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第7話 幕間・やっさんと五年前の事件

 午前九時四十八分。


 境界管理局、地下資料室。


 蛍光灯の白い光が、無機質な室内を照らしていた。


 机の上には、数十冊の調査記録が積み上げられている。


「……ないっすね」


 桜木が椅子の背もたれに身体を預けた。


 大柄な身体が傾き、椅子がぎしりと音を立てる。


「桜木さん。椅子が壊れます」


「俺より先に椅子の心配っすか?」


「備品ですので」


「俺も局の備品みたいなもんっすよ」


「……そういうことを言っているわけでは」


 玲は小さくため息をついた。


 悠太朗が消えてから、三日が経過していた。


 あの夜。


 閉鎖された市立病院の四階に現れた、存在しない404号室。


 黒い扉。


 そして、その向こうへ消えた悠太朗。


 境界管理局は連日調査を続けていたが、進展はなかった。


 扉は再び現れず、霊力反応も検出されない。


 悠太朗の生死すら、分かっていなかった。


「……先輩、何してるんすかね」


 桜木が天井を見上げた。


「さあ……」


「飯、食えてるんすかね」


「分かりません」


「寝る場所とか……」


「桜木さん」


「はい?」


「考えても、答えは出ません」


「……分かってるっすよ」


 桜木は机に突っ伏した。


「分かってるんすけどね」


 玲は何も言わず、次の資料を開いた。


 自分だって、同じことを考えていた。


 悠太朗は、どこにいるのか。


 怪我はしていないか。


 無事なのか。


 そして何より。


 まだ、生きているのか。


「…………」


 玲は首を振った。


 今は調べるしかない。


 それが、悠太朗から教わったことだった。


     ◇


 午前十時二十三分。


「……あれ?」


 玲の手が止まった。


「どうしたんすか?」


「いえ……少し」


 開いていたのは、過去の行方不明者に関する調査記録だった。


 境界管理局では、任務中の死亡事故や失踪事件を記録している。


 その大半は、強力な悪霊との交戦や、霊障区域での遭難だった。


 しかし。


 一件だけ、奇妙な記録があった。


『霊界オペレーター失踪事案』


 発生年月日は五年前。


 任務区分は、単独調査。


 対象者の霊力反応は、現場到着後に消失。


 以後、追跡不能。


 遺体、遺留品ともに発見されず。


「……桜木さん」


「はい?」


「これを見てください」


 桜木が椅子ごと近づいた。


「五年前……?」


「はい」


「霊力反応が消えたって……」


「悠太朗さんの件と似ています」


 玲は記録を指でなぞった。


 ただし、相違点もあった。


 黒い扉の記載はない。


 存在しない部屋もない。


 失踪した場所も、病院ではなかった。


 それでも。


 現場から突然、霊力反応だけが消えた。


 その一点が、妙に引っかかった。


「名前は?」


 桜木が尋ねる。


 玲はページをめくった。


 しかし、対象者の氏名欄には閲覧制限がかかっていた。


「……非公開になっています」


「なんでっすか?」


「分かりません」


「担当者は?」


「こちらも……」


 玲は資料の末尾を確認した。


 そこには、当時の調査協力者の名前が記載されていた。


 泰永正孝。


 玲の表情が変わる。


「……桜木さん」


「今度は何っすか?」


「この事件、やっさんが関わっています」


     ◇


 午後一時十七分。


 町外れの古い整備工場。


 シャッターは半分だけ開いていた。


 中から金属を叩く音が聞こえる。


 カン。


 カン。


 カン。


「やっさーん!」


「うるせぇな!」


 奥から怒鳴り声が返ってきた。


「お前ら、普通に入ってこられねぇのか!」


「一応、声かけた方がいいかと思ったっす!」


「声量を考えろ!」


 黄色いジャージ姿のやっさんが、工具を片手に現れた。


 額には薄く汗が浮かんでいる。


「で、どうした?」


「ちょっと聞きたいことがあるっす」


「悠太朗の件か?」


「はい」


 玲が一歩前に出た。


「過去の調査記録を調べていました」


「ほう」


「五年前に発生した、霊界オペレーターの失踪事件についてです」


 やっさんの手が止まった。


「…………」


 わずかな沈黙。


「……五年前?」


「はい」


 玲は持参した資料を差し出した。


「この事件です」


 やっさんは資料を受け取った。


 表紙を見る。


 ページをめくる。


 そして。


「……ああ」


 短く答えた。


「これか」


「知ってるんすか?」


 桜木が尋ねる。


「知ってるよ」


「詳しいこと、教えてほしいっす」


