第4話 待つ娘、探す父
鳥の鳴き声で目が覚めた。
「……あー、身体いてぇ」
悠太郎は大木の根元で身体を起こした。
全身が重い。
特に右肩と太腿がひどかった。
昨日、三メートル近い狼に追い回されたせいだ。
しかも、額から黒い角を生やし、火まで吐いてくる。
「……あんなもん、労災認定されんのかね」
誰に聞かせるでもなく呟く。
紺色の作業つなぎは泥だらけだった。
ポケットからスマートフォンを取り出す。
圏外。
何度確認しても変わらない。
「……ですよね」
スマートフォンをしまい、腰に差した銀色のスパナを確認する。
長さ三十センチほどの固定式スパナ。
昨日の騒動で手放さなかった、唯一の仕事道具だった。
腹が鳴った。
「……まずは飯だな」
霊界だろうが異世界だろうが、腹は減る。
悠太郎は立ち上がり、森の中を歩き始めた。
◇
人の通った跡を見つけたのは、それから一時間ほど経った頃だった。
草が踏み倒され、地面には車輪らしき跡が残っている。
「……ようやく文明の気配か」
道をたどると、木柵に囲まれた小さな村が見えてきた。
畑。
煙突から上がる煙。
家畜の鳴き声。
少なくとも、人間が生活している場所らしい。
村の入口にいた男が、悠太郎を不審そうに見た。
「おい、あんた。どこから来た?」
「……森の向こうから」
「森? 一人でか?」
「……まあ」
言葉が通じる。
悠太郎は内心で安堵した。
どういう理屈かは分からないが、今はありがたい。
「変わった格好だな。旅人か?」
「……そんなとこ」
男の視線が腰のスパナに向く。
「それは武器か?」
「……工具」
「コウグ?」
「……仕事道具だよ」
説明が面倒になった悠太郎は、村の中へ足を進めた。
まずは食事。
次に情報収集。
帰る方法を探すのは、それからだ。
◇
村の食堂は、昼前だというのに客が少なかった。
店内には焼いた肉と煮込み料理の匂いが漂っている。
悠太郎の腹が再び鳴った。
「いらっしゃい。何にする?」
店主らしい中年の女性が声をかけてきた。
「……飯、食いたいんだけど」
「何でもあるよ。金は?」
「……それが問題でして」
悠太郎は財布を取り出した。
日本円の紙幣と硬貨。
女性はそれを見て首を傾げた。
「何だい、それ?」
「……ですよね」
悠太郎は財布を閉じた。
「……皿洗いでも薪割りでもするんで、飯もらえません?」
女性はしばらく悠太郎を眺めたあと、笑った。
「じゃあ裏の薪を割っておくれ。冬支度で忙しいんだ」
「……了解」
悠太郎は店の裏手へ回った。
そこには丸太が積まれ、古びた斧が一本立てかけてあった。
「……工具が変わっただけで、結局肉体労働か」
斧を手に取り、丸太を切り株の上に置く。
振り下ろす。
乾いた音が響いた。
一つ。
二つ。
三つ。
しばらく作業を続けていると、不意に違和感を覚えた。
「…………」
悠太郎は斧を止めた。
風が吹いている。
木々も揺れている。
だが、その中に混じって、微かな霊力の気配があった。
「……ん?」
悠太郎は顔を上げた。
食堂の裏手。
少し離れた場所に、古い家が建っている。
屋根の一部は崩れ、窓には板が打ちつけられていた。
庭には雑草が生い茂っている。
明らかに、長い間誰も住んでいない家だった。
その家から、霊力が漏れている。
「……あそこか」
悠太郎は斧を置いた。
食堂の裏口から顔を出した女性に声をかける。
「……すみません。あの家、誰か住んでるんですか?」
女性は廃屋を見た。
「ああ、あそこかい。もう何年も空き家だよ」
「……そうですか」
「どうしたんだい?」
「……いや、ちょっと気になって」
悠太郎は廃屋へ視線を戻した。
霊力の気配は、確かにあの家から漂っていた。
「……飯食う前に、仕事増えたな」
◇
廃屋の前まで来ると、空気が変わった。
村の中だというのに、ここだけ妙に静かだった。
