第三話「黒歴史と、虫と、あと蜜」
腹が満たされると、猛烈に眠くなってきた。
理性が危険だと叫びまくるが、もう無理。
これほど抗えないとは思わなかった。
瞼が自然と落ちる。
身体が地面を求めている。
おい待てよ、俺は今野ざらしの森の中にいるんだが。
関係なかった。
気づいたら横になっていた。
オークの本能というやつは、思ったよりずっと強引だ。
ま、いっか。
今日はいろいろあった。
人間をやめた日に根性で活動できるほど、俺もタフじゃない。
目を閉じながら、アルドは今日一日を振り返った。
追放された。
ブタになった。
モンスターを食った。
シンプルにひどい一日だ。
厄日か?
……でも、なんで俺裏切られたんだ。
暗闇の中で、その問いだけが浮かんでいた。
思い当たることなんぞ、ない!
いや、あれか?
エリスとカナの湯浴みを覗いたのが、ばれたか?
——ないないない。
即座に否定。
あれはばれていない。
ばれるはずがない。
だってあのとき、俺はちゃんと細工をしておいたんだから。
その場にそっとトールの手袋を置いてきた。
こっそりくすねておいた、トール愛用の手袋を。
おまけに近くの木に、トールの得意な雷魔法の跡も残しておいた。
興奮しすぎて、魔法をおもらしした風に見せかけて。
完璧だ。
証拠は全部トールに向くように——
ていうかトールが追放の発案者だったな。
(関係あるのか……?)
頭の中が少し混乱したが、まあいいや、と流した。
それよりも、だ。
あの裏切りはもっと根が深い。
個人的な恨みや、覗きがばれた程度の話じゃない。
四天王と通じていた。
事前に計画されていた。
ダンジョンの最深部まで誘導して、四天王に引き渡した。
つまりあいつらは、人間側を——世界を守る側を、裏切ったということだ。
聖女が。
神に仕える聖女が。
(操られているのか?それとも自分の意思で?)
疑問は尽きない。
理由もわからない。
エリスが何を考えていたのか、カナが、ラインが、トールが——
アルドはしばらく暗闇の中で考え続けた。
そして、結論を出した。
操られているなら、ぶん殴って正気にさせればいい。
正気だったなら、ぶん殴ればいい。
どちらにせよ答えは同じだ。
ぶん殴る。
シンプルイズベストだ。
安心してアルドは深い眠りに落ちた。
***
深い眠りを引き裂いたのは、他でもない、俺の胃袋だった。
ぐう、という音がかわいい。
馬鹿か。それどころじゃない!
もっと根本的な、全身を揺さぶるような飢餓感。
身体の芯から「食え」と命令してくる。
アルドは目を開けた。
暗い。
まだ夜明け前だ。
(……嘘だろ)
信じられない。
昨夜あれだけ食ったのに。
リザードマン一体を、まるごと。
四肢も、胴も、全部だ。
成人男性なら一週間は持つ量を、一晩で消化しきったのかよ!ちくしょう!
(オークって、こんなに燃費が悪いのか?)
知識としては知っていた。
オークは大食いだ。
常に何かを食っているイメージがある。
だが知っているのと、実際に体験するとでは、全然違う。
このままでは死ぬ。
勇者がブタになって、飢えで死ぬ。
嘘だろ?
シャレにならん。
アルドは立ち上がり、暗い森を、嗅覚だけを頼りに進む。
目は、慣れれば意外と暗闇でも見えた。
オークの夜目が利くらしい。
また一つ、知らなかった能力だ。
別に知らんくてもいい情報だが。
森は静かだった。
夜明け前のこの時間は、昼行性の生き物も夜行性の生き物も、活動の狭間にいる。
風だけが木々の間を通り抜けていく。
腹が減った。
何でもいい。
本当に何でもいい。
もう好き嫌いはいいません。
野草だろうが、野ネズミだろうが。
リザードマンだろうが、コカトリスだろうが——
嗅覚が、何かを捉えた。
土と、草と、それから——なんだ、これは。
虫の、匂いだ。
それも、かなり大きな。
茂みの向こうに、それはいた。
一メートルはある。
黒い装甲に覆われた、巨大なカブトムシだ。
月明かりを反射して、鎧のような外殻が鈍く光っている。
アーマービートルだ。
(……虫か)
アルドは静止した。
虫か。
虫なのか。
一メートル超の虫が目の前にいる。
食うのか、これを。
食っていいのか、これを。
いや待て、冷静に考えよう。
エビは食える。
カニも食える。
どちらも甲殻類だ。
アーマービートルだって、まあ、広い意味では——
(全然違ーう)
エビとカニとカブトムシを一緒にできんだろ!普通!
