第二話「ブタと、剣と、あと飯」
最初に気づいたのは、匂いだった。
腐葉土。苔。雨上がりの土。遠くを流れる川の冷たさ。風に混じった獣の体臭。木の幹に巣を作る虫の甘ったるい分泌液。
全部わかった。
一度に、全部。
(……なんだこれ)
アルドはゆっくりと目を開ける。
空だ。
青い空が見えた。
木々の葉が風に揺れている。
光が差し込んでいる。
朝だ。
いや、昼か。
匂いからすると昼に近い——なんだ?なんで匂いから時間がわかるんだ、俺は。
ここはどこだ?
それよりも生きている?
あれは夢だったのか?
身体を起こした。
重い……。
異様に重い。
四肢がやたらとごつい。
俺こんなごつかったっけ?
まぁいいや、と立ち上がると、視界の高さがおかしかった。
高い。
目線が地面から高い。
血の気が引くのが分かった。
サーって感じじゃないね。
ズギューンだ、ズギューン。
あらためてマジマジと両手を見つめる。
鮮やかピンク色。
あら綺麗なピンク色、って思うとおもうか?そんなこと。
ごつくて、丸くて、爪が黒くて、どこからどう見ても人間の手ではない。
(……ああ)
そうか。そういうことか。
やっぱ夢じゃなかったってか。
とぼとぼ川まで歩く。
場所は匂いが教えてくれる。
足取りがどこかおぼつかない。
重心が違うんだ。
身体の使い方が人間のときと根本的にずれている。
何度か木の根に足を引っかけた。
情けない。
これが魔王討伐の期待を一身に受けた勇者かよ。
やっとの水辺に出た。
どうやら湖のようだ。
俺は水面を覗き込んだ。
黒い。
なぜなら目を閉じているからだ。
だって怖いだろ、どう考えてもさ!
しかし、いつまでもこうしてはいられない。
ゆっくりと瞼を上げる。
そこにはブタが映っていた。
ピンクの。
「…………」
しばらくそのまま水面を見つめた。
醜いブタが、こちらを見つめ返していた。
(ドラゴンであって欲しかった……)
贅沢言わんから、せめてもうちょいカッコいいやつ。
ゴブリンよりはマシかもしれないが、どこをどう見てもマシではない気もした。
鼻がでかい。
耳が丸い。
全体的に、ブタだ。
(酷いな)
自分のことながら、率直にそう思った。
次にステータスを確認した。
魔法を発動すると、宙に数値が浮かぶ。これは使えるらしい。
見た瞬間、アルドはもう一度黙った。
レベル1。
全能力、勇者時代の千分の一。
MP、ゼロ。
固有スキル:フルバースト(使用不可)。
「…………」
ゼロだ。魔力がゼロ。
フルバーストが使えない。
四年間、ここぞという場面で必ず頼ってきたあの力が、完全に封じられている。
ただ一行だけ、妙な記載があった。
『種族:オーク--力は強く熊相当。見た目ほど動きは遅くない』
(オークか)
オークは駆け出しの冒険者にとっては都合のいい相手だ。
やたら種族はいるが、どれも大差なし。
とにかく知能が低いんで、罠にかけ放題。
勇者だったアルドにとっては一撃で葬って来たモンスター。
雑魚中の雑魚。
ゴブリンほど群れないし、凶暴性もない。
まぁ頑丈さだけはあるな、頑丈さだけは。
あとは何でも食ってるイメージ。
人間はおろか、ゴミや仲間のモンスターまで。
アルドは深呼吸した。
現状を整理しよう。
武器なし、魔力なし、レベル1、ピンク色のブタ。
拠点なし、食料なし、あと——仲間なし。
(うっ!)
腹部を襲う強烈な痛み。
(これは!)
(腹が減った!)
気づいた瞬間、それ以外のことが考えられなくなった。
空腹だった。
人間のときとは桁が違う飢餓感。
胃が叫んでいるというより、全身がカロリーを求めている。
思考が「食う」という一点に引っ張られていく。
まずい。
これはまずい。
冷静でいられない。
嗅覚が先に見つけた。
匂いだ。
それまでの植物や土のものに混じって、新しい何かが滑り込んできた。
鉄の錆び。革の油。それから——乾いた、爬虫類特有の体臭。
茂みの向こうだ。
アルドは身を低くして、そっと近づいた。
葉の隙間から覗くと、開けた場所に一体のモンスターが立っていた。
リザードマンだ。
身長はアルドよりも一回り以上大きい。
全身を緑灰色の鱗で覆い、腰に剣を下げている。
尻尾を揺らしながら、何かの匂いを嗅いでいた。
狩りの途中なのかもしれない。
アルドは静止したまま、そいつを見つめた。
そして、思った。
(……旨そうだ)
——待て。
待て待て待て。
俺は何を考えている?