悠太郎は門の前で立ち止まる。
家の奥から、かすかな霊力の気配が伝わってくる。
それは外へ広がろうとしているのに、敷地の周囲で押し戻されているような、不自然な感覚だった。
「……地縛か?」
悠太郎は門をくぐった。
玄関の扉は半分外れかかっていた。
「……お邪魔しまーす」
返事はない。
床板が軋む。
家の中には古い家具が残されていた。
倒れた椅子。
埃をかぶった食器棚。
壁に掛けられた小さな絵。
誰かが暮らしていた痕跡だけが、時間に取り残されている。
悠太郎は霊力の気配をたどった。
奥の部屋。
扉の前で立ち止まる。
中から、微かな声が聞こえた。
「……お父さん?」
悠太郎は扉を開けた。
そこには、小さな女の子が座っていた。
肩まで伸びた茶色い髪。
白いワンピース。
七歳くらいだろうか。
少女は窓の外を見つめていた。
その身体は、わずかに透けている。
「…………」
悠太郎は少女を見た。
少女も、悠太郎を見た。
「……誰?」
「……通りすがりのおっさん」
少女は首を傾げた。
「おじさん、私が見えるの?」
「……ああ」
「本当に?」
「……見えてるって」
少女は驚いたように立ち上がった。
「じゃあ、お父さんも見つけてくれる?」
「……は?」
少女は悠太郎に近づいた。
「お父さん、帰ってこないの」
悠太郎は部屋を見渡した。
小さな木製の椅子。
古びた人形。
埃の積もった寝台。
少女だけが、時間の流れから取り残されていた。
「……名前は?」
「ミア」
「……ミア。いつからここにいる?」
「分からない」
「……ずっと?」
「うん。お父さんが帰ってくるの、待ってるの」
悠太郎は少女を見つめた。
「……何があったか、覚えてる?」
ミアは少し考えた。
「森に行ったの」
「……森?」
「うん。遊んでたら、知らない人が来て……」
少女の表情が曇った。
「……怖かった」
悠太郎は黙って聞いていた。
「痛くて……苦しくて……」
ミアは自分の胸元に手を当てた。
「それで、気がついたら森に一人だったの」
「…………」
「家に帰ったら、お父さんがいなかった」
少女は窓の外を見た。
「だから、ずっと待ってるの」
悠太郎は小さく息を吐いた。
少女は、自分が死んだことを理解していないらしい。
少なくとも、何が起きたのかは分かっていない。
「……ミア」
「なあに?」
「……ちょっと、外に出られるか?」
少女は首を振った。
「出られないの」
「……どうして?」
「分からない。外に行こうとすると、戻っちゃう」
悠太郎は頷いた。
「……なるほど」
地縛霊。
強い未練によって、魂が特定の場所に固定されている状態。
珍しい現象ではない。
ただし、放置すれば霊力が滞留し、やがて悪霊化することもある。
「……ちょっと待ってろ」
悠太郎は意識を両目へ集中させた。
体内を巡る霊力が、ゆっくりと眼球へ集まっていく。
《プロセス・ビュー》
視界が切り替わった。
少女の身体から、細い霊力の糸が伸びていた。
糸は床を通り抜け、家の柱や壁へ絡みついている。
何本も。
何十本も。
まるで、家そのものが少女を縛りつけているようだった。
「……あー、結構がっちりだな」
悠太郎は霊力の流れを観察した。
糸は少女の胸元から伸びている。
そこにあるのは、恐怖ではなかった。
強い願い。
ただ一つ。
父親に会いたい。
その思いが、少女を家に縛りつけていた。
「……ミア」
「なあに?」
「お父さん、探しに行きたいか?」
少女は大きく頷いた。
「うん!」
「……じゃあ、ちょっと手伝え」
「何を?」
「……お父さんが帰ってくるのを待つんじゃなくて、迎えに行くんだよ」
ミアは目を丸くした。
「……迎えに?」
「……ああ」
悠太郎は少女の前にしゃがんだ。
「……怖いか?」
ミアは少し迷ったあと、首を振った。
「お父さんに会えるなら、怖くない」
「……そうか」
