第百二十六話「刹那と、再会と、あと探し物」
「なんてこと……出口の向きが、ずらされてる」
ヴェロニカは、応接室の天井に刻まれた魔法陣へ杖の先を当てたまま、青ざめた顔で呟いた。
蔓模様に偽装された複雑な命令式を、一つひとつ辿っていく。
自分が書き加えた箇所と、そこへさらに重ねられた何者かの干渉。
その痕跡を確認するにつれ、彼女の表情は険しくなった。
「条件そのものは変わってないわ。最高レベルを持つ者を判別する部分もそのまま。でも、行き先だけが変えられてる。この向き、この距離……謁見の間よ」
「……何がどうなっているっ!?」
エルネストの声から、いつもの余裕が消えていた。
「命令が書き換えられてるの。私が書いた術式の上から、別の誰かが」
ぶつり、と乾いた音がした。
エルネストが握っていたライアーの弦が一本切れた。
「誰かが……私の策を逆に利用した、と?」
柔らかな笑顔は、もうどこにもない。
「誰です。その愚か者は」
「分からない。ただ、これは普通の魔術師のやり方じゃないわ。術式を丁寧に解体して組み直した感じじゃない。もっと乱暴で……剣で斬ったみたいな、そんな書き換え方」
「…………」
エルネストはライアーを背へ回すと、腰に差した細身の長剣へ手をかけた。
「グレゴール!」
「は、はいっ!」
「兵を連れてついてきなさい。謁見の間へ急ぎます!」
「は、ははっ!」
「ガストベルグ、ヴェロニカ、ミャル。行きますよ!」
エルネストは扉を蹴り開け、そのまま廊下へ飛び出した。
誰がやったのかは分からない。
だが、自分が作った策を利用し、その上を行こうとした者がいる。
エルネストを出し抜き、アルドを先に奪おうとしている。
許せない。
絶対に。
勇者アルドは、私のものだ。
ちょうどその頃。
アルドの隠れている木箱の前で、カナの足が止まっていた。
薄い板一枚を隔てた向こうにいる。
それだけの距離。
アルドは息を殺したが、もう遅い。
カナは、誰がいるかまでは分かっていなくとも、そこに何かが潜んでいることには気づいている。
次の瞬間には、短剣が木箱を貫いていてもおかしくない。
逃げるか?
無理だ。
神足通から逃げられる者など、この世界に何人いる。
では、戦うか?
カナとデモンレイアを同時に?
無謀で無駄死に。
今の自分では勝てない。
ならば。
答えは、すでに出ていた。
HP倍増を活かす。
影の中で、アルドの身体がぐにゃりと揺れた。
「アニキ?」
隣に潜んでいたメイトが目を丸くする。
「お前はそこにいろ。何があっても絶対に出るな。俺が合図するまでな」
「……了解っす」
いつになく低い声だったからか、メイトも何も聞き返さず、木箱の隙間に小さく身体を丸めた。
その直後、カナの指が短剣の柄へかかる。
刃が抜かれる、その寸前だった。
木箱の陰から、一人の男がゆっくりと立ち上がった。
「…………」
カナの手が止まる。
長く後ろで結わえられた黒髪。
東方の装束。
そして腰には一振りの刀。
何よりも、その穏やかな目。
その姿を見た瞬間、カナは息をすることさえ忘れた。
「……え?うそ……」
声がかすれる。
刹那の姿をしたアルドは、ゆっくりとカナを見下ろした。
「久しいな、カナ。息災だったか?」
低く、静かな声。
カナの肩が、びくりと跳ねた。
「刹那……?」
一歩、カナが後ろへ下がる。
短剣を構え直したものの、その切っ先はわずかに震えていた。
「うそ……うそだ……だって、刹那は……刹那は、あの時……」
死んだ。
そのはずだ。
だが、その最後の言葉だけが、どうしても口から出なかった。
「偽物……だ」
カナの目が変わった。
盗賊の目。
嘘や欺瞞、わずかな違和感すら見逃さない眼差し。
カナは刹那の姿を、頭の先から足元までじっくりと観察した。
顔も髪も装束も、姿だけなら真似はできる。
変身能力を持つモンスターもいれば、幻術という可能性もある。
だが。
目の前の男は違った。
立ち方、呼吸、重心、そのすべてに隙がない。
確かにそこにいるはずなのに、雲のように掴めず、風のように静かで、水面のように揺れない。
達人の極み。
そんなものは、見た目だけを真似たところで再現できるはずがない。