 やっさんは資料を閉じた。


「……中、入れ」


     ◇


 整備工場の奥には、小さな休憩室があった。


 古いソファ。


 傷だらけのテーブル。


 壁には色褪せた作業予定表が掛かっている。


 やっさんは三人分の缶コーヒーを置いた。


「ほら」


「ありがとうございます」


 玲が頭を下げる。


 桜木は缶を手に取った。


「……ブラックっすか」


「文句あるなら返せ」


「ないっす!」


 やっさんは椅子に腰を下ろした。


 しばらく缶コーヒーを眺めていたが、やがて口を開いた。


「……五年前の事件な」


「はい」


「当時、俺も調査に参加した」


「やっぱりそうなんすね」


「ただな」


 やっさんは二人を見た。


「先に言っとくが、悠太朗の件と関係があるかは分からねぇぞ」


「……はい」


「似てるからって、同じものだとは限らねぇ」


 玲が頷く。


「承知しています」


「ならいい」


 やっさんは立ち上がった。


 部屋の隅に置かれた古い棚へ向かう。


 引き出しを開け、奥から一冊のアルバムを取り出した。


 表紙は擦り切れている。


 何度も開かれたのだろう。


「……これ、見ろ」


 テーブルの上に、写真が一枚置かれた。


 黒髪の青年だった。


 少し長めの髪。


 黒い眼鏡。


 濃紺の作業用つなぎ。


 片手には、銀色のレンチを持っている。


 どこか生意気そうな笑みを浮かべていた。


「……誰っすか?」


 桜木が尋ねる。


 やっさんは写真を見つめたまま答えた。


「十黒」


「……ジュウクロ?」


「ああ」


 そして、静かに続けた。


「俺の息子だよ」


「…………え?」


 桜木が固まった。


 玲も目を見開く。


「やっさん、息子いたんすか!?」


「いたよ」


「初耳っすよ!」


「聞かれなかったからな」


「いや、そういう問題っすか!?」


 やっさんは小さく笑った。


 しかし、その笑みは長く続かなかった。


「……あいつが、五年前に消えたオペレーターだ」


 部屋が静まり返った。


     ◇


「……失踪した時は、二十二だった」


 やっさんが話し始めた。


「今、生きてりゃ二十七だな」


 泰永十黒。


 やっさんの息子。


 若い頃から霊を見ることができ、父親の仕事にも興味を持っていた。


 霊界オペレーターとしての訓練を受け、特に霊力操作の技術に優れていたという。


「才能はあったよ」


 やっさんは写真を指で軽く叩いた。


「俺が教えたことも、すぐ覚えやがる」


「……すごいっすね」


「生意気だったけどな」


 やっさんが鼻で笑う。


「俺を超えるとか、偉そうなことばっか言ってた」


「親子っすね」


「どういう意味だ」


「いや、何でもないっす!」


 玲は写真を見つめた。


「……悠太朗さんとは?」


「面識あるよ」


 やっさんが答える。


「何度か一緒に仕事してた。十黒も、悠太朗のことは先輩として慕ってたな」


「……そうだったんですね」


「ああ」


 やっさんは写真を裏返した。


 そこには、五年前の日付が書かれていた。


「初めての単独任務だった」


 声が低くなる。


「現場に着いたところまでは、確認できてる」


「その後は?」


 玲が尋ねた。


「……連絡が来た」


「十黒さんから?」


「ああ」


 やっさんは缶コーヒーを持ち上げた。


 しかし、口をつけずに戻した。


「それが最後だった」


「…………」


「現場を調べたが、何も出なかった。霊力の痕跡も、争った形跡もな」


「……黒い扉は?」


「確認されてねぇ」


 やっさんは首を振った。


「悠太朗の件とは、そこが違う」


 桜木が腕を組んだ。


「でも、消え方は似てるっすよね」


「似てるな」


「だったら……」


「桜木」


 やっさんが遮った。


「似てるってだけで、結論を出すな」


「…………」


「証拠がなきゃ、何も分からねぇ」


 桜木は口を閉じた。


 やっさんは写真に目を落とした。


「……五年間、嫌ってほど思い知ったよ」


     ◇


「……やっさん」


 玲が静かに口を開いた。


「一つ、聞いてもいいですか」


「何だ?」


「なぜ、私たちに話してくださらなかったんですか?」


 やっさんは少し考えた。


「……何を?」


「十黒さんのことです」


「ああ」


 やっさんは天井を見上げた。


「別に、隠してたわけじゃねぇよ」


「…………」


「ただ、話したところで何が変わるって話でもねぇだろ」


 少し間を置く。


「それに、悠太朗が消えた時点じゃ、十黒の件と結びつける根拠もなかった」


「……そうですね」


「お前ら、あの時は今にも病院へ突っ込みそうだったからな」


 桜木が視線を逸らす。


