第1話 404号室から異世界へ
午後十時四十七分。
「……上がってんな」
悠太郎は制御室のモニターを見ながら呟いた。
まだ警報は鳴っていない。
だが、圧力のトレンドがゆっくり上向いている。
黒縁眼鏡を押し上げ、内線を取った。
「現場、ストレーナーの差圧見てくれる?」
『了解です』
三十代半ばほどに見える男だった。
短く剃り上げた頭に薄い無精髭。
細身の身体に濃紺の作業着。
職業はオペレーター。
制御室で設備を監視するだけではない。
異常があれば自分でも現場へ出て、機器を確認し、バルブを操作する。
監視と現場作業。
それが悠太郎の本業だった。
『差圧、上がってます』
「予備に切り替えよう。俺も行く」
椅子から立ち上がる。
警報が鳴ってから動くのでは遅い。
いつもと違う。
その小さな変化を見つける。
悠太郎は、そういう仕事をしていた。
◇
作業を終えて制御室へ戻った頃には、午後十一時を過ぎていた。
胸ポケットのスマートフォンが震える。
画面を見て、悠太郎は顔をしかめた。
「……今度はそっちかよ」
電話に出る。
「はい」
『境界管理局です。第二級霊障が発生しました』
「俺、今仕事終わったとこなんだけど」
『桜木、怜の両名が先行しています。ただ、怜から支援要請が入っています』
「怜が?」
『はい』
少しだけ表情が変わる。
怜が自分から応援を呼ぶなら、何かある。
「場所送って」
電話を切った。
境界管理局。
一般には存在を知られていない、霊や怪異を専門に扱う組織だ。
その現場を担当する者を、霊界オペレーターと呼ぶ。
彼らは霊力を扱う。
霊力で身体を強化する。
武器へ流せば、本来触れられない霊体にも攻撃できる。
霊力の扱い方と得意分野は人それぞれだが、それが霊界オペレーターの基本だった。
悠太郎もその一人。
ただし、境界管理局の専業ではない。
昼は普通のオペレーター。
勤務後や休日だけ依頼を受ける、外部契約の霊界オペレーターだった。
「昼は設備、仕事終わったら幽霊……」
悠太郎は鞄を持った。
「だりぃ」
◇
午前零時十三分。
閉鎖された市立病院。
車を降りると、入口に二人の男が立っていた。
「先輩、遅いっすよ」
大柄な男が手を上げる。
桜木。
三十歳ほど。
眼鏡をかけ、長めの髪を後ろで束ねている。
悠太郎と同じ青い作業着。
手には大きなゴムハンマー。
「仕事だったんだよ」
「もう局に来ればいいじゃないっすか。ずっと誘われてるんでしょ?」
「嫌だよ」
「即答っすね」
「二十四時間幽霊とか勘弁してくれ」
「今も似たようなもんじゃないっすか」
「全然違う」
「悠太郎さん」
桜木の後ろから、細身の青年が歩いてきた。
怜。
二十代半ばほど。
耳から首元にかかる黒髪。
落ち着いた顔つきで、腰には番線を束ねて提げている。
「仕事の後にすみません」
「いい。状況は?」
「四階です。霊障の強さが安定しません」
「どんな感じ?」
「第二級まで上昇した直後、ほとんど検出できないところまで落ちます。それを繰り返しています」
「測定器でも同じ?」
「はい」
怜が少し視線を落とす。
「私の感覚がおかしいのかと思ったんですが……」
「機器でも同じなら、自分を疑うのは最後でいい」
悠太郎は病院を見上げた。
「まず異常を疑え」
「……はい」
桜木が手を上げた。
「先輩」
「何?」
「この病院、十二年前に突然閉鎖されてるんすよ」
「だから?」
「政府が何か隠して――」
「行くぞ、怜」
「はい」
「最後まで聞いてくださいよ!」
◇
四階。
三人が暗い廊下を進む。
全員の足音が止まった。
「三人」
怜が言う。
「ああ」
悠太郎にも見えている。
「見えてるっす」
桜木もゴムハンマーを下ろした。
廊下の奥に三人の人影が立っていた。
老人。
看護師。
病衣姿の女。
全員、死者だ。
霊界オペレーターにとって、霊を見ること自体は珍しくない。
問題は真ん中の女だった。
全身から黒い靄が漏れている。
「老人と看護師は残留霊」
悠太郎が言う。
「女だけ違うな」
女の首が傾いた。
次の瞬間。
床を蹴った。
「来ます!」
怜の身体を薄い光が包む。
霊力。
脚力を強化し、一気に後方へ跳ぶ。
同時に右手を振った。
腰に巻かれていた番線がひとりでに解ける。
一本。
二本。
三本。
怜の霊力を纏った番線が、まるで生き物のように宙を走った。
女の両腕へ巻きつく。
「拘束します!」
怜が指を握る。
番線が一気に締まった。
女の動きが止まる。
「桜木さん!」
「任せろっす!」
今度は桜木の全身から霊力が噴き上がった。
怜より荒々しい。
霊力を脚へ集中。
床が軋む。
巨体が一気に加速した。