カナは知っていた。
その男の佇まいだけは。
ずっと、遠くから見ていたから。
「……本物、なの?」
カナの声が震えた。
アルドは静かに頷く。
「あの時、俺は死にかけた」
刹那の声で、アルドは嘘をつく。
ただし、全部を嘘にはしない。
嘘を通したいのなら、事実を少し混ぜる。
その方が相手の心へ入りやすい。
「だが、奇跡的に助かった。しばらくは、まともに動けなかったがな。傷が癒えるまでに、ずいぶん時間がかかった」
「…………」
「そのあと、お前を探した」
「私を……?」
「ああ。足取りを追って、ここまで来た」
アルドは刹那の顔で、少しだけ目を細めた。
「お前が、魔王の側についたと聞いた」
「……っ」
カナの目が揺れる。
「信じられなかった。だから、確かめたかった。お前の口から、直接」
からん。
短剣が床へ落ちた。
石の床を叩く乾いた音が、静かな謁見の間に響いた。
カナは両手で口を押さえ、肩を震わせる。
「……ばか」
声が裏返った。
「ばか……ばかばかばか……っ」
次の瞬間、カナはアルドへ飛びついた。
刹那の胸へ顔を埋め、両腕で強くしがみつく。
「生きてた……生きてたんだ……っ」
涙が装束へ染みていく。
「よかった……よかったよぉ……」
カナは泣いていた。
子供のように。
いつも人を小馬鹿にしたように笑い、誰よりも速く、何が起きてもへらへらしていた女が、今は声を上げて泣いている。
「私たちのせいで……私たちのせいで、刹那があんなことに……ずっと、ずっと……」
その先は言葉にならなかった。
しゃくりあげる声だけが、広い謁見の間へ響く。
アルドは刹那の顔のまま、カナの頭へそっと手を置いた。
ぽん。
昔、刹那がそうしていたように。
私たちのせい。
あんなことに。
その言葉を聞いた瞬間、アルドの胸の奥で何かが小さく軋んだ。
いつもの、雲のように掴めない背中。
『死ぬには日が悪いぞ』
振り返りもせず、そう言った。
あれが、最後に聞いた刹那の声だった。
アルドは小さく頭を振る。
今、思い出すことではない。
これはただの記憶だ。
昔のこと。
それだけ。
そう自分に言い聞かせる。
アルドは、それが後悔と呼ばれるものだとは、まだ気づいていなかった。
気づかないまま、ずっと胸の奥へしまい込んでいた。
だからこそ、この姿だけは誰よりも鮮明に描ける。
今、カナの意識は完全にこちらへ向いている。
短剣は床の上。
両腕は刹那の背中。
視界も感情も思考も、すべて刹那に奪われている。
これ以上ない隙だった。
二度と作れないほどの。
だが、もう一人いる。
デモンレイア。
「…………」
あいつは、さっきから一言も喋っていない。
動いてもいない。
ただ、じっとこちらを見ている。
刹那の姿をしたアルドを。
その視線が、妙に肌へ突き刺さる。
何だ?
思考を読まれている?
いや、違う。
これは何か、別の――。
満月の光が高い窓から差し込み、玉座の周囲を白く照らしている。
その中で、デモンレイアの口元がゆっくりと吊り上がった。
「……ふ」
小さな笑い。
「ふ……ふふ……」
やがて肩まで揺れ始める。
「ふはははははははははっ!」
突然の哄笑が、広い謁見の間を震わせた。
カナがびくりと顔を上げ、アルドも思わず眉をひそめる。
デモンレイアは笑っていた。
アルドの身体で。
アルド自身が一度もしたことのない、狂ったような笑い方で。
「これはいい!これは傑作だ!」
「……何?」
カナが、きょとんとした顔でデモンレイアを見る。
何がおかしいのか分かっていない。
だが。
デモンレイアの目はカナを見ていなかった。
まっすぐに、刹那の姿をしたアルドを射抜いている。
その顔でも身体でもない。
もっと奥。
刹那ではない、その中にいる魂を見ている。
「…………!」
アルドの背筋が凍った。
バレた。
理屈ではなく、直感で分かった。
この魔族は、俺がアルドだと分かっている。
「魔王様の勅命だ」
デモンレイアは笑いながら、両腕を大きく広げた。
「ずっとお前を探していたのだぞ」
そして、狂喜を滲ませたままアルドを見据える。
「まさか、探し物がこんなところで、自らやって来るとはな!」




