第8話 幕間・召喚された勇者
「……ここ、どこですか?」
神谷レンは、呆然と周囲を見回した。
つい先ほどまで、学校からの帰り道を歩いていたはずだった。
夕暮れの住宅街。
手にしていたスマートフォン。
母親から届いた、夕飯についてのメッセージ。
信号待ちをしていたとき、突然足元が光り始めた。
アスファルトの上に、見たこともない幾何学模様が浮かび上がったのだ。
逃げようとした。
だが、足が動かなかった。
次の瞬間、視界が金色の光に包まれた。
そして、気づけばここにいた。
巨大な石造りの大広間。
高い天井には色鮮やかなステンドグラスが並び、足元には複雑な紋様が刻まれている。
周囲を取り囲むのは、白い法衣をまとった人々だった。
「お待ちしておりました」
神官たちが一斉に跪く。
「え?」
目の前の老人が、深々と頭を下げた。
「異界より召されし――勇者様」
次の瞬間、歓声が大広間を満たした。
「成功だ!」
「勇者召喚が成功したぞ!」
「これで、我が国は救われる!」
レンは、その場に立ち尽くしていた。
周囲の人々は、涙を流し、喜び合っている。
けれど、レンには何が起きたのか分からなかった。
誰もが自分を歓迎している。
まるで、ずっと待ち望んでいた誰かが帰ってきたかのように。
しかし。
レンにとって、ここは見知らぬ場所だった。
「……あの」
声を出しても、歓声は収まらない。
「すみません。ちょっと、聞きたいことが……」
誰も答えない。
レンは、手にしていたスマートフォンを握りしめた。
画面には、圏外の文字。
胸の奥が、嫌な音を立てて縮んだ。
――帰らなきゃ。
母親が、夕飯を作って待っている。
明日は学校がある。
友達との約束だってある。
こんなところにいる場合じゃない。
「……帰りたいんですけど」
その声は、歓声にかき消された。
勇者の誕生を祝う人々の中で。
ただ一人。
召喚された少年だけが、笑っていなかった。
*
案内された部屋は、驚くほど豪華だった。
大きな天蓋付きのベッド。
柔らかな絨毯。
磨き上げられた家具。
窓の外には、石造りの街並みが広がっている。
遠くには巨大な城壁。
その向こうには、見たこともない山々が連なっていた。
レンはベッドに腰を下ろした。
スマートフォンを取り出す。
圏外。
電源を入れ直しても、変わらない。
地図アプリも、メッセージも、何も使えなかった。
「……夢、だよな」
頬をつねった。
痛い。
もう一度、強くつねった。
やっぱり痛かった。
「……マジかよ」
画面には、母親からのメッセージが残っている。
『今日、夕飯いる?』
ほんの少し前まで、普通の一日だった。
明日は学校がある。
週末には友達と遊ぶ約束もしていた。
来月には試験がある。
面倒だと思っていたことばかりなのに、今はどれも懐かしく感じた。
レンはメッセージの入力欄を開いた。
『いる』
いつもなら、それだけ送って終わりだった。
送信ボタンを押す。
小さなエラーマークが表示された。
「……そりゃ、そうか」
笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
「勇者様。失礼してもよろしいでしょうか」
若い女性の声だった。
「あ……はい」
扉が開いた。
入ってきたのは、淡い金色の髪をした少女だった。
年齢はレンと同じくらいだろうか。
白と青を基調とした神官服をまとい、胸元には金色の紋章が輝いている。
「初めまして。私はセリシアと申します。神殿に仕える神官です」
少女は丁寧に頭を下げた。
「今後、勇者様のお世話を担当させていただきます」
「……神谷レンです」
「レン様、ですね」
「あの、普通にレンでいいですよ」
「ですが、勇者様にそのような……」
「俺、勇者じゃないです。普通の高校生なんで」
セリシアは、少し驚いたように瞬きをした。
「コウコウセイ……?」
「学校に通ってる学生です。十八歳で」
「十八歳……」
彼女の表情が、わずかに曇った。
「……そう、でしたか」
レンは、その変化に気づいた。
「何か?」
「いいえ」
セリシアはすぐに微笑んだ。
「お疲れでしょう。まずはお食事をお持ちしましょうか」
「……それより、聞きたいことがあるんですけど」
「はい」
「俺、どうしてここにいるんですか?」
セリシアの笑顔が消えた。
*
説明は、長かった。
魔王という存在。
人間界への侵略。
各地で続く戦争。
失われた村々。
王国軍の敗北。
そして、魔王に対抗するための勇者召喚。
レンは黙って聞いていた。
あまりにも現実離れした話だった。
けれど、窓の外に広がる街並みが、それを否定させてくれない。
「……つまり、俺に魔王を倒してほしいってことですか?」
「はい」
セリシアは静かに頷いた。
「この世界では、遥か昔から魔王と人間の戦いが繰り返されてきました。そのたびに、異界より召喚された勇者様が人々を救ってくださったのです」
「……今までも、俺みたいな人が?」
「はい」
レンは、少しだけ肩の力が抜けた。
自分だけではない。
同じように呼ばれた人がいる。
それなら、帰る方法だって――。
「じゃあ、その勇者たちは、魔王を倒した後どうしたんですか?」
「この世界で暮らされた方もいれば、戦いの中で命を落とされた方もいらっしゃいます」
「……元の世界に帰った人は?」