さらに両腕。
そしてゴムハンマーへ。
本来なら霊体を素通りするはずの工具が、霊力によって怪異へ干渉できる武器へ変わる。
「悪いっすけど――」
振りかぶる。
「俺、加減するの苦手なんすよ!」
叩きつけた。
轟音。
女の霊体が廊下の奥まで吹き飛ぶ。
桜木が振り返った。
「どうっすか先輩!」
「五点」
「なんで!?」
「今の台詞」
「技じゃなくてそっち!?」
「桜木さん」
怜だけが笑っていなかった。
「まだです」
黒い靄が集まっていく。
吹き飛ばした女の身体が再生する。
「マジっすか」
女が怜へ飛びかかった。
怜が片手を振る。
床に落ちていた番線が跳ね上がった。
女の脚へ絡む。
さらに二本。
胴体。
首。
霊力を流し込みながら、空中で番線を操る。
「っ……!」
怜の身体が引っ張られた。
女の力が強い。
怜は足へ霊力を集中させた。
靴底が床を滑りながらも踏み止まる。
「私じゃ……倒せません」
番線を握る。
「でも――」
霊力がさらに強くなる。
「止めるくらいならできます」
「十分」
悠太郎が前へ出た。
工具袋から三十センチほどの銀色のスパナを抜く。
霊力を流す。
スパナが淡く震えた。
同時に悠太郎は目へ霊力を集中させる。
見る。
女そのものではない。
霊力の流れ。
どこから力を得ている。
どこへ流れている。
何がこの現象を維持している。
「……見つけた」
女の背中から黒い流れが伸びている。
壁の奥へ続いていた。
「怜。そのまま」
「はい!」
「桜木」
「いつでも!」
「いらない」
「え?」
悠太郎が走った。
脚へ霊力。
一気に距離を詰める。
女の腕を身体を沈めてかわす。
壁際へ。
「こいつじゃない」
スパナを振り上げる。
「原因はこっちだ」
霊力を一点へ集中。
振り抜いた。
何もない空間で、
――バキン。
何かが割れた。
女から伸びていた黒い流れが切断される。
途端に女の身体から靄が消えた。
怜の番線の中で動きが止まる。
「……解除します」
怜が指を下げる。
番線がするすると離れた。
女が顔を上げた。
先ほどまでとは違う。
普通の人間の顔だった。
『……帰りたい』
悠太郎がしゃがむ。
「どこに?」
女が廊下の奥を指差す。
『四〇四……』
「404?」
女の表情が恐怖に変わった。
『でも……』
身体が薄くなっていく。
『開けちゃ……だめ……』
消えた。
◇
「403」
桜木が部屋番号を見る。
一つ先。
「405」
「404号室がないですね」
怜が言った。
その間には壁しかない。
「怜」
「はい」
怜が番線を一本取り出す。
霊力を流す。
手を離した。
番線が宙に浮く。
ゆっくりと先端が動き――壁を指した。
「ここです」
三人で壁を調べる。
古い内装を剥がす。
その奥。
真っ黒な扉が現れた。
「……」
悠太郎の表情が変わった。
「先輩」
桜木がゴムハンマーを握る。
「これ、何なんすか?」
「分からん」
霊ではない。
これまで扱ってきた怪異とも違う。
なのに。
扉の向こうには――
大量の霊の気配がある。
怜が息を呑んだ。
「……多い」
「ああ」
「何人いるんでしょう」
「分からん」
悠太郎はすぐに決めた。
「撤収」
「え?」
「情報が足りない。局に報告する」
桜木が扉を見る。
「でも先輩、このまま――」
「分からんもんを、分からんまま触るな」
悠太郎は後ろへ下がった。
「怖いから止まるんじゃない。分からないから止まるんだ」
桜木が頷く。
「……了解っす」
三人が離れる。
その瞬間。
――カチャ。
黒い扉が開いた。
「は?」
凄まじい力が悠太郎を引っ張った。
「悠太郎さん!」
怜が即座に霊力を放つ。
番線が悠太郎の腕へ巻きつく。
さらに何本もの番線を壁や手すりへ絡ませる。
「固定します!」
怜が全身を霊力で強化する。
だが。
「っ……!」
番線ごと引っ張られる。
「桜木!」
「はい!」
桜木が悠太郎の腰を掴む。
脚へ大量の霊力を流す。
床が割れた。
「先輩! 踏ん張って!」
「やってる!」
悠太郎も身体を霊力で強化する。
三人分の霊力。
それでも止まらない。
扉の向こう。
悠太郎には見えた。
人。
人。
人。
人。
暗闇の中に、数え切れない死者が立っている。
「……なんだよ、これ」
番線が一本切れた。
「悠太郎さん!」
「怜、無理すんな!」
「嫌です!」
二本目。
三本目。
切れていく。
桜木の足元の床が砕けた。
「先輩!」
桜木が歯を食いしばる。
「勝手に消えるのだけは、なしっすよ!」
「俺だって消えたくねぇよ!」
最後の番線が弾けた。
「悠太郎さん!」
悠太郎の身体が扉へ吸い込まれる。
暗闇に呑まれる直前。
