第五十九話「平等と、怒号と、あとアッパー」
アルドは鉄格子の外に立つと、砦の中は、しばらく静まり返る。
誰も喋らない。
ただ、全員が見ている。
鉄格子をすり抜けたオークを。
檻の中にいたはずのモンスターが、にゅるんと外に出てきた。
その意味を、誰もすぐには飲み込めなかった。
「……今」
誰かが呟く。
「抜けたよな?」
「ああ」
「檻を?」
「ああ」
「オークが?」
「ああ」
「何だ、あれ」
その疑問はもっともだった。
何だ、これは。
それが、この場にいる者たち全員の気持ちだった。
だが。
驚愕は、少しずつ別の感情へ変わっていく。
すっとぼけた顔で立つオーク。
ぽっちゃり腹をさするオーク。
食料不足で砦が殺気立っている中、何の罪悪感もなさそうなモンスター。
それを見て、兵たちの目に怒りが灯り始めた。
「……こいつが」
「食ったのか」
「俺たちの食料を」
「半分も?」
「ふざけやがって」
空気が熱を帯びる。
殺気が膨らむ。
おお。
怒ってる、怒ってる。
飯の恨みは恐ろしいってか。
分かるぜ。
俺も俺の飯を取られたら怒る。
だがな、最初に飯を用意しなかったお前たちに非がある。
お前らの方が悪い。
そう思った。
完全に他責思考。
「そこの補給部隊員」
セレスティアがカイルを呼んだ。
「は、はいっ!」
カイルの声が裏返る。
「檻を開けなさい」
「えっ」
「中の二人を出しなさい。話を聞く必要があります」
「は、はい!」
カイルは慌てて鍵を取り出す。
手が震えている。
一度失敗し、二度目でようやく鍵を回せた。
がちゃん。
鉄格子の扉が開く。
リアとジェイルが外へ出た。
リアは不安そうにアルドを見る。
ジェイルは、周囲の殺気を一瞥しただけだった。
セレスティアはまずリアに向き直った。
「確認しますが、あなたはモンスターテイマーで、あのオークはあなたのテイムモンスター。間違いありませんね?」
「は、はい」
リアは小さく頷いた。
「トンソクは、私のテイムモンスターです」
「では、あなたが食料奪掠を命令したのですか」
「違います!」
即答だった。
アルドの頬が引きつる。
こいつ。
今度も即答か。
またか。
また全部俺におっかぶせる気か。
開いた口がふさがらない。
いや、常に開いているようなものだが。
意外と牙が邪魔なのだ。
「それではオークが勝手にやったのですか?」
セレスティアの目が細くなる。
「はい。でも、仕方なかったんです!」
「仕方なかった?」
「トンソクのご飯が足りなくて」
リアは必死だった。
「あのままだったら、トンソクが飢えて死んじゃってました!」
周囲がざわつく。
なるほど。
一応、庇っているらしい。
自分も食べておきながら、それは知らん顔で。
庇っているのは評価しよう。
しかし、意味があるか?それは。
「つまり……緊急事態だった、と?」
「はい! そうです!」
リアは力強く頷いた。
わかってくれた。
そう思った。
「なるほど」
セレスティアは問いを変えた。
「あなたにとって人間とモンスターの命の価値は、同じなのですか?」
空気が変わった。
核心を突いてきた。
ここでの受け答えは危険だ。
一つ間違えば一触即発。
この砦は、モンスターと命を賭けて戦っている者たちの場所だ。
仲間を食われた者もいる。
家族を殺された者もいる。
身体を失った者もいる。
そんな者たちの前で。
その問いは……。
最悪を引き出すことになる。
「命は平等だと思います!」
真っ直ぐに言い切った。
一片の悪意もなく。
だからこそ。
砦の空気が凍りつく。
「……何だと?」
「あいつ、今、何て言った?」
「モンスターと人間は同じだと?」
「仲間を食った奴らと?同じ命だって?」
「ふざけんな!」
殺気が、一気に膨れ上がる。
先ほどまでの怒りとは違う。
もっと深い。
もっと黒い。
憎悪。
「え……?」
リアは、一歩下がった。
自分が何を言ったのか、分かっていない。
命は平等。
それは、優しい言葉のはずだった。
きれいな言葉のはずだった。
だが、この場所では違う。
それは、人間とモンスターを同価値だと言い切る言葉。
命を賭けてモンスターと戦う者たちに向かって、お前たちは敵と同じだと言うに等しい。
セレスティアは小さく息を吐いた。
「……そうですか」
止められない。
そう判断した。
誰かが叫んだ。
「殺せ!」
その一言が、火種になった。
「殺せ!」
「オークを殺せ!」
「食料泥棒を殺せ!」
「モンスターを殺せ!」
「殺せ!」
声が連鎖し、あっという間に砦全体を覆う。
「殺せ!殺せ!殺せ!」
地面が震えるほどの怒号。
補給部隊の兵士たちも縮み上がっていた。
隊長は顔面蒼白。
カイルはほとんど泣いている。
リアは耳を塞いだ。
「や、やめて……」
声は怒号にかき消される。
人は、こんなにも怒るのか。
こんなにも憎むのか。
リアは初めて知った。
ウルム村にも喧嘩はあった。
怒鳴り合いもあった。
だが、これは違う。
これは……殺意だ。
自分に向けられているわけではない。
だが、自分の言葉が火をつけた。
リアは震えながら、アルドを見た。
トンソク。
大丈夫?
