第2話 異世界初日から労災案件
狼が飛び出した。
同時に、額の黒い角から炎が放たれる。
悠太郎は地面を蹴った。
炎が脇を抜け、背後の木へ直撃する。
――ドンッ!
幹が弾けた。
「……洒落にならんな」
狼はもう目の前にいる。
巨大な前脚が振り下ろされた。
悠太郎は身体を沈める。
頭上を爪が通過。
そのまま横へ抜けた。
「速いな」
振り返る。
狼も向きを変える。
だが、巨体のせいか僅かに遅い。
「…………」
悠太郎はスパナを構えたまま、狼を見る。
力では勝てない。
速さも向こうが上。
なら、見るしかない。
狼が再び走り出した。
悠太郎は木々の間へ入る。
右。
左。
細い隙間を抜ける。
狼は木を避けながら追ってくる。
距離が少し開いた。
「直線は速い」
黒い角が赤くなる。
悠太郎は目へ霊力を集中させた。
《プロセス・ビュー》。
力の流れや異常を見抜く、霊界オペレーターの観測技能だ。
狼の身体の中心から、未知の力が流れている。
胸。
首。
角。
徐々に集中していく。
悠太郎はまだ動かない。
角の光が強くなる。
狼の前脚が止まった。
頭がこちらへ向く。
「……ここ」
悠太郎が横へ跳んだ。
直後。
炎が通過する。
地面が焼けた。
「撃つ瞬間は止まる」
悠太郎は走りながら、もう一度振り返った。
狼の角を見る。
先ほどまで集まっていた力が消えている。
「撃った後は、また溜め直し」
これで二つ。
狼が追ってくる。
悠太郎はあえて直線へ出た。
距離が縮まる。
十五メートル。
十メートル。
角が赤くなる。
八メートル。
胸から首へ。
首から角へ。
力が流れる。
六メートル。
狼の前脚が止まった。
「今だな」
悠太郎は狼へ向かって踏み込んだ。
炎が放たれる。
その瞬間、横へ。
炎の脇を抜ける。
一気に懐へ入った。
角は空。
だが、すでに次の力が首から流れ始めている。
「ここ切ればいいか」
スパナへ霊力を流す。
「《ライン遮断》」
力の流れを一時的に断つ技能。
首元へ叩き込んだ。
――バチン!
「グォッ!」
狼が大きく仰け反る。
黒い角から赤い光が消えた。
悠太郎はすぐに離れた。
狼が再び角へ力を送ろうとする。
だが。
光らない。
「よし」
これで炎は消えた。
残るのは――。
狼が地面を蹴る。
「それだよな」
悠太郎は走った。
追ってくる。
周囲を見る。
さっき炎を受けた木。
幹の半分近くが抉れている。
その先は狭い。
左右にも木がある。
「使えるな」
悠太郎はそこへ向かった。
狼の足音が迫る。
振り返らない。
距離だけを聞く。
近い。
さらに引きつける。
目の前に、焼けた巨木。
「この辺か」
悠太郎は直前で左へ跳んだ。
狼も曲がろうとする。
だが遅い。
巨体が木へ激突した。
――ドンッ!
焼けて脆くなっていた幹が折れる。
狼が体勢を崩した。
悠太郎はその瞬間だけを待っていた。
霊力を脚へ。
一気に距離を詰める。
腰。
肩。
腕。
最後にスパナへ。
「ふっ!」
脇腹へ叩き込んだ。
鈍い音。
狼の巨体が地面を転がった。
悠太郎は追わない。
スパナを構えたまま待つ。
狼が立ち上がる。
「…………」
まだ動ける。
だが、炎は使えない。
悠太郎も無傷ではない。
わざわざ殺し合う理由もない。
「来るなら、もう一回やるぞ」
狼が低く唸った。
やがて、一歩下がる。
そして森の奥へ走り去った。
悠太郎はその姿が消えても、しばらく動かなかった。
気配がなくなる。
「…………」
ようやくスパナを下ろす。
「面倒くせぇ犬だったな」
◇
その場を離れる。
折れた木。
焼けた地面。
狼の臭い。
ここで寝る気にはならない。
しばらく森を歩いた。
「……ふぁ」
欠伸が出た。
悠太郎は目元を擦る。
「そういや俺……仕事終わってから一睡もしてねぇな」
仕事を終えたのが午後十一時過ぎ。
そのまま呼び出されて病院へ。
怪異を処置して。
黒い扉に吸い込まれて。
死者だらけの場所へ落ちて。
今度は巨大な狼。
「仕事終わりに幽霊、そのまま異世界で犬かよ」
また欠伸。
「……そりゃ眠いわ」
とはいえ、その辺で寝るわけにもいかない。
少し歩く。
やがて、大きな岩を背にした木を見つけた。
悠太郎は周囲を一周する。
獣の足跡はない。
近くに茂みも少ない。
逃げ道もある。
「ここでいいか」
細い枝を何本か拾う。
木の周囲へ立て、それぞれに僅かな霊力を残した。
何かが触れれば、流れが乱れる。
簡単な警報代わりだ。
次にスマートフォン。
圏外。
「まあ、そうだよな」
バッテリーを残すため電源を切る。
財布も確認した。
日本円。
「……こっちはもっと駄目そうだな」
水なし。
食料なし。
土地勘なし。
帰る方法もなし。
問題しかない。
「…………」
悠太郎は大木の根元へ座った。
三十センチのスパナだけは、すぐ掴める位置へ置く。
空を見る。
二つの月。
やはり日本ではない。
あの死者たちは何だったのか。
三百年前に死んだ老人。
学生服の男。
狼の中を流れていた、霊力とは違う力。
考え始めれば、いくらでも考えられる。
だが。
「……無理」
悠太郎は眼鏡を外した。
「眠い」
帰る方法を探すのも。
この世界が何なのか調べるのも。
全部、起きてからだ。
スパナへ手を伸ばせることだけ確認する。
木へ背中を預けた。
「寝る」
二つの月の下。
悠太郎は目を閉じた。
異世界に来て最初の夜は――
何も分からないまま、終わった。