セリシアの指先が、膝の上で小さく動いた。
「……記録に残る限り、一人もおりません」
レンは、しばらく意味を理解できなかった。
「……一人も?」
「はい」
「それって……帰る方法がないってことですか?」
「帰還の方法は、いまだ見つかっておりません」
セリシアは目を伏せた。
「申し訳ありません」
レンは何も言わなかった。
窓の外から、子供たちの笑い声が聞こえてきた。
その声が、妙に遠かった。
「……ちょっと待ってください」
ようやく声が出た。
「帰る方法も分からないのに、俺を召喚したんですか?」
「……はい」
「魔王を倒しても、帰れる保証はないんですよね」
「……はい」
「じゃあ、俺は……」
レンは言葉を探した。
何を言えばいいのか分からなかった。
怒鳴りたい気持ちはあった。
けれど、何に怒ればいいのかさえ、うまく整理できなかった。
「……俺の人生は、どうなるんですか」
セリシアが顔を上げた。
「学校もあるし、家族もいるんです。友達だっている。別に、すごい人生じゃないけど……」
レンは膝の上で拳を握った。
「それでも、俺の人生なんです」
声が震えた。
「そっちが大変なのは分かります。人が死んでるって聞いたら、助けたいとも思います」
そこで、一度言葉を切った。
「でも……だからって、俺の人生を勝手に使っていいんですか?」
セリシアは答えられなかった。
「俺、勇者になりたいなんて、一度も言ってないですよ」
「……申し訳、ありません」
「謝られても……!」
思わず声が大きくなった。
セリシアの肩が小さく跳ねた。
レンは唇を噛んだ。
彼女が悪いわけではない。
きっと、ただ命令に従っているだけだ。
そんなことは分かっている。
分かっているのに。
「……すみません」
レンは顔を伏せた。
「怒鳴るつもりじゃ……」
「いいえ」
セリシアの声は、静かだった。
「レン様がお怒りになるのは、当然です」
彼女は深く頭を下げた。
「私たちは、あなたの故郷も、ご家族も、何も知らないまま召喚しました」
レンは顔を上げた。
「それでも……あなたに助けていただきたいのです」
セリシアは顔を上げなかった。
「魔王軍によって、いくつもの村が失われました。私の故郷も、その一つです」
「……え?」
「父は、村に残りました。母と弟を逃がすために」
彼女の声が、わずかに震えた。
「それきり、会えていません」
レンは何も言えなかった。
「弟は、まだ十歳です。今は王都で暮らしています。でも……夜になると、父の名前を呼ぶんです」
セリシアは、膝の上で両手を握りしめた。
「私は神官です。王国に仕え、人々を救うことが務めです。だから、勇者召喚が成功したとき、本当に嬉しかった」
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
「これで、弟を守れるかもしれない。これ以上、誰も故郷を失わずに済むかもしれないって……」
その目には、涙が浮かんでいた。
「でも、レン様にご家族がいることを、考えていませんでした」
レンは息を呑んだ。
「私が弟を守りたいと思うように、レン様にも大切な方がいらっしゃるのに」
セリシアは涙を拭わなかった。
「……ごめんなさい」
今度の謝罪は、神官としてのものではなかった。
レンは、しばらく彼女を見つめていた。
何か言わなければと思った。
大丈夫です、と。
気にしないでください、と。
そう言えば、きっと彼女は少し安心する。
けれど。
「……ごめんなさい」
レンは小さく呟いた。
「今は、大丈夫って言えないです」
セリシアは、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
「助けたくないわけじゃないんです」
「はい」
「でも、俺だって……帰りたいんです」
その言葉を口にした瞬間。
胸の奥で、何かが崩れた。
レンは顔を伏せた。
泣きたくなかった。
目の前の少女は、すでに家族を失っている。
そんな彼女の前で、自分まで泣くのは情けない気がした。
けれど、涙は勝手に落ちた。
「……帰りたい」
声が漏れた。
「……家に、帰りたいです」
セリシアは何も言わなかった。
ただ、静かにそばにいた。
慰めの言葉をかけることも、勇者としての使命を説くこともなかった。
今のレンに、どんな言葉も届かないことを理解していたからだ。
やがて、レンは袖で目元を拭った。
「……すみません」
「謝らないでください」
セリシアは、少しだけ首を横に振った。
「帰還の方法については、私からも王国に調査をお願いしてみます」
「……ありがとうございます」
「ですが、必ず見つかるとは、お約束できません」
「……はい」
レンは頷いた。
簡単に希望を口にしない彼女の言葉が、今は少しだけありがたかった。
*
翌朝。
レンは王城の訓練場に立っていた。
目の前には、鎧を着た騎士がいる。
「勇者様。まずは、あなたの力を確認させていただきます」
騎士が木剣を差し出した。
レンはそれを受け取った。
「剣なんて、握ったことないんですけど」
「ご安心ください。初めから扱える者などおりません」
騎士は笑った。
「まずは、あちらの標的を打ってみましょう」
レンは木剣を構えた。
思ったより重い。
昨日まで、こんなものを持ったことすらなかった。
騎士に言われるまま、剣を振り下ろす。
――バキンッ!