足の数が違う。
触角がある。
何よりキモすぎる。
しかし腹が減っている。
減っている。
減りすぎている。
(虫か……虫なあ……)
三十秒ほど、アルドは葛藤した。
人生で最も真剣な三十秒だったかもしれない。
結論。
(行くしかない)
空腹が、全哲学に勝った。
しかし、気配を消して近づこうとした瞬間、アーマービートルが先に動いた。
こちらに気づいている。
複眼がアルドを捉えていた。
次の瞬間、羽が開いた。
(来るか!)
巨大甲虫が、音を立てて宙に浮いた。
羽ばたきの風圧だけで草が揺れる。
そして——加速した。
角が、まっすぐこちらに飛翔してくる。
アルドは下に屈んだ。
頭上を、巨大な角が通り過ぎる。
風圧が耳をかすめた。
あれをまともに食らったら、俺どうなっちまうんだ?
即座に態勢を整え、剣を構える。
アーマービートルも旋回して戻ってくる。
斬れるか?
すれ違いざま一閃。
剣がアーマービートルの外殻に当たって、弾かれた。
(硬ってーーー!)
火花が散って、剣の刃が少し欠けた。
外殻が鎧として機能している。
正面からでは刃が通らない。
アーマービートルが再び加速して飛んでくる。
調子に乗ってやがる。
虫の癖に。
アルドは躱しながら観察した。
関節。
外殻と外殻の継ぎ目。
そこだけが、わずかに柔らかそうだ。
だが動き回るあいつの隙間が狙えるか?
動きを止めなければ!
でもどうやって?
三度目の突進をぎりぎりで躱しながら、アルドは考えた。
力では無理だ。
速さでも追いつけない。
正面から戦っても、じりじり消耗するだけ。
アーマービートルが四度目の突進態勢に入った。
アルドはよろけた。
足元の石に躓いたのだ。
思わず片膝をついてしまう。
慌てて立ち上がろうとするも。
アーマービートルの複眼が、完全にこちらを捉えた。
好機と判断したのだろう。
羽が大きく広がった。
今までより深く助走をつけた。
渾身の、一撃だ。
来い!
アルドは動かなかった。
ギリギリまで。
ギリギリまで待った。
角の先端が顔に届くかという瞬間——
地面を蹴って飛翔した。
跳ばねーブタはただのブタなんだよ!
轟音。
角が、背後の巨木に突き刺さっていた。
ずぶりと、根元近くまで。
アーマービートルが引き抜こうとしている。
が、抜けない。
外殻に覆われた巨体が、ばたばたともがいている。
アルドは地面に降り立つと、剣を握り直した。
(残念だったが、俺の勝ちだ!)
装甲の硬さも、突進の威力も、今のアルドには対処しきれない。
だが四年間、ずっと格上のモンスターと戦ってきた。
どう誘導するか。
どこへ引き込むか。
どうすれば勝てるか。
力が千分の一になっても、その経験は残っていた。
アーマービートルは、まだもがいている。
狙うは外殻の継ぎ目。
一歩。
二歩。
閃。
アーマービートルの首が、あっさりと、両断された。
胴体だけになったアーマービートルの、六本の足がばたばたと動いている。
まだ動いている。
(気持ち悪い……)
虫というのは、どうしてこう、死んでいるのか生きているのかわからない動きをするのか。
体だけで歩こうとしている。
どこへ行くつもりなんだ。
と、断面から何かが流れ出てきた。
体液だ。
黒っぽい、どろりとした液体。
普通に考えれば、不気味の極みだ。
だが。
(……なんだぁ?このにおい)
嗅覚が反応した。
甘い。
花のような、蜜のような、濃厚な芳香。
さっきまでの生臭さとは、まるで別物だ。
アルドはしばらく迷った。
腹が減っていた。
手を伸ばして、体液を掌に掬った。
見た目は蜜に似ている。
黒い蜜。
一瞬考えたが……飲んだ。
甘かった。
異常なほど。
濃厚で、芳醇で、喉を通るたびに全身に染み渡るような甘さ。
花蜜とも、果実とも違う。
もっと原始的で、純粋な甘さ。
(おい!なんだよこれ!)
気づいたら貪っていた。
掬って、飲んだ。
また掬って。
首の断面に口をつけて、残らず全部飲んだ。
品位のかけらもない飲み方だったが、そんなことを気にする余裕はない。
身体の内側で、何かが弾けた。
ステータスを確認する。
レベル3。
(レベルが……上がった)
全能力が、また少し上昇していた。
アルドは口の周りを拭って、立ち上がる。
確かに美味かった。
異論はない。
虫がこんなにうまいとは思わなかった。
だが。
(まだ足りない)
胃が、主張していた。
もっと食わなければ。
もっと強くならなければ。
空が、わずかに白み始めていた。
夜明けだ。
アルドは剣を握り直して、森の奥へ踏み出す。
ピンクのオークが、夜明けの光の中を進んでいく。




