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第5話 死者の還る家

黒い腕が、悠太郎の顔面に迫った。


「……うおっ!」


咄嗟に身をかがめる。


頭上を通過した腕が、背後の大木を叩いた。


バキィッ!


太い幹が裂け、木片が飛び散る。


「……おいおい。どんな馬鹿力だよ」


悠太郎は裂けた木を見上げた。


現世でも、悪霊が物質に干渉することはある。


扉を開ける。家具を倒す。人間を突き飛ばす。


だが、それには相応の霊力が必要だった。


目の前の男は違う。


まるで重機でもぶつけたように、大木を破壊していた。


「……こっちの悪霊、出力設定おかしくねぇか?」


「……ミア……」


黒い靄に包まれた男が呻いた。


「……ミアは……どこだ……」


「……だから、そこにいるって」


悠太郎は背後を指さした。


白いワンピースの少女が、震えながら立っている。


「お父さん!」


ミアの声が森に響いた。


だが、男は振り向かなかった。


「……お前が……娘を隠したのか……!」


「……話聞けよ」


男が地面を蹴った。


悠太郎は両脚に霊力を巡らせ、横へ跳ぶ。


直後、黒い腕が地面を抉った。


湿った土が飛び散る。


「……ミア! 離れてろ!」


しかし、ミアは動かなかった。


「……お父さん?」


少女は一歩、前へ出た。


「ミアだよ。ここにいるよ」


それでも男は、悠太郎だけを睨んでいる。


「……私のこと、分からないの?」


ミアは白いワンピースの裾を握りしめた。


「……三年も待ってたから、忘れちゃったのかな」


悠太郎は一瞬、少女を見た。


「……んなわけねぇだろ」


「……でも」


「……忘れてたら、こんなになるまで探さねぇよ」


悠太郎は腰のスパナを抜いた。


「……ちょっと待ってろ。親父さん、起こしてやるから」


     ◇


男の攻撃をかわしながら、悠太郎は意識を両目へ集中させた。


《プロセス・ビュー》


視界に、霊力の流れが浮かび上がる。


男の魂を覆う黒い霊力。


本来なら穏やかに循環するはずの流れが、複雑に絡まり、激しく逆流していた。


「……ひでぇな、これ」


まるで配管の内部に、複数の流体が無理やり押し込まれているようだった。


しかも、その中心には見慣れない力が混じっている。


昨日、黒角狼が炎を吐いたときに感じたものに似ていた。


「……魔力、か?」


断定はできない。


だが、男の霊力はその異質な力によって増幅され、制御を失っているように見えた。


さらに、もう一つ。


「……ん?」


黒い霊力の一部が、男の身体の外へ伸びていた。


細い糸のような流れ。


森の奥へと続いている。


「……外部供給?」


男自身が生み出している力ではない。


何者かが、外から力を送り込んでいる。


「……なるほどねぇ」


男が突進してきた。


悠太郎はスパナに霊力を込め、振り下ろされた腕を受け流す。


衝撃が手首から肩へ突き抜けた。


「……ぐっ!」


足元の土が削れる。


「……だったら、まず元栓閉めねぇとな!」


悠太郎は男の懐へ踏み込んだ。


胸の中心。


異質な力が流れ込んでいる接続部分。


そこだけを狙う。


「《ライン遮断》!」


銀色のスパナが胸元を打った。


ガンッ!