乾いた音が響いた。
木製の人形が、真っ二つに割れた。
レンの手に残った木剣も、途中から折れていた。
「……え?」
訓練場が静まり返る。
騎士が呆然と呟いた。
「……これは、驚いた」
レンは折れた木剣を見つめた。
確かに、自分の手で振った。
だが、こんな力が出るはずがない。
「……俺、何かしたんですか?」
「勇者様。あなたには、我々とは比較にならないほどの力が宿っているようです」
レンは、自分の手を見た。
昨日まで、ただの高校生だった。
それなのに。
今は、木の人形を簡単に破壊できる。
この力があれば、本当に魔王と戦えるのだろうか。
人を救えるのだろうか。
――それとも。
誰かを傷つけてしまうのだろうか。
「……怖いな」
思わず、本音が漏れた。
騎士は何も言わなかった。
少し離れた場所で見守っていたセリシアが、静かに近づいてくる。
「レン様」
「……はい」
「怖いと思うのは、当然です」
彼女は折れた木剣を見つめた。
「ですが、その力をどう使うかは、レン様ご自身が決めることです」
レンはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……俺、まだ魔王を倒すとか、そんなこと言える自信はないです」
「はい」
「でも、困ってる人がいるなら……何もしないっていうのも、嫌なんです」
セリシアは微笑んだ。
「それで十分だと思います」
レンは折れた木剣を騎士に返した。
「もう一回、教えてもらえますか」
「もちろんです」
騎士は力強く頷いた。
レンは、再び剣を握った。
元の世界へ帰る方法は、まだ分からない。
魔王を倒せるかどうかも、分からない。
それでも。
今、自分にできることを探そうと思った。
*
その夜。
レイゼン王城の執務室では、数名の重臣が国王の前に集まっていた。
「勇者の適性は、極めて高いものと思われます」
宮廷魔術師が報告した。
「召喚直後でありながら、すでに常人を大きく上回る身体能力を示しております」
「そうか」
国王は静かに頷いた。
「訓練を急がせよ。ただし、無理はさせるな。あの少年は、まだこちらの世界に来たばかりだ」
「承知いたしました」
魔術師が頭を下げる。
だが、退出しようとはしなかった。
「……陛下。もう一件、ご報告がございます」
「何だ?」
「勇者召喚とは別に、不可解な反応が観測されました」
国王の眉が動いた。
「不可解な反応?」
「はい。王都から離れた森の一角です」
魔術師は一枚の地図を広げた。
その上に、小さな印がつけられている。
「観測されたのは、ごく短い時間でした。しかし、通常の魔力反応とは明らかに異なります」
「魔物ではないのか?」
「少なくとも、既知の魔物の反応とは一致しません」
「では、何だ?」
魔術師は答えられなかった。
「……現時点では、不明です」
国王は地図を見下ろした。
「勇者召喚との関連は?」
「それも分かっておりません。反応の性質が異なるため、同一の現象とは断定できません」
「ふむ……」
しばらく沈黙が続いた。
やがて国王は口を開く。
「調査を続けよ。ただし、今は魔王軍への対処が最優先だ。大規模な兵は動かすな」
「はっ」
「勇者には?」
「まだ、お伝えしておりません」
「ならば、そのままでよい。不確かな情報で混乱させる必要はない」
魔術師は深く頭を下げ、執務室を後にした。
国王は、再び地図へ視線を落とした。
広大な森の中に記された、小さな印。
「……妙なことが続くものだ」
国王はそう呟くと、地図を閉じた。
その森に、勇者とは別の日本人が現れていたことを。
王国は、まだ知らなかった。




