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第3話 幕間・消えたオペレーター

 午前二時三十一分。


 閉鎖された市立病院。


 四階の廊下には、境界管理局の調査員たちが集まっていた。


「……反応なし」


 怜が測定器を下ろした。


 目の前には、何の変哲もない壁がある。


 つい先ほどまで、そこには黒い扉があった。


 そして、悠太郎が消えた。


「……もう一回ぶっ叩いてみるか」


 桜木がゴムハンマーを担ぐ。


「桜木さん。壁を壊しても意味がありません」


「分かってるっすよ」


 桜木は壁を睨んだ。


「……分かってるけどよ」


 怜は床に落ちた番線を拾った。


 悠太郎を引き戻そうとして、引きちぎられたものだ。


「……私が、もう少し強ければ」


「怜」


「はい」


「先輩が聞いたら怒るっすよ」


「……そうですね」


 怜は番線を握り締めた。


「一度、局に戻りましょう」


「……先輩を置いて?」


「ここにいても、できることはありません」


 桜木はしばらく黙っていた。


「……分かったっす」


     ◇


 午前三時十二分。


 境界管理局、地下会議室。


 大型モニターには病院の見取り図が映されていた。


「建築当時から404号室は欠番です。403号室の隣は405号室となっています」


 調査員が説明する。


「理由は?」


 怜が尋ねた。


「縁起を考慮したものと思われますが、正式な記録は残っていません」


「つまり、最初から存在しない部屋だったってことっすか?」


「はい。少なくとも図面上は」


 調査員が資料を切り替えた。


「また、悠太郎氏の霊力反応は検出されていません」


「生死は?」


「不明です」


 桜木が拳を握る。


「……捜索は?」


「現場の安全が確認されるまで、立ち入りは禁止します」


「は?」


 桜木が立ち上がった。


「先輩が消えてるんすよ!?」


「これ以上、行方不明者を出すわけにはいきません」


「だったら、いつ助けに行くんすか!」


「桜木さん」


 怜が制した。


「……何だよ」


「ここで怒っても、決定は変わりません」


 桜木は舌打ちした。


 怜は調査員へ向き直る。


「過去の調査記録を閲覧する許可をください」


「……それなら構いません」


「ありがとうございます」


 会議室を出ると、桜木が壁を殴った。


「……くそっ」


 怜は何も言わなかった。


     ◇


 午前四時二十六分。


 町外れの古い整備工場。


 シャッターの隙間から、明かりが漏れていた。


「やっさーん!」


「うるせぇな。近所迷惑だろ」


 奥から小柄な男が現れた。


 黄色いジャージに、少し乱れた茶髪。


 深いしわの刻まれた顔。


 大きな二重の目は、眠そうに細められている。


 五十代半ば。


 身長百六十センチほど。


 境界管理局の元霊界オペレーター。


 通称、やっさん。


「こんな時間に何だよ。幽霊でも出たか?」


「先輩が消えたっす」


 やっさんの表情が変わった。


「……悠太郎が?」


「はい」


 怜が答える。


 やっさんは二人を見比べた。


「中入れ」


     ◇


「黒い扉ねぇ……」


 説明を聞き終えたやっさんは、腕を組んだ。


「知らねぇな」


「やっさんでも知らないんすか?」


「俺を何だと思ってんだよ」


「歩く怪異図鑑っす」


「褒めてねぇだろ、それ」


 いつものように笑う。


 だが、次の瞬間。


「で、お前らは何しに来た?」


 声の調子が変わった。


「……先輩を助けたいっす」


「それは聞いた。どうするつもりだ?」


「それは……」


「分からねぇんだろ?」


 桜木が黙る。


「……分かんないっすよ」


「うん」


「扉が何なのかも、先輩がどこにいるのかも」


「うん」


「でも、先輩が向こうで一人だったら、俺らが助けに行くしかないじゃないっすか!」


 やっさんは黙って聞いていた。


「……そうだな」


 椅子から立ち上がる。


「じゃあ、まず調べようぜ」


「……え?」


「知らねぇものを相手にする時は、知らねぇまま突っ込まない。基本だろ?」


 やっさんは棚から古い安全靴を取り出した。


「桜木。お前は力がある」


「はい」


「怜。お前は頭が回る」


「……はい」


「だが、二人とも焦りすぎだ」


 靴紐を締めながら続ける。


「助けたい気持ちだけで飛び込んだら、今度はお前らが消える」


「…………」


「そしたら悠太郎に何て言うんだ?」


 桜木は俯いた。


 やっさんが笑う。


「まあ、あいつなら『めんどくせぇ』って言うだろうな」


「……言いそうっすね」


 怜も小さく笑った。


「よし」


 やっさんが立ち上がる。


「まずは現場を見せろ」


「でも、局から立ち入り禁止って……」


「誰が中に入るって言った?」