アルドは頭の中で自分に言い聞かせた。
俺は勇者アルドだぞ。
四年間、魔王打倒のために戦い続けた勇者だ。
人を守るためだけに剣を握ってきた。
モンスターは倒す相手であって、食う相手ではない。
そうだろ?あんなもん誰が食べる?
だが、腹が減っている。
減っている。
減りすぎている。
駄目だ、考えるな——でも、あの剣が手に入れば……。
戦略的な意味がある。
食うのは、その、副次的な話で——
(違う!そうじゃないだろ、俺!)
わかっている。
わかっちゃいるが。
胃が叫んでいる。
全身が叫んでいる。
勇者としての矜持と、オークの本能が、アルドの中でじりじりと綱引きをしていた。
十秒。
二十秒。
三十秒。
あかん。
本能が、勝ってしまった。
こうなりゃ、なるようになれ!だ!
茂みを飛び出した瞬間、リザードマンが振り向いた。
目が合う。
リザードマンは一瞬だけ固まったように見えたが、次の瞬間、表情が変わった。
警戒から——余裕へ。
なんだ、オークか。
そう言いたげな顔だった。
喉の奥から低い音を鳴らした。威嚇だ。
格下の雑魚に対する、面倒くさそうな威嚇。
アルドも何か言おうとした。
出てきたのは、ブヒ、という音だった。
(……そうか。声帯がオークだもんな)
言語は使えない。
まぁどうせリザードマンの言葉なんかわからない。
向こうもアルドの意図を理解できない。完全に意思疎通不能状態だ。
アルドの態度に業を煮やしたのか、リザードマンが剣を抜いた。
最初の一撃は横薙ぎだった。
アルドは上体を後ろに引いて躱す。
風が顔をかすめた。
鋭い。
一般人相手なら首から上はなくなっていたかもしれない。
だが嗅覚が、踏み込みの前に既に教えていた。
来る、と。
リザードマンが驚いた顔をした。
突進するしか能のないオークが、華麗に躱したのだから無理もない。
その一瞬の動揺を、アルドは逃さなかった。
踏み込んで、内側に入る。
剣を持つ腕を外から押さえ、手首に圧をかけた。
武術の基本だ。
関節の向きに逆らって力をかければ、握力は意味をなさない。
リザードマンの手から剣が落ちた。
すぐさまアルドはそれを拾う。
うん、バランスは悪くない。
軽く振ってみると、空気が裂ける音が聞こえた。
リザードマンが信じられない、という顔でこちらを見ていた。
オークが、体術を使った。
オークが、剣を振るった。
その困惑が全身から滲み出ていた。
アルドは余裕の笑みを浮かべ……いや、傍から見ると下卑た笑みを浮かべ、剣を構えた。
戦いは、あっさり終わった。
倒れたリザードマンを前に、アルドはしばらく立っていた。
さて。
食うか。
(食うしかないんだろ、どうせ)
葛藤する気力も、もう残っていなかった。
周囲を見回して、枯れ枝を集める。
さらに木を削り、おがくずを作る。
リザードマンの剣の刃を石に打ち付けると、火花が散った。
二度、三度。
おがくずが赤く光り、細い煙が立ち上がる。
枯れ枝をくべ、火を育てていく。
リザードマンの四肢を切り落とし、火で炙る。
生臭い。
ホントに食えるのかよ、これ。
しかし、30分も経った頃だろうか。
匂いが変わった。
生臭さが、熱によって別の何かに変わっていく。
香ばしい。
油が滲み出て、それが焼ける、甘いような、濃いような、複雑なにおい。
鋭い嗅覚がその変化を全部拾っていた。
(……そそる匂いだな)
思わずそう思った。
目をつぶって、一口、食べた。
止まれなかった。
鶏肉に似ていた。
だがもっと濃い、深みがある味。
脂は少なく、嚙むほどに旨味が染み出してくる。
香ばしさの層、肉の繊維の甘さ、火の入り具合が生み出す微妙な焦げの苦味。
王宮の料理人が丹精込めて作った肉料理より、断然うまかった。
(なんでこんなに美味いんだよ!こんなの初めて食ったぞ!)
わかっていた。
空腹のせいだ。
常軌を逸した空腹が、最高の調味料となっている。
これは反則だ。
食べ終わったその瞬間、身体の内側で何かが弾けた。
わかる。
勇者時代に何度も経験した感覚。
ステータスを確認する。
レベル2。
全能力が、わずかに上がっていた。
(食えばレベルが上がるのか)
アルドは焚き火の残り火を見つめながら、静かにそう理解した。
食えば強くなる。
モンスターを食えば食うほど、オークは上に行ける。
普通のオークには理解できない仕組みを、勇者の頭脳が正確に把握していた。
「ブヒ」
アルドは立ち上がった。
計画を立てよう。
まず食う。
もっと食う。
いっぱい食う。
なんで俺をこんな目に合わせたか知らねーが、絶対に後悔させてやる、ついでに魔王もな。
決意を新たに、アルドのブヒブヒという鳴き声が森にこだました。




