第百三十話「膠着と、悲鳴と、あと一回だけ」
礼拝堂。
白い光の中で、剣戟の音が鳴りやまない。
ガギィン!
セレスティアのレイピアが、アークデーモンの爪を弾いた。
腕が痺れる。
重い。
一撃一撃が、岩を叩きつけられるように重い。
クリスタルの聖域は、確かに効いている。
黒炎は出ない。
呪いの言葉も、魔眼も、封じられている。
アークデーモン最大の武器である特殊能力は、すべて使えない。
それでも。
それでも、なお強い。
山羊の頭から振り下ろされる角。
丸太のような腕。
蝙蝠の翼が起こす突風。
ただの腕力と、ただの速さ。
それだけで、人間を紙のように引き裂ける。
基本の能力が、そもそも桁違いなのだ。
「対の型――双凪!」
セレスティアは半歩踏み込み、レイピアを二度閃かせた。
イグナード流、対の型。
攻めと守りを一対にする剣。
一撃目で爪をいなし、二撃目で手首の腱を刺す。
アークデーモンが咆哮し、腕を引いた。
浅い。
分厚い皮膚に阻まれて、腱まで届かない。
「ちっ、しぶてぇな!」
隣で、ジェイルが双剣を振るっていた。
黒色の髪が汗で額に張りついている。
頭上で、二つの十面ダイスが跳ねた。
デュエルフォーチュン。
出目は、二と六。
「しけてやがる!」
それでも、体力増加のバフは乗る。
ジェイルの双剣が、アークデーモンの翼を片方切り裂いた。
その奥では、『ミスリルの刃』の大男が大盾で一体を押さえ込み、仲間が背後から槍を突き立てている。
宵闇の燐の魔導士たちは、結界の縁から矢と魔法弾を撃ち続けていた。
Aランク冒険者たちは、さすがだった。
二十体のうち、すでに二体が床に沈んでいる。
少しずつ。
ほんの少しずつだが、押している。
だが。
「ぐ……ぅ……」
結界の外で、祈りを捧げていた兵士が一人、前のめりに倒れた。
顔が土気色になっている。
生命力を、クリスタルに吸われすぎたのだ。
「代われ!次の列、前へ!」
クリスタルを守護する神官が叫ぶ。
倒れた兵士が引きずられ、後ろの兵が膝をつく。
兵士が減れば、結界が弱まる。
結界が弱まれば、アークデーモンの力が戻る。
時間をかければ、こちらが不利。
かといって、焦ったところでアークデーモンの生命力は落ちない。
一体倒すのに、これだけかかる。
残り十八体。
夜明けまでは、まだ遠い。
完全な膠着状態だった。
「……トンソクの奴、どこで何してやがる」
ジェイルが、背中合わせになったセレスティアに呟く。
「わかりません。でも――」
セレスティアは、天井の向こう、王城の本館の方を見た。
嫌な予感がする。
ずっと、胸の奥がざわついている。
そのときだった。
礼拝堂の扉が、勢いよく開いた。
「セレスティアさん!」
小さな影が、駆け込んできた。
リアだ。
「リアちゃん!?なぜここに!」
リアは、戦場のど真ん中を突っ切ってくる。
まっすぐ、セレスティアのほうへ。
一体のアークデーモンが、赤い目をぎょろりと動かした。
獲物を見つけた目だった。
黒い腕が、リアめがけて振り下ろされる。
「――っ!」
セレスティアの身体が、勝手に動いていた。
床を蹴る。
リアとアークデーモンの間に、滑り込み、レイピアを斜めに立てて爪の軌道を逸らす。
が、逸らしきれない。
肩口を裂かれた。
構わない。
二撃目。
逸らした勢いのまま、レイピアの切っ先をアークデーモンの赤い目に突き込んだ。
ウギャアアアッ!
アークデーモンがのけぞる。
その隙に、ミスリルの刃の大男が大盾で体当たりをかました。
「大丈夫!?」
セレスティアは、リアの肩を掴んだ。
かろうじて、間に合った。
「ここは危ないの。隠れていなさい。扉の外へ、早く!」
だが。
リアは、動かなかった。
様子がおかしい。
顔が真っ青だった。
唇が震えている。
大きな瞳に、今にも零れそうなほどの涙が溜まっていた。
「……トンソクが」
「え?」
「トンソクが、死んじゃう!」
セレスティアの息が止まった。
「痛いって。苦しいって。ずっと、ずっと、聞こえるの」
リアは、自分の胸を押さえた。
繋がり。
テイマーとテイムされたモンスターは、目に見えない縁で結ばれている。
祖父から受け継いだ、テイマーの力。
リアには、トンソクの痛みが流れ込んできているのだ。
「助けに行かないと!トンソクが、私を呼んでるの!」
トンソクが……。
死にかけている。
セレスティアの頭が、真っ白になった。
あの人が?
あんなに強くて、賢くて、何があっても余裕を振りまいていたあの人が?
