第百二十九話「瘴気と、切断と、あと問題」
壁際に、一匹のオークが転がっていた。
丸い腹に、ピンクの肌。
もちろんアルドだ。
作戦は失敗した。
メイトは床で白目をむいている。
刹那の姿は剥がされた。
目の前には、カナとデモンレイア。
絶体絶命。
だが……。
まだだ。
まだ終わっていない。
アルドは、壁にもたれたまま頭を回転させる。
手札は、もう一枚ある。
エルネストだ。
あいつは、自分の策を踏みにじられて黙っている男ではない。
魔法陣の行き先が変わったことに、すぐに気づく。
そして、ここへ来る。
怒りに燃えて。
あいつが来れば、カナとデモンレイアの意識が逸れる。
そこに隙ができる。
時間を稼げばいい。
ほんの数分でいい。
アルドは、立ち上がろうとしたが。
動かない。
腕が。
足が。
指一本、思うように動かない。
なんだ、これは。
身体の芯が、じんじんと痺れている。
息をするのさえ、ひどく苦しい。
さっきの波動だ。
デモンレイアが放った、黒い波動。
あれは、メタモルフォーゼを剥がしただけではなかった。
おそらく瘴気。
ゴーストの身体から滲み出る、毒の気。
死の波動。
それをまともに浴びたのだ。
ふざけるな。
動け。
動けってんだ、この豚体!
足の代わりに、腕で床を押す。
だめ。
なら、腕の代わりに、腹で床を這う。
ずり。
ずり。
出口の方へ。
可能性がある方へ。
死にものぐるいで這う。
みっともない。
勇者のやることではない。
だから?
生きてさえいれば、何とでもなる。
死んだら、終わりだ。
ずり。
ずり。
カナは、追ってこなかった。
ただ、短剣を指先でくるくる回しながら、アルドの背中を眺めていた。
ひゅっ。
風が鳴った。
次の瞬間、アルドの両足が、膝の下から消えていた。
「……ぶ、ひ……っ」
遅れて、激痛が来た。
熱い。
焼けるように熱い。
床に、赤い血が広がっていく。
斬られた。
感じなかった。
カナが動いたことすら、分からなかった。
斬られた足は、戻らない。
にゅるん、と形を作り直すことができない。
当然だ。
今のアルドは、スライムオークではないのだから。
ハイドオークに進化した時点で、スライムボディは失われている。
斬られれば、斬られたまま。
普通に、斬撃が効く。
「逃げないでよ」
カナが、アルドの前にしゃがみ込んだ。
にっこりと笑っている。
さっきまで泣いていたのが嘘のような顔で。
「まだ話、終わってないじゃん」
カナは俺を殺す気だ!
アルドには分かった。
匂いがそう告げている。
この女は、最初から、ここで俺を殺すつもりでいる。
カナは、短剣の切っ先でアルドの鼻先をつついた。
「ねぇ、アルド。問題出してあげよっか」
「……」
「正解したら、見逃してあげるよ」
「カナ」
背後から、デモンレイアの声がした。
不服そうな声だった。
「遊んでいる暇はない。その男は、今すぐ魔王様の御前へ連れて行く」
「うるさいなあ。ちょっとくらいいいでしょ」
カナは、振り返りもしなかった。
デモンレイアは、眉をひそめたが、それ以上は言わなかった。
カナは、アルドの顔を覗き込んだ。
「じゃあ、問題です」
楽しそうに。
歌うように。
「カイって、だーれ?」
カイ。
カイ?
アルドは、記憶を探った。
カイ。
知らない。
そんな名前、聞いたことがない。
旅の途中で会った誰かか?
助けた村人か?
倒した敵か?
分からない。
何も出てこない。
「三」
カナが数える。
「二」
短剣の刃が、月明かりを反射する。
「一」
アルドの口は、ぶひ、としか鳴けなかった。
「はい、時間切れー」
ひゅっ。
また、風が鳴った。
アルドの両の手首が、ころりと床に転がった。
「……っ!!」
声にならない悲鳴。
カナは、転がった手首を見下ろして、ふふっと笑った。
「だと思った」
笑っている。
「あんたはさ、人間じゃないんだよ」
声が、少しずつ高くなっていく。
「人の心がないんだよ。昔から。ずーっと」
くすくす。
「あっ、そっか。今はオークだもんね。人の心がないのも、当然か!あははははっ」
あは。
あはははは。
カナは、腹を抱えて笑った。
謁見の間に、甲高い笑い声が響く。
狂ったように。
壊れたように。
笑い声だけが、明るい。
だが、その目は少しも笑っていなかった。
底のない穴のような目で、アルドを見下ろしている。
「やっぱり、死んだ方がいいね。あんた」
笑顔のまま、カナは言った。
「カナ」
デモンレイアが、一歩前に出た。
今度は、さすがに本気の声だ。
「魔王様の命に背く気か」
カナの笑い声が、ぴたりと止まった。
ゆっくりと振り返る。
「……あんたさぁ、あたしに命令しないでくれる?」
「我の、ではない。魔王様の命だ」
「関係ないね」
カナは、短剣をくるりと回した。
「あたしはカナ。神足通のカナ」
その目が、デモンレイアを射抜く。
「誰も、あたしを縛れないんだよ!」
空気が凍った。
四天王と四天聖。
魔王軍の幹部同士が、睨み合っている。
チャンスだ。
二人の意識が、互いに向いた。
今なら。
だが、どうにもならない。
足は斬られた。
手首も斬られた。
身体は瘴気で痺れている。
這うことさえ、もうできない。
それでも。
まだだ。
まだ、諦めない。
アルドは、残った意識をかき集めた。
メタモルフォーゼ。
姿を変えられれば。
ワイルドオークなら、この二人を振り切れるかもしれない。
何でもいい。
何か、何か――。
熱い。
腹が、熱い。
何だ。
アルドは、自分の身体を見下ろした。
腹が、横一文字に裂けていた。
いつの間に。
カナだった。
デモンレイアと睨み合っていたはずのカナが、いつの間にか後ろにいた。
神速。
アルドが意識を集中した、その一瞬で、胴を裂いていた。
メタモルフォーゼに気づいたのか。
それとも、ただ気が向いただけなのか。
分からない。
分かるのは、一つだけ。
これは、致命傷だ。
血が、溢れる。
床が、冷たい。
視界が、暗くなっていく。
カナの声が、遠くに聞こえた。
「お前を助けて死んだ刹那をさ」
水の底から聞こえるような声。
「利用するなんて。あんた、頭おかしいんじゃないの?」
アルドは、薄れていく意識の中で思った。
利用?
何を言っているんだコイツ。
俺は、刹那を覚えていた。
ずっと。
ずっと。
誰よりもはっきりと。
だから、あの姿になれた。
それは、刹那を忘れていないという証だろう。
感謝の印だろう。
それに、お前は、お前が好きだった刹那を抱きしめられたんだぞ。
もう二度と会えないはずの男に。
感謝されこそすれ、恨まれる筋合いはない。
お前こそ、どうかしてる。
アルドには、本当に分からなかった。
なぜ、カナがこんなに怒っているのか。
カナが、アルドの耳元にしゃがみ込んだ。
囁く。
「これで、お前に壊されたカイも、浮かばれるよ」
カイ。
また、その名前。
アルドの意識が、闇に沈んでいく。
最後に、ひとつだけ思った。
だから。
カイって、誰だよ。