悠太郎は立ち上がった。
霊力の糸を確認する。
無理に引きちぎれば、少女の魂に負担がかかる。
必要なのは、固定されている部分だけを切り離すこと。
「……接続箇所、確認」
悠太郎は右手に霊力を集中させた。
淡い光が指先に集まる。
「……解除するぞ」
霊力の糸へ、慎重に手を伸ばす。
一本。
二本。
少女の身体を傷つけないよう、家とつながる部分だけを切り離していく。
やがて、最後の一本が途切れた。
部屋の空気が、わずかに軽くなった。
「……よし」
悠太郎は手を下ろした。
「……外、行ってみろ」
ミアは恐る恐る廊下へ向かった。
玄関。
庭。
そして、門の外へ。
「……あっ」
少女は振り返った。
「おじさん!」
「……ん?」
「出られた!」
ミアは嬉しそうに笑った。
悠太郎は小さく頷いた。
「……よかったな」
少女は門の外を見渡した。
久しぶりに見る村の景色。
知らない建物。
知らない人たち。
自分が知っている村とは、少しずつ変わっていた。
「……お父さん、どこにいるのかな」
ミアが呟いた。
悠太郎は少女の隣に立った。
「……それを今から調べるんだよ」
◇
食堂に戻ると、女性が腕を組んで待っていた。
「薪割りはどうしたんだい?」
「……すみません。ちょっと寄り道を」
「まったく。変わった旅人だねぇ」
悠太郎は頭を下げた。
「……残りもちゃんとやります」
女性は呆れたように笑った。
「まあいいさ。それで、あの家に何かあったのかい?」
悠太郎は少し考えた。
「……あそこに住んでた人のこと、聞いてもいいですか?」
女性の表情が変わった。
「……ハロルドの家かい」
「……ハロルド?」
「ああ。腕のいい大工だったよ。娘さんと二人暮らしでね」
隣にいたミアが顔を上げた。
「お父さん!」
女性には、その声が聞こえない。
「……娘さんは?」
悠太郎が尋ねる。
女性は目を伏せた。
「三年前に森で行方不明になったんだ」
「……行方不明?」
「ああ。村中で探したけど、見つからなかった」
悠太郎は黙って聞いていた。
「ハロルドは諦めなかったよ。毎日のように森へ入って、娘を探してた」
「……それで?」
「ある日、帰ってこなくなった」
女性は窓の外を見た。
「村の男たちで探したけど、あの人も見つからなかった」
「……いつ頃?」
「娘さんがいなくなってから、ひと月ほど経った頃だったと思う」
悠太郎は眉をひそめた。
「……ひと月」
「それから、もう三年近くになるね」
ミアは悠太郎の袖を掴もうとした。
だが、その小さな手は布をすり抜けた。
「……おじさん」
悠太郎は少女を見た。
「お父さん、森にいるの?」
「……まだ分からん」
女性が不思議そうに首を傾げる。
「どうしたんだい?」
「……いや、何でもないです」
悠太郎は女性に向き直った。
「……最後にハロルドさんを見た人、分かります?」
「猟師のバルトだね。森へ向かうところを見たらしいよ」
「……どこに住んでます?」
女性は村外れの家を教えてくれた。
悠太郎は礼を言った。
そして、積み残していた薪を割り終えた。
◇
猟師のバルトは、村の北側に住んでいた。
五十代ほどの男で、顔には深い皺が刻まれている。
悠太郎がハロルドの名前を出すと、男は険しい顔をした。
「……あいつのことを、今さら何で?」
「……ちょっと、探してまして」
「三年も前の話だぞ」
「……分かってます」
バルトはしばらく悠太郎を見つめた。
やがて、重い口を開いた。
「最後に会ったのは、森の入口だった」
「……何を話した?」
「娘を探しに行くと言っていた」
「……それだけ?」
「いや……」
バルトは少し考えた。
「あいつ、妙なことを言ってたな」
「……妙なこと?」
「森の奥で、娘の声が聞こえるって」
悠太郎は目を細めた。
「……声?」
「ああ。誰もいない森から、娘が自分を呼ぶ声がするってな」