黒い霊力の流れが途切れた。


しかし、男の身体が大きく痙攣する。


「ミアァァァ!」


黒い腕が暴れ、悠太郎を薙ぎ払った。


「……っ!」


咄嗟に霊力で身体を強化する。


それでも衝撃を殺しきれず、地面を転がった。


「……いってぇ……!」


悠太郎は片膝をついた。


男の身体から、黒い靄が激しく噴き出している。


供給を遮断したことで、内部に残った霊力が暴走していた。


「……停止操作したら残圧が暴れやがった……」


悠太郎は舌打ちした。


単純に流れを止めればいいわけではない。


魂を傷つけず、溜まった力だけを逃がす必要がある。


男が再び迫る。


悠太郎はスパナを握り直した。


「……ったく。手間かけさせんなよ」


男の攻撃をかわし、懐へ飛び込む。


今度は胸元を叩かない。


霊力の流れに沿ってスパナを滑らせ、滞留した黒い力の逃げ道を作る。


「……抜けろ!」


黒い靄が一気に噴き出した。


男が絶叫する。


やがて、その声は弱まり、異様に伸びた腕が縮んでいった。


靄が晴れる。


そこには、一人の中年男性が膝をついていた。


「……ここは……?」


男が顔を上げた。


「……私は……何を……」


悠太郎は荒い息を整えながら、スパナを下ろした。


「……ようやく話ができそうだな」


     ◇


「……お父さん?」


少女の声に、男が顔を上げた。


「……ミア……?」


ミアはすぐには駆け寄らなかった。


先ほどまでの父親の姿が、頭から離れなかった。


また、分からないと言われるのが怖かった。


「……私のこと、分かる?」


男の目が大きく見開かれた。


「……ミア……!」


その声を聞いた瞬間、少女の顔がくしゃりと歪んだ。


「……お父さん……!」


ミアが駆け寄る。


父親の腕が、娘を強く抱きしめた。


「……すまない……! 守ってやれなかった……!」


「……うん」


「……ずっと、探していたんだ……!」


「……うん……知ってる……」


ミアは父親の服をぎゅっと握った。


「……でもね、お父さん」


「……なんだい?」


「……私、ずっといい子にしてたよ」


ハロルドの腕が震えた。


「……おうちから出ないで、待ってたの」


「……ミア……」


「……お父さん、帰ってきたら褒めてくれると思って……」


少女の声が途切れた。


「……でも、全然帰ってこないから……」


ミアは父親の胸に顔を埋めた。


「……もう、私のこと嫌いになっちゃったのかと思った……!」


ハロルドは何も言えなかった。


ただ、娘を強く抱きしめる。


「……ごめんね、ミア」


「……もう、どこにも行かない?」


「……ああ。もう離れない」


「……ほんと?」


「……約束する」


ミアは小さく頷いた。


「……じゃあ、もう怒ってない」


悠太郎は少し離れた場所で、その様子を見ていた。


「…………」


腰のスパナを戻し、二人に背を向ける。


「……三年分の約束か」


誰にも聞こえないほど小さく呟いた。


「……長ぇ残業だったな、親父さん」


     ◇


しばらくして、男が悠太郎の前にやってきた。


「……娘を助けていただき、ありがとうございます」


「……まあ、成り行きで」


男はハロルドと名乗った。


村で大工をしていたこと。


娘が行方不明になったあと、森から娘の声が聞こえるようになったこと。


そして、声を追った先で何者かに襲われたことを話した。


「……そこから先は、覚えていません」


悠太郎は眉をひそめた。


「……やっぱりな」


「……?」


「……まだ終わってねぇんですよ、この件」


悠太郎は森の奥を見た。


ハロルドに流れ込んでいた黒い霊力。


その供給経路の痕跡は、今も森の奥へ伸びていた。


「……親父さん。娘さんとここで待っててください」


「どちらへ?」


悠太郎はスパナを肩に担いだ。


「……ちょっと元栓、閉めてきます」


     ◇


霊力の痕跡を辿り、悠太郎は森の奥へ進んだ。


木々が密集し、昼間だというのに薄暗い。


風はない。


それなのに、時折どこかで枝が軋む音がした。


やがて。


「……お父さん」


悠太郎は足を止めた。


少女の声。


ミアとまったく同じだった。


「……お父さん、こっちだよ」


「…………」


悠太郎はため息をついた。


「……いや、俺はお父さんじゃねぇんだけど」


声が止まった。


数秒の沈黙。


今度は、か細い女性の声が聞こえた。


「……助けて……」


「……誰か……助けて……」


悠太郎は声のする方へ歩いた。


木々が途切れ、小さな空き地に出る。


そこには、一人の女が立っていた。


長い黒髪。


地面に届くほどの白い服。


そして。


顔がなかった。


「…………」


悠太郎は女を見つめた。


「……あー。なるほど」


女の首が、不自然な角度に傾いた。


「……お父さん」


少女の声が響く。


「……助けて」


悠太郎はスパナを抜いた。


「……声帯どうなってんだよ、お前」


