第五十五話「盗み食いと、共犯と、あとパン」
豚が鉄格子をすり抜けた。
衝撃の映像に、カイルは完全に固まっていた。
意味が分からない。
理解が追いつかない。
鉄格子をすり抜けた?
ぷるんと。
そんな馬鹿な。
夢か。
これは夢なのか。
しかし、頬をつねる勇気はなかった。
あのオークがこちらを見たら終わる気がしたから。
対して、アルドは平然としている。
檻など、今のアルドにとっては大した意味を持たない。
長時間ならともかく、短時間なら、自由に体の形を変えられる。
胸を矢で貫かれても死なないし、鉄格子の隙間を通ることもできる。
スライムオーク。
便利な体である。
アルドは何事もなかったように、物資を積んだ荷馬車へ向かった。
昨日と同じ。
干し肉。塩漬け肉。豆。乾燥野菜。小麦。芋。干し魚。
保存食ばかり。
長期間使用するためとはいえ、不味い。
旨味はない。
硬いし、塩気が強い。
全く食欲など湧かない。
嘘。
腹はすでに鳴っていた。
背に腹は代えられぬ、とはまさにこのこと。
アルドは目の前の袋を開けた。
そして、貪った。
干し肉。まるでゴム。
芋。粉っぽくパサパサしている。
豆。炒ってあるが味はない。
塩漬け肉。しょっぱい。
それでも食う。
結局食う。
いくらでも食う。
アルドは音を立てないようにしているつもりだった。
だが、実際にはそこそこ音がしていた。
もぐもぐ。
むしゃむしゃ。
ごりごり。
夜の野営地に、咀嚼音が響く。
カイルは陰から見ていた。
見てしまった。
犯人はオークだ。
ジェイルではない。
オークが檻を抜け出し、堂々と食料を盗み食いしている。
しかも、やたらと楽しそうだ。
アルドは、ふと鼻を動かす。
誰かが見ているな。
兵士か。
昨日の若い男だな。
カイル、確かそんな名前だった。
匂いで感情が伝わる。
恐怖。困惑。
汗から匂うアドレナリン。
敵意はない。
襲ってくる気もないだろう。
ただ、見ている。
ならば、今は放っておいていい。
やるべきことをやる。
アルドは一通り食べると、残りを両腕に抱えた。
パン。干し肉。豆袋。塩漬け肉。
持てるだけ持つ。
そして、鉄格子の荷馬車へ戻った。
アルドを見て、ジェイルが小さくため息をついた。
起きていた。
当然か。
こんな状況で本当に眠るほど、ジェイルの神経は太くない。
一方、リアの目は輝いていた。
「トンソク、すごい!ごはんがいっぱいだっ!」
食料とは、食うためにあるのだ。
飾っておく物ではない。
補給物資?
知らん。
俺にこそ補給が必要だ。
アルドは鉄格子の隙間から、食料をねじ入れた。
リアはさっそくパンを手に取った。
「いただきますっ!」
「食うのかよ!」
ジェイルが呆れる。
「だって、お腹空いたし」
「それ補給物資なんだぞ」
「でも、もうここにあるよ?じゃあ私たちの食事でしょ?」
「絶対違うだろ!」
しかし、リアはもぐもぐとパンを食べ始めていた。
罪悪感はどこかに出張中らしい。
一方ジェイルは食べなかった。
「ジェイルさんもどうぞ!」
「いや、俺は遠慮しとくよ」
好きにしろ。
どうせ全部俺のだ。
アルドは食料を檻の中へ押し込み終えると、パンを一つ手に取った。
そして、再び歩き出す。
「もご……トンソク、どこ行くの?」
リアが口いっぱいにパンを詰めたまま聞く。
アルドはちらりとリアを見た。
「ぶひっ」
すぐ戻る。
と言ったつもりだった。
伝わったかは知らないが。
アルドが向かった先は、カイルが隠れている場所だった。
カイルは毛布をかぶっていた。
寝たふり。
だが、起きているのは一目瞭然だった。
毛布が小刻みに震えている。
寝ている人間は、そんなに震えない。
アルドはさらに近づいた。
カイルは息を殺して、決死の寝たふり。
アルドは毛布の上から肩を叩いた。
ぽん。
反応なし。
ぽんぽん。
反応なし。
寝たふりを決め込むつもりらしい。
むかっ。
アルドは毛布を掴んだ。
そして、一気に引き剥がす。
ばさっ。
いない!?