 やっさんは黄色いジャージの袖をまくった。


「外からでも、分かることはある」


     ◇


 午前五時十九分。


 閉鎖病院の正門前。


 空が僅かに白み始めていた。


「……静かっすね」


 桜木が呟く。


 やっさんは答えず、病院を見上げていた。


 やがて、敷地の外周を歩き始める。


「やっさん?」


「ついてこい」


 三人は古いフェンスに沿って進んだ。


 怜が測定器を確認する。


「霊障反応はありません」


「そうか」


 やっさんは足を止めた。


 雑草の生えた地面にしゃがみ込む。


「桜木。ここ、どう見える?」


「……ただの地面っすけど」


「だよな」


 やっさんは小石を拾い、軽く放り投げた。


 何も起きない。


「怜。何か感じるか?」


「……いえ」


「よし。じゃあ次だ」


 桜木が首を傾げる。


「何してるんすか?」


「調査」


「いや、それは分かるっすけど……」


 やっさんは笑った。


「何も起きねぇ場所を確認するのも、調査だよ」


 さらに歩く。


 建物の裏手に差しかかった時だった。


 突然、フェンスの向こうから黒い影が飛び出した。


「っ!」


 桜木がゴムハンマーを構える。


 だが、それより早く。


 やっさんが動いていた。


 半歩踏み込み、身体を回す。


 黄色いジャージの裾が翻った。


 鋭い蹴りが、影の進路を正確に塞ぐ。


 ――ドンッ!


 霊力を纏った靴底が、黒い影を地面へ叩き落とした。


「……っ!」


 怜が番線を伸ばす。


 影の周囲を素早く拘束した。


 地面に転がっていたのは、獣の姿をした低級霊だった。


 やっさんはその前にしゃがみ込む。


「おいおい。そんなに慌ててどうした?」


 獣の霊は怯えたように震えていた。


 やっさんが指先を近づける。


 僅かな霊力が流れた。


 黒い影が薄れ、やがて消えていく。


「……これでよし」


 やっさんは立ち上がった。


「やっさん、今の……」


 桜木が目を丸くする。


「ん?」


「速すぎるっすよ」


「お前が遅いんじゃねぇの?」


「いやいやいや!」


 やっさんは笑った。


 だが、怜は気づいていた。


 今の蹴り。


 威力だけなら、桜木の方が上かもしれない。


 しかし、無駄がなかった。


 相手の動き。


 踏み込む距離。


 霊力を流す瞬間。


 すべてが最小限だった。


 しかも、倒すだけで終わらせず、霊の状態まで確認している。


「……さすがですね」


 怜が呟いた。


「何が?」


「私たちとは、経験が違います」


 やっさんは肩をすくめた。


「長くやってりゃ、嫌でも覚えるさ」


 そして病院を見上げた。


「……ただな」


 二人が振り向く。


「今の霊と、悠太郎が消えた件を結びつける証拠はねぇ」


「…………」


「都合のいい手掛かりを探し始めると、何でも怪しく見える」


 やっさんは静かに言った。


「それが一番危ねぇんだよ」


     ◇


 午前六時十分。


 病院の外周調査は終了した。


 黒い扉に関係する反応は、何一つ見つからなかった。


「……収穫なしっすか」


 桜木が肩を落とす。


「そうだな」


 やっさんはあっさり答えた。


「でも、何もなかったことは分かった」


「それって意味あるんすか?」


「あるさ」


 やっさんは桜木を見上げる。


「今日一日で見つからなかったからって、明日も見つからねぇとは限らねぇ」


「…………」


「焦るな。諦めるな。手順を飛ばすな」


 やっさんは二人の肩を叩いた。


「悠太郎がいつもやってることだろ?」


 桜木が顔を上げる。


「……そうっすね」


 怜も頷いた。


「まずは記録を調べ直します。病院の過去だけでなく、周辺の霊障も含めて」


「おう。それでいい」


 やっさんは満足そうに笑った。


「やっさんは、これからどうするんすか?」


「決まってんだろ」


 黄色いジャージのポケットに手を突っ込む。


「俺も調べる」


「……引退したんじゃ?」


「したよ」


 やっさんは歩き出した。


「次はお前らの時代だ。俺達おじさんはもう退役だよ」


 少しだけ振り返る。


「でもな」


 その目から、いつもの眠そうな雰囲気が消えていた。


「教え子が困ってる時くらい、格好つけさせろ」


 桜木が笑った。


「……やっぱ、やっさんはカッコいいっすね」


「知ってる」


「自分で言うんすか!?」


 やっさんは笑いながら歩いていく。


 その背中を、桜木と怜が見送った。


 悠太郎の行方は分からない。


 黒い扉の正体も分からない。


 手掛かりは、まだ何一つない。


 それでも。


 今度は三人で探すことができる。


 消えたオペレーターを連れ戻すための、長い調査が始まった。

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