女の身体から黒い靄が噴き出した。


周囲の木々が揺れる。


「……ミア……」


今度はハロルドの声。


「……どこだ……」


悠太郎の表情が冷たくなった。


「……人の家族で遊んでんじゃねぇよ」


女が地面を滑るように迫った。


悠太郎は霊力で身体を強化し、横へ跳ぶ。


黒い爪が木の幹を引き裂いた。


「……やっぱり、こっちの悪霊は出力がおかしいな」


女の身体を覆う霊力。


その中心には、先ほどハロルドに流れ込んでいたものと同じ黒い力があった。


「……供給源、発見」


女が無数の腕を伸ばした。


悠太郎は地面を蹴る。


一本をかわし、もう一本をスパナで弾く。


そして、女の胸元へ踏み込んだ。


「……運転停止だ」


《ライン遮断》


スパナが黒い塊を貫いた。


女の身体が大きく痙攣する。


「アアアアアアッ!」


森中に響く絶叫。


黒い霊力が四方へ飛び散り、女の輪郭が崩れていく。


「……お父さん……」


最後に、ミアの声が響いた。


そして、女の姿は消えた。


悠太郎はしばらくその場に立っていた。


先ほどまで漂っていた黒い霊力の気配は、完全に途絶えている。


「……ったく。悪趣味な奴だ」


スパナを腰へ戻した。


少なくとも、ハロルドを操っていた存在はもういない。


あの親子が、再び同じ悪霊に苦しめられることはないだろう。


     ◇


森の出口で、ハロルドとミアが待っていた。


「……おじさん!」


ミアが駆け寄ってくる。


「……終わったぞ」


「本当?」


「……ああ。もう変な声に呼ばれることもねぇだろ」


ハロルドは深く頭を下げた。


「……ありがとうございます」


悠太郎は二人を見た。


「……さて、親子も揃ったことだし、そろそろ行くか」


ミアが首を傾げる。


「どこに?」


「……霊界。死んだ人間が行く場所だよ」


悠太郎は右手をかざし、霊力を集中させた。


いつものように、霊界へ繋がる経路を探る。


しかし。


「…………ん?」


反応がない。


もう一度、霊力を流す。


「……は?」


悠太郎は眉をひそめた。


「……繋がらねぇ?」


霊力は正常に動いている。


だが、肝心の接続先が見つからない。


現世では一度も経験したことのない異常だった。


「……おいおい。どうなってんだ、この世界」


ミアが不安そうに尋ねた。


「……おじさん、どうしたの?」


悠太郎は少し考え、二人へ向き直った。


「……悪い。どうやら今は送れねぇみたいだ」


「……行けないの?」


「……ああ。二人ともな」


ミアは父親の手を握った。


「……じゃあ、またお父さんがいなくなっちゃう?」


ハロルドが娘の手を握り返す。


「……大丈夫だよ。もう離れない」


「……本当?」


「ああ」


ミアはしばらく父親を見つめていた。


そして、悠太郎へ向き直る。


「……じゃあ、私、まだ行かなくてもいい」


「……ん?」


「……お父さんと、もう少し一緒にいたいから」


悠太郎は二人を見た。


本来なら、死者を霊界へ導くことが自分の仕事だ。


未練を断ち、現世から送り出す。


それが死者にとって自然な流れだと、ずっと考えてきた。


だが、この世界ではその当たり前が通用しない。


「……そうか」


悠太郎は少しだけ表情を緩めた。


「……だったら、しばらく一緒にいろ」


ハロルドが頭を下げる。


「……ありがとうございます」


「……礼はいいですよ」


悠太郎は空を見上げた。


霊界への接続が失われている。


もし、この世界の死者すべてが同じ状態なら。


「……相当厄介な話だな」


小さく呟いた。


「……原因は調べてみます」


そして、森の出口へ歩き出した。


しかし、数歩進んだところで足を止める。


「…………」


振り返った。


「……そういや、あの家」


     ◇


三人は村外れの小さな木造の家へ戻った。


屋根には苔が生え、室内には埃が積もっている。


長い間、人が暮らしていなかったことが一目で分かった。


「……こりゃひでぇな」


悠太郎は作業つなぎの袖をまくった。


窓を開け、床を掃き、汚れた机を拭く。


壊れた椅子の脚も、物置にあった道具で修理した。


「……ったく。異世界来てまで何やってんだ俺は」


ミアが不思議そうに尋ねた。


「……おじさん、どうして掃除してるの?」


「……汚ねぇから」


「でも、おじさんのおうちじゃないよ?」


悠太郎は少しだけ手を止めた。


「……せっかく親父さん帰ってきたんだろ」


「……うん」


「……だったら、綺麗な家で迎えてやれよ」


ミアは部屋を見回した。


埃のなくなった机。


元の場所に戻された椅子。


開け放たれた窓。


「……なんか、前みたい」


「……前?」


「……お父さんがいたときのおうち」


ミアは小さく笑った。


「……お父さん、いつもここでご飯食べてたの」


ハロルドは黙って、その机を見つめていた。


悠太郎は何も言わず、残った埃を拭き取った。


最後に、窓辺にあった木彫りの人形を手に取る。