「……まあ」


「そんな時に、昔の失踪事件まで聞かせたらどうなる?」


「…………」


「余計に焦るだろ」


 やっさんは缶コーヒーを開けた。


 プシュッ。


 小さな音が響く。


「……俺はな」


 珍しく、言葉を探すように間を置いた。


「あいつに仕事を教えた」


「…………」


「霊の扱い方も、戦い方も、危ない時の逃げ方もな」


 やっさんは自分の手を見つめた。


「一人でも大丈夫だと思ってた」


 その声には、いつもの軽さがなかった。


「……でも、帰ってこなかった」


 桜木も玲も、何も言わなかった。


「親ってのは、面倒くせぇもんだな」


 やっさんが苦笑する。


「五年経っても、あの時こうしてりゃって考えちまう」


「……やっさん」


「だからよ」


 やっさんは顔を上げた。


「お前らまで、同じ目に遭わせるわけにはいかねぇんだ」


 桜木は黙って頷いた。


 悠太朗が消えた、あの夜。


 やっさんが言った言葉を思い出す。


『助けたい気持ちだけで飛び込んだら、今度はお前らが消える』


 あの言葉には、理由があった。


     ◇


 午後三時四十二分。


 テーブルには二つの調査記録が並べられていた。


 一つは、悠太朗の失踪事件。


 もう一つは、十黒の失踪事件。


 玲がノートに情報を書き出していく。


「共通点は、霊力反応の消失。失踪後の追跡が不可能なこと。それから、遺留品が確認されていないことです」


「違いは?」


 やっさんが尋ねる。


「十黒さんの事件では、黒い扉が確認されていません。また、発生場所も異なります」


「そうだな」


「……現時点では、同じ現象とは判断できません」


「よし」


 やっさんが頷いた。


「じゃあ、次は?」


 玲は少し考えた。


「十黒さんの失踪現場を再調査したいです」


「ほう」


「当時の記録と、現在の測定結果を比較します」


「いいんじゃねぇか」


 桜木が立ち上がった。


「じゃあ、早速行くっす!」


「待て」


 やっさんが即座に止めた。


「何すか!?」


「現場の場所、知ってんのか?」


「……知らないっす」


「調査許可は?」


「……まだっす」


「必要な装備は?」


「ゴムハンマー!」


「それしかねぇのか、お前は!」


 玲が小さく笑った。


 やっさんも呆れたように肩をすくめる。


「まったく……」


 そして、二人を見た。


「焦るな。諦めるな。手順を飛ばすな」


「……はいっす」


「はい」


「よし」


 やっさんは立ち上がった。


「まずは局に申請だ。俺も同行する」


「引退したんじゃなかったんすか?」


「したよ」


「じゃあ、何で……」


「息子の件だぞ」


 やっさんはあっさり答えた。


「今さら遠慮してられるか」


     ◇


 午後六時二十一分。


 桜木と玲が帰った後。


 整備工場には、再び静けさが戻っていた。


 やっさんは休憩室に一人残っていた。


 テーブルの上には、十黒の写真。


 若い頃の息子が、こちらを見て笑っている。


「……ったく」


 やっさんは写真を持ち上げた。


「お前、どこで何やってんだよ」


 返事はない。


「悠太朗まで消えちまったぞ」


 写真の中の十黒は、相変わらず生意気そうな顔をしていた。


 やっさんはしばらく、その顔を見つめていた。


「……あいつも、お前のこと探してたんだぞ」


 独り言のように呟く。


「お前が消えた時、随分と気にしてた」


 写真を裏返す。


 五年前の日付。


 その下には、短い文字が書かれていた。


『初単独任務』


 やっさんは苦笑した。


「……嬉しそうだったよな、お前」


 息子の姿を思い出す。


 初めて一人で任務を任された日。


 口では面倒くさそうにしていたくせに、どこか得意げだった。


 やっさんは目を閉じた。


 最後に聞いた息子の声が、今も耳に残っている。


 あの日。


 自分は何を間違えたのか。


 何度考えても、答えは出なかった。


「……十黒」


 写真をそっとアルバムに戻す。


「五年も待たせやがって」


 やっさんは立ち上がった。


 壁に掛けられた黄色いジャージの上着を手に取る。


「……今度こそ、見つけてやるからな」


 工場のシャッターを閉める。


 ガラガラと、金属の音が夕暮れに響いた。


 悠太朗。


 十黒。


 二人の霊界オペレーターが、異なる場所で姿を消した。


 それが偶然なのか。


 それとも、同じ何かに巻き込まれたのか。


 まだ、誰にも分からない。


 ただ一つ。


 五年前に止まっていた調査が、再び動き始めようとしていた。


 ――消えた息子を、連れ戻すために。

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