そう思った。
だが……。
アルドは笑っているように見えた。
本当に笑っているのかは分からない。
けれど、リアにはそう見えた。
百人を超える兵士。
怒り。
殺気。
憎悪。
それを真正面から受けて。
なお、笑っている。
リアの背筋にゾクリとしたものが走った。
トンソクが。
モンスターを超えた何かに見えた。
それは、ジェイルも同じだった。
ジェイルもアルドを見ていた。
トンソクは怯えていない。
諦めているわけでもない。
状況が分からないわけでもない。
ただ、退屈そうに。
いや。
少しだけ楽しそうに、この怒号を聞いている。
普通ではない。
やはり、ただのモンスターではない。
ジェイルは、セレスティアに囁く。
「このままじゃ、収まらねぇよな」
「でしょうね」
セレスティアは短く答える。
「なら、提案がある」
「聞きましょう」
「このオークが、食った食料以上の働きを見せるなら、この場をおさめてもらえないか?」
セレスティアが怪訝な表情を浮かべる。
「どうやって証明するのですか?」
ジェイルは口元を歪めた。
「直接、試してもらえれば分かると思うぜ」
「試す?」
「ああ。双方危険なので武器はなし。素手だ。素手なら何人相手でも構わねぇ」
セレスティアはアルドを見る。
「オーク一匹。確かに妙な特性を持っていることは認めます。ですが、ここにモンスターに怯む者はいません。素手だろうとも、立ち向かう者ばかりです」
セレスティアは周囲を見る。
百人を超えている。
いや、休憩中だった者たちも次々集まってきている。
今や、二百人近い。
現状、この砦で戦える者のほとんどだ。
残りは雑用。
周辺警備。
負傷者。
つまり、ガルディアスの戦力そのもの。
セレスティアはリアへ向き直った。
「今から、そのオークを始末させてもらいます」
リアの顔が強張る。
「素手がご所望のようですので、なぶり殺しになるでしょう」
「……」
「それでも、よろしいですね?」
リアは答えられなかった。
いくらトンソクが強くても、あの人数に勝てるはずがない。
殴られ、蹴られ、踏まれる。
骨を折られる。
肉を裂かれる。
最後には、息をしなくなる。
そんな光景が頭に浮かんだ。
リアは、思わずジェイルを恨みそうになった。
どうして、こんなことを言ったの。
話せば分かってもらえると思っていた。
トンソクの愛らしい姿を見れば、『お腹が空いていたんだね』、『仕方ないね』、そう言って許してもらえると思っていた。
甘かった。
あまりにも甘かった。
「……許して」
リアがそう言いかけた時だった。
ドゴンっ!
鈍い音が響いた。
兵士の一人が、宙を舞っている。
「え?」
リアの目が見開かれる。
アルドの拳は、すでに振り抜かれていた。
アッパー。
顎を打ち上げられた兵士が、白目を剥きながら空中で回転する。
そして、どさりと地面に落ちた。
沈黙。
アルドは拳を構える。
遅い。
そう言いたげに。




