第百二十八話「三秒と、誤算と、あと軽蔑」
メイトの触手が、首筋の奥へ潜り込んでいく。
すると、勇者の身体が、びくりと強張った。
アルドは、カナの両腕を極めたまま数え始めた。
一。
勇者の指先が震える。
聖剣の柄から、わずかに手が浮いた。
いける。
アルドは、心の中で拳を握った。
これが、アルドの秘策だった。
メイトに、アルドの身体を乗っ取らせる。
完全に制御できれば、主導権はメイトのものだ。
中にデモンレイアが、いようがいまいが関係ない。
そして、最大の特徴。
パラスワイバーンは宿主に寄生したまま空を飛べる。
ジェイルの実験で、思わぬ収穫を得た。
あいつは人間一人をぶら下げて、中庭を縦横無尽に飛び回った。
ならば。
俺の身体ごと、宝珠ごと、空へ連れ去ればいい。
窓を破り、空へ。
カナの神足通でも、空までは追ってこれないからな。
遠くへ逃げて、ゆっくり宝珠の使い方を調べればいい。
んで、俺の身体を取り返す。
完璧。
二。
勇者の膝が、がくりと沈んだ。
デモンレイアの口が、半開きのまま固まる。
よし。
もう少し。
あと一秒だ。
そのまま沈みやがれ。
俺をこんな姿にした報いを受けさせてやるからな。
まずは聖水風呂だ!
死ぬまで……違うな、生き返るまで、徹底的にやるから覚悟しとけ。
三。
ぽろり。
メイトが、勇者の背中から落ちた。
べちゃ。
石の床に、小さな身体が転がる。
翼は広がったまま、手足はぴくぴくと痙攣している。
白目をむいていた。
「……は?」
アルドの口から、間の抜けた声が漏れた。
何が起きた?
完全な制御までの、約三秒。
確かに経過したはず。
ジェイルの時は、それで動きが止まった。
なのに、なぜ落ちる。
アルドは床のメイトを見た。
泡を吹いていた。
「きゅ……きゅい……」
「ふむ。寄生竜か。トールが使っていた駒だな」
デモンレイアの声がした。
勇者の身体が、首をこきりと鳴らしていた。
膝は、もう沈んでいない。
指先も、震えていない。
何事もなかったかのように、デモンレイアは足元のメイトを見下ろしていた。
「我を乗っ取ろうとは。なかなか面白いことを考える」
次に、デモンレイアはアルドを見た。
笑ってはいなかった。
怒ってもいなかった。
無感情。
ただの反応と感想、それだけ。
「生あるものが、死者の魂に触れるなど……よくやる」
アルドは、この言葉でようやく理解した。
パラスワイバーンの寄生は、神経を乗っ取るもの。
宿主の脳から出る命令を、横取りする。
ヴァルデマールも、ジェイルも、人間だった。
身体を動かしていたのは、本人の神経と、本人の魂。
だから、神経さえ奪えば、身体は止まった。
だが、今の勇者の身体は違う。
中にいるのはデモンレイア。
ゴースト系のモンスター。
神経で身体を動かしているのではない。
魂そのもので、肉体の支配権を握っている。
メイトは、神経を辿って奥へ潜り込んだ。
そして、その奥で、触れてしまったのだ。
ゴーストの精神に、直接。
死者の領域に、首を突っ込んだようなもの。
生きている竜が、死の淵を覗き込んだ。
それは、臨死体験と同じだった。
誤算。
完全な誤算だった。
アルドは、メイトの能力を確かめた。
ジェイルで試し、能力を測り、副次的な作用まで調べぬいた。
だが、ゴーストに寄生させたことは一度もない。
そんなこと試しようがなかった。
勝てると思った瞬間に、一番大事なところを見落としていた。
まったく役に立たなかった。
メイトは、床で痙攣している。
たぶん、しばらく起きない。
どうする。
次の手は!
考えろ。
ここで……。
ここで終われねーだろっ!
そう思った、その時だった。
腕の中で、何かが動いた。
カナだ。
アルドが極めているカナの両腕。
それが、少しずつ、少しずつ、アルドの腕を押し返していた。
「……っ」
アルドは、さらに力を込めた。
ボルトロック。
ベルガ聖騎士流徒手空拳の関節技。
力ではなく、骨の構造で固める技だ。
腕力の差があっても、普通は抜けられない。
普通は。
だが、カナの腕は止まらなかった。
ぎしり。
ぎしり。
骨が鳴る。
アルドの腕が軋む。
力が違う。
はなから、地力が違うのだ。
今のアルドは、オークの身体に刹那の姿を被せているだけ。
技は達人級でも、中身の筋力はオークのそれ。
おまけに、メタモルフォーゼで体力も削られ続けている。
一方、カナは単独でSランクに届く盗賊。
元勇者パーティの一人。
四天聖。
本気になったカナの力に、今のアルドが敵うはずがなかった。
カナは、何も言わなかった。
さっきまで泣いていたのが、嘘のようだ。
しゃくりあげる声も、震える声もない。
顔を上げない。
ただ、静かに。
静かに、腕に力を込めている。
表情は見えない。
だが、匂いでアルドには分かった。
これは、怒りだ。
それも、今まで嗅いだことがないほど、深く、冷たい怒り。
憎悪、といってもいいだろう。
次の瞬間。
カナの両腕が、無理やりに拘束を引き剥がした。
腕ごと、外側へ弾き飛ばす。
そして。
カナの足が、アルドの腹にめり込んだ。
「がっは……!」
ただの蹴り。
技でも何でもない。
なのに。
アルドの身体が、宙に浮いた。
木箱を砕き、樽を吹き飛ばし、謁見の間を一直線に飛ぶ。
ドガァン!
石の壁に叩きつけられた。
壁に、蜘蛛の巣のような亀裂が走る。
肺の空気が、全部抜けた。
視界が揺れる。
刹那の姿が、ぐらりと崩れかけた。
だめだ。
まだ、解けるな。
アルドは、必死に姿を保とうとした、が。
「ふん!」
デモンレイアが、片手を上げ、掌から黒い波動が放たれる。
音も、風もなく。
ただ、空間そのものが揺れた。
波動が、アルドの身体を包んだ。
そして。
刹那の姿が、ほどけた。
ぐにゃり。
抗えなかった。
メタモルフォーゼが、外側から剥がされていく。
まるで、魂の上に被せた皮を、無理やり剥ぎ取るように。
そして、そこに残ったのは。
丸い腹。
ピンクの肌。
短い手足。
小さな牙。
壁際に転がる、一匹のオーク。
「……ぶひ」
声も、もう人間のものではなかった。
アルドは、壁にもたれたまま、顔を上げた。
カナが、こちらに、ゆっくりと歩いてくる。
床に落ちた短剣を、拾い上げる。
涙は、もう乾いていた。
その目には、何もなかった。
悲しみも。
驚きも。
憐れみも。
ただ、軽蔑だけがあった。
これ以上ないほどの、汚いものを見る目。
汚物を見る目。
カナは、オークになったアルドを見下ろして、静かに言った。
「あんた、やっぱり人間じゃないよ」