「……これ、親父さんが作ったのか?」


ハロルドが頷いた。


「……ミアの七歳の誕生日に」


「あっ!」


ミアが駆け寄った。


「それ、私のお人形!」


悠太郎は人形の埃を拭き取った。


「……大事なもんか?」


「うん!」


ミアは嬉しそうに頷いた。


「……お父さんがね、次のお誕生日には、お人形のおうちも作ってくれるって言ってたの」


ハロルドの表情が曇った。


果たせなかった約束。


ミアは父親を見上げた。


「……でも、もういいよ」


「……ミア?」


「……お父さん、帰ってきたから」


ハロルドは娘の前に膝をついた。


「……ミア」


「なあに?」


「……お人形の家、どんな形にするか一緒に考えよう」


「……ほんと?」


「ああ。屋根は何色がいい?」


ミアは少し考えた。


「……赤!」


「そうか。じゃあ、窓は?」


「……二つ!」


「……分かった」


ハロルドは優しく笑った。


「いつか、ちゃんと作ってあげるからね」


ミアは父親の手を握った。


「……うん! 約束ね!」


悠太郎は二人を見て、木彫りの人形を窓辺に戻した。


「……親父さん」


「はい?」


「……今度の約束は、忘れないでくださいよ」


ハロルドは静かに頷いた。


「……はい。必ず」


悠太郎は窓辺を軽く拭いた。


「……よし。これで完成」


     ◇


ハロルドは綺麗になった部屋を見回した。


「……何から何まで、本当にありがとうございます」


「……別に」


悠太郎は肩をすくめた。


「……サービスですよ、サービス」


玄関へ向かいかけたところで、もう一度足を止める。


「……ああ、そうだ」


悠太郎は玄関の柱に手を当てた。


「……最後にもう一仕事」


《マスキング》


淡い霊力が柱を伝い、家全体を包み込む。


家が消えるわけではない。


ただ、生きた人間がこの家を見ても、無意識に関心が逸れる。


強い意志で探せば見つかるが、通りすがりの人間が立ち寄ることは少なくなる。


「……よし」


ハロルドが尋ねた。


「……今、何を?」


「……ちょっとした目隠しですよ」


悠太郎は柱から手を離した。


「……これで、しばらくは静かに暮らせるでしょ」


ハロルドは驚いたように家を見上げた。


「……そんなことまで、していただけるんですか」


「……まあ、ついでです」


ミアが目を輝かせた。


「おじさん、魔法使いなの?」


「……違う。設備屋だ」


「せつびや?」


「……説明すんのもめんどくせぇな」


悠太郎は二人に背を向けた。


「……じゃあな」


「おじさん!」


ミアが大きく手を振る。


「ありがとう!」


悠太郎は片手を上げた。


「……おう」


「……また遊びに来てね!」


悠太郎は少しだけ振り返った。


「……気が向いたらな」


ミアは笑った。


その隣で、ハロルドが静かに頭を下げていた。


悠太郎は家を離れながら、小さく呟く。


「……掃除に修理にマスキングまで……」


ため息をついた。


「……完全にサービス残業じゃねぇか」


それでも、足取りは少しだけ軽かった。


     ◇


村へ戻った悠太郎は、食堂で夕食を取っていた。


食堂の女性から、東へ二日ほど歩いた場所に大きな街があると聞く。


商人や冒険者が集まり、魔法に詳しい人間も多いらしい。


「そういえば、森のゴーストはどうだったんだい?」


女性が何気なく尋ねた。


「……ゴースト?」


「ああ。最近、黒い人影が木を倒したって噂になってたんだよ」


悠太郎は木杯を置いた。


「……それ、普通の人にも見えるんですか?」


「そりゃ見えるさ。ゴーストなんだから」


「……へぇ」


悠太郎は顎に手を当てた。


現世では、普通の人間に悪霊の姿は見えない。


だが、この世界では違うらしい。


しかも、あの異常な破壊力。


「……霊力と魔力、か」


さらに、霊界への接続も失われている。


分からないことが多すぎた。


「……東の街ねぇ」


悠太郎は窓の外を見た。


夕暮れの村。


遠くには、深い森が広がっている。


あの家では、ようやく再会できた親子が過ごしているだろう。


もう食事をすることも、家具に触れることもできない二人。


それでも、同じ家で過ごし、言葉を交わすことはできる。


死んだ人間にとって、それが幸せなのかどうか。


悠太郎には分からなかった。


ただ。


あの少女が最後に見せた笑顔だけは、嘘ではなかったと思う。


「……ったく」


悠太郎はスマートフォンを取り出した。


圏外。


「……帰る方法探すだけでも面倒なのに」


小さくため息をつく。


「……仕事増やすなよ、異世界」


明日は東の街へ向かう。


霊界へ繋がらない理由も、そこで何か分かるかもしれない。


「……まあ」


悠太郎は立ち上がった。


「……明日考えるか」


まずは飯。


それから睡眠。


「……だりぃ。今日はもう寝る」

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