隣にいたミアが首を振った。
「私、呼んでないよ」
悠太郎は少女を一瞥した。
「……その声、バルトさんも聞いた?」
「いや。俺には何も聞こえなかった」
「……なるほど」
悠太郎は考え込んだ。
死んだ娘の声。
森へ向かった父親。
そして、行方不明。
偶然とは思えなかった。
「……どの辺りに向かったか、分かります?」
「北の沢だ。あの辺りは昔から、あまり人が近づかない」
「……何かあるんですか?」
バルトは少し黙った。
「……出るんだよ」
「……何が?」
「森の奥で、何かが人を呼ぶんだ」
悠太郎は眉をひそめた。
「……人を呼ぶ?」
「ああ。昔からそういう話がある。声を追って入った奴が、戻ってこないこともあった」
「……魔物ですかね」
「分からん。姿を見た奴はいない」
バルトは悠太郎を見た。
「悪いことは言わん。あの森には近づくな」
悠太郎は小さく息を吐いた。
「……忠告、どうも」
それでも、行かないという選択肢はなかった。
◇
翌朝。
悠太郎は村の北側に立っていた。
食堂の女性から分けてもらったパンと干し肉。
水の入った革袋。
腰には銀色のスパナ。
最低限の準備は整えた。
隣にはミアが立っている。
「……おじさん」
「……ん?」
「お父さん、見つかるかな」
悠太郎は森を見た。
「……分からん」
「……そっか」
「でも、探す」
ミアは顔を上げた。
「……うん!」
悠太郎は歩き始めた。
森の中は薄暗かった。
木々が密集し、昼間だというのに日差しが届きにくい。
足元には湿った落ち葉が積もっている。
しばらく進むと、沢の音が聞こえてきた。
「……この辺か」
悠太郎は足を止めた。
何かがおかしい。
空気が重い。
昨日の廃屋とは比べものにならないほど、濃い霊力が漂っていた。
「…………」
悠太郎は眉をひそめた。
ただの地縛霊ではない。
霊力が乱れている。
しかも、その流れには強い敵意が混じっていた。
「……ミア」
「なあに?」
「……俺から離れるなよ」
「……うん」
悠太郎は周囲を見渡した。
木々の間から、冷たい気配が押し寄せてくる。
その奥に、何かがいる。
姿はまだ見えない。
だが、霊力の圧迫感だけで、相手が尋常な状態ではないことが分かった。
「……おいおい」
悠太郎は思わず呟いた。
「……こりゃ、相当こじらせてんな」
そのとき。
森の奥から、低い声が聞こえた。
「……ミア……」
ミアが顔を上げた。
「……え?」
声は、ゆっくりと近づいてくる。
「……ミア……どこだ……」
男の声だった。
かすれている。
苦しそうで、どこか悲しげな声。
ミアの表情が変わった。
「……お父さん?」
悠太郎は少女の前に立った。
「……待て」
黒い霊力が、木々の間から溢れ出してくる。
枝が揺れた。
落ち葉が舞い上がる。
そして、森の奥から何かが姿を現した。
人の形をしていた。
だが、その身体は黒い霊力に包まれ、輪郭が歪んでいる。
長く伸びた腕。
地面を引きずるような足。
顔の半分は黒い靄に覆われていた。
それでも、男の口だけは動いていた。
「……ミア……」
ミアが震える声で呟いた。
「……お父さん……?」
男の動きが止まった。
ゆっくりと顔が上がる。
黒い靄の奥で、二つの目が光った。
「……ミア……?」
次の瞬間。
男の視線が、悠太郎へ向いた。
表情が歪む。
「……お前……」
低い声が響いた。
「……お前が……娘を……!」
黒い霊力が一気に膨れ上がった。
悠太郎はスパナを抜いた。
「……あー」
目の前の存在を見て、深いため息をつく。
「……親父さん、だいぶ話が通じなさそうだな」
男が咆哮した。
森の木々が激しく揺れる。
ミアが悲鳴を上げた。
「お父さん!」
悠太郎は少女を背にかばい、スパナを構えた。
「……ったく」
黒い霊力が、こちらへ殺到する。
「……まずは落ち着かせるところからか」