足が、扉の方へ向きかけた。
だが。
目の前には、アークデーモン十八体。
自分が抜ければ、前線に穴があく。
兵士たちが死ぬ。
騎士として、ここを離れるわけにはいかない。
でも。
でも――。
レイピアを握る手が震えた。
冷静でいられない。
「行け!」
ジェイルの声だった。
双剣で二体を同時に受け止めながら、ジェイルが叫ぶ。
「ここはいい!行け、セレスティア!」
「ですが!」
「あいつがくたばったら、誰がリアのお守りをするんだよ!」
ジェイルは、一気に二体を薙ぎ払った。
「あの豚が泣きつくなんざ、よっぽどのことだ。行ってやれ!」
セレスティアは、唇を噛んだ。
ミスリルの刃の大男が、にやりと笑って大盾を構え直す。
「お嬢ちゃんの穴くらい、俺が埋めてやるよ」
「……感謝します!」
セレスティアは、リアの手を取った。
「リアちゃん。トンソクの居場所、分かる?」
「うん!あっち!お城の中!」
リアは迷わず指をさした。
王城の本館。
その奥。
二人は、礼拝堂を飛び出した。
夜の中庭を、二人で走る。
満月の光が、空から差し込んでいた。
リアは一度も迷わなかった。
右へ。
入口を入って。
また右へ。
まるで、見えない糸に引かれているように。
「トンソク、待ってて。今行くから。今行くから……!」
リアは、泣きながら走っていた。
セレスティアも、肩の傷の痛みなど忘れていた。
お願い。
間に合って。
あなたは、こんなところで死んでいい人じゃない。
そう祈った、そのときだった。
リアの足が、ぴたりと止まった。
糸が切れたように、しゃがみ込む。
「リアちゃん?」
リアは、顔をあげなかった。
ただ、自分の胸に手を当てたまま、呆然としている。
「……聞こえない」
「え……?」
「トンソクの声が、聞こえなくなった……トンソクが……」
涙が、ぽたぽたと床に落ちた。
「トンソクが、死んじゃった……」
セレスティアは、何も言えなかった。
満月の光だけが、二人を静かに照らしていた。
がんっ!
謁見の間の扉が、蹴り破られた。
「動くな!」
グレゴールの長槍隊が、なだれ込む。
先頭には、エルネスト。
後ろに、ガストベルグ、ヴェロニカ、ミャル。
銀詩の旅団。
エルネストは、謁見の間を見渡した。
砕けた木箱。
吹き飛んだ樽。
蜘蛛の巣のような亀裂が走った石壁。
その中央に、二人。
盗賊カナ。
そして――金の髪、碧い瞳、聖剣を携えた男。
勇者アルド。
エルネストの口角が、吊り上がった。
壁際に、何か転がっている。
オークだった。
血の海の中に沈んだ、ピンクのオーク。
両足も、両手首もない。
腹が横一文字に裂けている。
ぴくりとも動かない。
あの娘が連れていたオークか?
なぜ、こんなところに。
一瞬だけ、そう思った。
だが、どうでもいい。
豚の死骸など、どうでもいい。
目の前にいるのは。
ずっと、待ち焦がれていた男だ。
「ついに……ついに見つけましたよ」
エルネストは、ゆっくりと前へ出た。
声が、歓喜で震えていた。
「五年ぶりですね、アルド。私を覚えていますか?あなたに苦汁を飲まされ、すべてを失った男を」
勇者の身体が、エルネストを見た。
興味のない目だった。
虫を見るよりも、関心のない目。
「誰だ、知らんな」
エルネストの笑みが、凍りついた。
「……は?」
「邪魔だ、消えろ」
ぎり。
エルネストが爪を噛む。
覚えていない?
この私を?
五年間、一日たりとも、お前を忘れたことないというのに?
そのとき。
エルネストの横を、風が抜けた。
ミャルだった。
弾かれたように、飛び出していた。
だが、向かった先は勇者ではない。
壁際。
血の海に沈んだ、オークの方だ。
「ミャル!?何を――」
エルネストの声など、聞いていなかった。
ミャルの尻尾が、ぶわっと膨らんでいる。
その瞳は、オークだけを見ている。
しかし。
その前に、影が立ちふさがった。
カナだ。
いつの間に移動したのか、誰にも見えなかった。
「……何の用なのかな?にゃんこちゃん」
カナは、短剣をくるりと回した。
「そいつ、やっと死んだとこなんだよね。関係者かな?だったら、あんたも同罪なんだけど」
ミャルの足が止まる。
まずい。
この女は、格が違う。
ミャルの毛が逆立った。
次の瞬間。
ガストベルグの大剣が、横からカナに叩き込まれた。
同時に、ヴェロニカの魔法弾が三方から襲いかかる。
銀詩の旅団の先制攻撃。
エルネストの指示ではない。
身体が勝手に動いた、歴戦の連携だった。
「……っ、うざいなあ!」
カナが、初めて防御に回った。
短剣で大剣を受け流し、魔法弾を跳んで躱す。
一瞬の隙。
ミャルは、カナの脇をすり抜けた。
壁際のオークの元へ。
ミャルは、血の海に膝をついた。
オークの顔を覗き込む。
目は、半開きのまま濁っていた。
息をしていない。
心臓も、動いていない。
アルドは、死んでいた。
「……ばかにゃ」
ミャルは、小さく呟いた。
「こんなところで犬死にゃんて、ホントにばかにゃ。お前みたいな奴でも、想ってくれる人がいるっていうのに……。しゃーにゃい。一回だけって約束したからにゃ!」
満月の夜。
ミャルが一番嫌う夜。
ミャルは、両手を合わせ、目を閉じる。
魔力が、ミャルの手のひらに集まっていく。
ゆっくりと。
ゆっくりと。
謁見の間の暗がりに、淡い光が灯った。
月明かりよりも、なお白い光が。




