、真紅のオーラを纏ったオークから逃げ惑う。
異様な光景だった。
アルドの現在MPは三十八。
イグニッションは、能力を二倍にする代わりに、魔力を継続消費する。
長くはもたない。
だが、二十秒近くは動ける。
二十秒。
十分すぎる時間。
アルドは、その二十秒でやりたい放題した。
「ぎゃあっ!」
「こっち来るな!」
「ブタが速い!」
「速いブタだ!」
「誰か止めろって!」
「無理無理無理!」
砦の兵たちは、次々と吹き飛ばされる。
セレスティアは、口を開けたまま固まっていた。
ありえない。
何だ、あれは。
ただのオークではない。
特殊個体でもない。
魔力の質が違う。
動きが違う。
戦い方が違う。
そして何より。
あの爆発的な出力。
今の一瞬だけなら、Bランク上位。
いや、Aランクに届くかもしれない。
そんなものをオークが?
セレスティアは、言葉を失っていた。
気絶した兵士は、優に百人を超えてる。
地面には、無数の男たちの呻き声。
戦える者は一気に減った。
しかし。
ふっ。
真紅のオーラが消えた。
アルドの動きが止まる。
MPが尽きたのだ。
完全なガス欠である。
兵士たちは最初警戒した。
何かの罠か。
次の攻撃の前触れか。
だが、すぐに気づく。
オーラが消えている。
息が荒い。
顔が疲れている。
「今だ!」
残った兵士たちが、がぜん勢いを取り戻す。
だが、アルドには勝算があった。
リアからのMP補給。
以前、大百足との戦いで発動したあの力。
リアから魔力が流れ込めば、もう一度動ける。
今だ。
回復しろリア。
俺に魔力を寄越せ。
アルドはリアへ視線を送った。
しかしリアは何もできなかった。
首を傾げている。
分かっていない。
当然だった。
前にできたのは偶然なのだから。
リア自身、やり方など分かっていない。
完全に、アルドの予定が狂った。
おい。
嘘だろ……。
ここでそれはないだろ。
回復しろ。
回復してください。
お願いします。
何でできないんだ。
前やっただろ!
頑張れよ!
兵士たちが押し寄せ、アルドは再び囲まれた。
蹴られ、殴られ、転がされる。
「ぶひっ!ぶひぶひっ!」
お前ら顔は覚えたからな!
あとで見てろ!
ていうか、やめろ!
痛いっての!
馬鹿野郎!
全部「ぶひ」である。
意味は伝わらない。
ただ、オークが騒いでいるようにしか見えない。
セレスティアは、まだ呆然としていた。
その横に、ジェイルが歩み寄る。
「そろそろ止めてもらえるか?」
セレスティアは、ゆっくりジェイルを見る。
「……あれを?」
「ああ」
「まだ動いていますが」
「ガス欠みたいだな。今なら暴れないだろう」
「あなたは、あれを何だと思っているのですか」
「俺も、それを確かめに来た」
ジェイルは、地面でぽこぽこ殴られているアルドを見る。
そして、言った。
「トンソクの力は、こんなもんじゃない」
「……」
「剣を持たせればもっと強い。状況が整えば、さらに跳ねる。しかも、あれはまだ成長段階にある」
「成長段階?」
「ああ」
ジェイルは口元を歪める。
「少なくとも、百人以上の戦力にはなる証明はできたろ?」
地面では、アルドがまだ蹴られている。
「ぶひっ!ぶひぃっ!」
「このまま殺すには、惜しくないか?」
セレスティアは黙った。
周囲を見る。
倒れた兵士たち。
混乱した砦。
確かに。
ここで殺すより、有効活用した方がいい。
ガルディアスは常に戦力不足。
明日にはモンスターの侵攻も控えている。
食料も足りない。
人も足りない。
希望も足りない。
そんな場所で。
兵士百人分の戦力を、ただ殺す?
愚かだ。
セレスティアは決意した。
「やめなさい!」
その一声で、兵士たちの動きが止まった。