「俺、明日も仕事なんだけど……」
扉が閉じた。
◇
「悠太郎さん!」
怜が扉へ飛びつく。
霊力を流した番線を隙間へ突き込もうとする。
入らない。
「どけ!」
桜木が全身を霊力で強化。
ゴムハンマーを叩きつける。
轟音。
もう一度。
それでも開かない。
やがて黒い扉そのものが薄くなっていく。
「待て!」
桜木が殴りつける。
消えた。
ただの壁になる。
怜の手には、切れた番線だけが残った。
「……私なんかが……」
口にしかける。
だが。
怜は自分で止めた。
番線を握り締める。
「違う」
「怜?」
「悠太郎さんは生きてます」
顔を上げる。
「絶対に見つけます」
桜木を見る。
「今度は――私が、悠太郎さんを連れ戻します」
桜木もゴムハンマーを肩へ担いだ。
「当然っす」
◇
同じ頃。
別の世界。
巨大な魔法陣が光を放った。
「成功だ!」
神官たちが歓声を上げる。
光の中央。
一人の少年が立っていた。
十八歳。
黒髪。
日本人。
神谷レン。
「……ここ、どこですか?」
神官たちが一斉に跪く。
「お待ちしておりました」
「え?」
「異界より召されし――勇者様」
歓声が大広間を満たした。
この世界はその日。
一人の日本人を、勇者として正しく召喚した。
そして。
もう一人の日本人が――
まったく別の場所へ落ちていた。
◇
「……いてぇ」
悠太郎が目を開けた。
冷たい石の上。
身体を起こす。
「怜?」
返事はない。
「桜木?」
いない。
スパナはある。
スマートフォンもある。
圏外。
「……どこだよ」
顔を上げる。
灰色の空。
果ての見えない大地。
そして。
「……は?」
人がいる。
一人や二人ではない。
老人。
子供。
鎧姿の男。
獣の耳を持つ女。
角の生えた者。
何千。
何万。
見渡す限り、人で埋まっている。
悠太郎には分かった。
「……全員、霊かよ」
生者が一人もいない。
近くを歩いていた老人を呼び止める。
「爺さん」
老人が驚いた顔で振り返る。
『……儂が見えるのか?』
「見えるよ」
むしろ悠太郎には、その質問の方が不思議だった。
「ここ、どこ?」
『死者が来る場所だ』
「……霊界?」
老人は首を傾げる。
悠太郎は周囲を見る。
何かがおかしい。
「爺さん」
『なんだ』
「いつ死んだ?」
『三百年ほど前だ』
「……三百?」
『そうだ』
悠太郎の顔から気だるさが消えた。
もう一度周囲を見る。
大量の死者。
消える者はいない。
どこかへ向かう者もいない。
ただ、そこに残っている。
「……なんで」
悠太郎が呟く。
「三百年前に死んだ奴が、まだここにいる?」
その瞬間。
遠くの空間が大きく歪んだ。
地面が震える。
「今度はなんだよ」
足元が光った。
「おい」
身体が沈む。
「ちょっと待て」
さらに沈む。
「待てって」
一気に落下した。
「またかよ!」
死者たちが遠ざかっていく。
その中。
一人だけ。
悠太郎を見ている男がいた。
他の者とは服装が違う。
古びた日本の学生服。
男の目が見開かれる。
『……日本人?』
「え?」
視界が白く染まった。
◇
次に落ちたのは森だった。
「ぐっ!」
枝を折りながら地面へ転がる。
「……最悪」
悠太郎は仰向けになる。
空には――月が二つ。
「…………」
スマートフォンを見る。
圏外。
「帰りてぇ」
ガサッ。
草むらが揺れた。
巨大な狼が姿を現す。
三メートル近い巨体。
額には黒い角。
唸り声。
悠太郎は立ち上がった。
「今度は犬かよ」
狼の角が赤く光る。
悠太郎はスパナを握った。
身体へ霊力を流す。
筋力。
反応速度。
脚力。
霊界オペレーターなら誰でも行う基本的な身体強化。
さらにスパナへ霊力を流す。
そして目にも。
「……霊じゃねぇな」
見える。
狼の身体の中。
知らない力が循環している。
霊力とは違う。
「なんだ、この流れ」
身体の中心から頭部へ。
さらに角へ。
大量の力が集まっている。
角の先端に炎が生まれた。
「……なるほど」
悠太郎は腰を落とす。
この力が何なのかは知らない。
魔力という言葉すら、まだ知らない。
だが。
発生して。
流れて。
集まって。
使われる。
そこは理解できる。
「名前が違うだけで――」
狼が飛び出した。
悠太郎も霊力で強化した脚を踏み込む。
スパナを構えた。
「やってることは同じか」
この世界には勇者がいる。
魔王がいる。
魔法がある。
そして。
誰にも知られていない場所には――
三百年以上、残り続けている死者がいる。
その日。
勇者とはまったく別の入口から。
青い作業着の霊界オペレーターが、
異世界へ迷い込んだ。
エブリスタ版では挿絵付きで公開中