ついさっきまで、確かにいたはずなのに。
忍の類だったか!
いや、いた。
毛布の裏側にしがみついていた。
両手両足で踏ん張って、毛布に張りついている。
セミか、こいつは。
アルドは毛布を乱暴に振った。
ばさばさばさっ。
「わあっ!」
カイルが落ちてきた。
どさりと尻もちをつく。
こうなっては、もう寝たふりはできない。
カイルは青ざめた顔でアルドを見上げた。
失敗した、武器を持っていない。
槍は少し離れた場所に置いてある。
そのことを心底後悔した。
寝たふりをするために、武器を持っていなかったのだ。
変なリアリティを出したのが災いした。
カイルは改めて目の前のオークを見る。
短い手足。
産毛にまみれた肌。
牙。
丸い腹。
雑魚モンスターに見える。
本当に?
カイルはモンスターとの戦闘経験が少ない。
補給部隊なんだから当たり前のことだ。
もちろんモンスターと遭遇することはある。
だが、本格的な一対一戦闘など経験がない。
雑魚といえどモンスター。
鼻息までかかる至近距離。
恐怖しかない。
仲間を呼びたい。
叫びたい。
だが、声が出ない。
怖い。
先ほどの腕力を思い出す。
人間一人を毛布ごと軽々と振り回す力。
喉など、一掴みで潰される。
そう想像するのは難しくなかった。
終わりだ。
カイルはそう思った。
だが、アルドは攻撃しなかった。
代わりに。
パンを差し出した。
「……え?」
カイルは固まる。
まるで意味が分からない。
殺されると思った。
だが、差し出されたのはパン。
もちろん盗品の。
「ぶひ」
アルドは、さらに押しつけるようにパンを差し出す。
『受け取れ』、そう言っているように見えた。
カイルは震える手でパンを受け取る。
その瞬間。
アルドが、にやりと笑った。
顔はオークなので分かりにくいが敵意があるようには見えない。
しかし、これは罠だった。
アルドは心の中で笑っている。
これでこいつも共犯だ。
もうチクれまい。
同じ穴のむじな。
ふはははは。
我ながら完璧な作戦。
さすが俺様。
アルドはカイルへ向けて、親指を立てた。
サムズアップ。
いい笑顔だ。
不細工だが。
カイルは青ざめたまま、パンを握りしめている。
アルドは満足すると、鉄格子の荷馬車へ戻っていった。
そして。
にゅるん。
何事もなかったように、鉄格子の中へ戻る。
カイルは、その場にへたり込んだ。
何だ。
何なんだ、あれは。
意味が分からない。
「ふごっ! ふごふごっ!」
鉄格子の中から、アルドの不満げな声が聞こえた。
思ったよりリアが食料を食べていたらしい。
「ちょっとくらいいいじゃない!だって、お腹空いてたんだもん!」
「ぶひぶひっ!」
「ごめんってば。残ってるよ、ほら。豆」
「ぶひーーー!」
文句を言うオーク。
なだめる少女。
呆れるジェイル。
カイルは遠くから、それを見ていた。
これは夢なのだろうか。
いや、夢ではない。
なぜなら手の中にパンがあるのだから。
カイルは無意識に、そのパンをかじった。
硬い。
その硬さが夢ではない証拠。
どうする?
隊長に報告するか?
いや、待て。
相手は鉄格子を自在に出入りする謎のモンスター。
報告してどうなる。
討伐するのか。
出来るのか?
これは……。
関わらないのが吉。
カイルはそう結論づけた。
どうせ明後日にはガルディアス砦に到着する。
そこで引き渡せば、自分の任務は終わりだ。
食料が減っている?
知るか。
風にでも吹かれて飛んでいったのだろう。
無理がある?
知らない。
知らないものは知らない。
カイルはパンをもう一口かじった。
そして、心の底から思った。
冒険者になるのは、やめよう。
あんなものと出くわして、生きて帰れる気がしない。
兵士を首になったら故郷へ帰ろう。
母の畑を手伝おう。
土を耕し、豆を育て、芋を掘る。
山の猿がうるさいくらい、今ならご愛敬だ。
少なくとも。
鉄格子をすり抜けてパンを渡してくるオークよりは、ずっとましなはず。
カイルは夜空を見上げた。
星が、やけに遠く見えた。




