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第7話:百の質問


 午前十一時二十二分。日本側の小型艇が、リヴァーノ港の防波堤を越えた。


 使節団長は窓越しに、初めて異世界の都市を間近に見た。


 石だった。最初に目につくのは、何よりも石だ。防波堤も、倉庫も、岸壁も、街路も石でできている。その間を埋めるように、漆喰壁と木組みの家々が建ち並んでいた。二階建てや三階建てが多く、港に近い商館には四階建てのものもある。そして、それらの間を細い運河が縫うように走っていた。


「……思ったより大きいですね」


 政治・地域分析担当の外交官が呟いた。


『推定市街人口、一万五千から二万人。既取得情報と整合』


 耳元でAIが答える。


「港湾機能も、かなりしっかりしてます」


 科学担当が窓に顔を寄せた。


 石造りの岸壁に木製の桟橋、荷役場。巨大な木造の踏車の中を人間が歩いて歯車を回し、長い腕の先に吊られた荷が持ち上がっていく。


「クレーンですね」


「人力式か」


「それだけじゃない」


 科学担当の視線は、そのさらに向こうに向いていた。


 岬の上に、灯台が立っている。昼間なので灯火そのものは消えているが、センサーは塔の上部から微弱な未知現象を拾っていた。


『既知の電磁波源なし。昨日確認された現地特異現象と類似』


「……本当に魔法なんだな」


 護衛要員の一人が小声で言った。


「政府文書上は、まだ“特異現象”です」


 検疫官が訂正する。


「この状況で、そこ守ります?」


「守ります」


 ◇


 そして、人がいた。多すぎるほどに。


 指定された岸壁の周囲には、都市警備兵が縄を張って空間を確保していたが、その向こうには群衆が何重にも並んでいた。窓、屋根、橋、運河沿い、倉庫の二階──ありとあらゆる場所から、視線が向けられている。


「ざっと二千人以上か」


『推定、二千四百から三千百』


「増やさなくていい」


 使節団長が苦笑した。


 艇が速度を落とすにつれ、群衆のざわめきが聞こえてきた。翻訳AIが、それを猛烈な勢いで拾っていく。


『“日本人”多数』


『“白い船”多数』


『“魔法を使えない者”』


『“八千三百万”』


『“異世界”』


「情報、もうかなり広がってますね」


 言語担当が言った。


「昨日の三人は、口が堅いわけじゃなかったらしい」


「港町ですからね」


 政治担当の言葉に、誰かがそう返した──そのときだった。


 艇内にいた全員が、ほぼ同時に黙り込んだ。


 岸壁に集まった人々の中に、明らかに人間ではない者がいたのだ。


 ◇


「……確認」


 科学担当が呟いた。


『複数の非ホモ・サピエンス型知的生物候補を確認』


「候補じゃないでしょう、あれ」


 人間とほぼ同じ姿をしているのに、耳が長い者がいる。小柄で、肩幅が異様に広い者もいる。その隣には、顔立ちは人間に近いのに、頭部から獣のような耳が伸び、尾まで生えた者が立っていた。


 そして、少し離れたところには──鱗に覆われ、爬虫類に似た頭部を持つ者がいた。二足で立ち、衣服を着て、槍を手に警備兵と何か話している。


 使節団長は、ゆっくりと息を吐いた。


「全員、表情に出さないでください」


「努力します」


 そう答えた言語担当本人が、一番目を見開いていた。


 日本側は昨日、ネリオから複数の知的種族が存在すると聞いている。絵も見た。だが──知識として聞くことと、実際に目の前で見ることは、まったく違っていた。


 一方で、リヴァーノの住民もまた、日本人たちを見つめていた。


「普通だ」


「本当にサピエンスだぞ」


「耳も短い」


「全員か?」


「十二人いる!」


「女もいる!」


「服が全部同じだ」


「顔に何をつけてるんだ?」


 翻訳AIが、次々とその声を拾っていく。日本側が現地の人々を珍しく思うのとまったく同じように、現地の側も日本人を観察していた。


 ◇


 艇が岸壁に接触した。係留作業は日本側が行い、リヴァーノの港湾労働者たちが目を丸くしてその様子を見守っていた。


 最初に降りたのは、護衛ではなく検疫官だった。小型のセンサーで、岸壁の表面、大気、水、周辺の生物反応を確認していく。


『既取得サンプルとの差異なし。急性危険因子なし』


「上陸可」


 その報告に、使節団長が頷いた。


 階段を一歩、また一歩と上がる。


 そしてついに、日本国の正式な使節が、初めてヴァレシア王国の地面を踏んだ。


 群衆がどっとざわめいた。誰かが拍手をし、別の誰かが慌ててそれを止める。何が正しい礼儀なのか、誰にも分からない。日本側にも分からない。


 だから使節団長は、岸壁の正面で待っていた男に向かって、軽く頭を下げた。港務所の次席官だった。


「日本国の使節の方々ですね」


 翻訳は、ほとんど遅延なく届いた。


「はい。本日のご招待に感謝いたします」


『はい。皆様が我々を招いてくださったことに感謝します』


 昨日とは比べものにならないほど自然な訳だった。次席官の顔が、わずかに引きつる。


「……本当に、上手くなっていますな」


「翻訳機が学習しています」


『我々の言葉を変換する機械が、あなた方の言語を学習しています』


「昨日一日だけで?」


「はい」


 次席官は何か言いかけて、結局話題を変えた。


「……領主閣下がお待ちです」


 ◇


「領主本人か?」


 日本側の政治担当が、小声で確認した。


『“領主閣下”の語義:当該地域の封建統治者本人である可能性、九六パーセント』


「本人が来たのか」


 使節団長が呟いた。


 日本側の想定では、まず港湾の行政官か外交担当者と会い、うまくいけば、その後に地方の統治者と会談する──という段取りだったのだ。


「距離百二十メートル。中央の人物です」


 護衛が低く告げた。


 港務所の前には、小さな広場がある。その中央に、儀礼用らしい外套をまとった男が立っていた。四十代後半から五十代ほどに見える。その隣には若い女性。そしてもう一人、明らかに周囲とは立ち姿の違う男がいた。


「右側の男性」


『武装者。剣。短銃様の装備。身体運動パターンから、高度な戦闘訓練を受けている可能性』


「護衛責任者かな」


 その男は、日本側の護衛をじっと見ていた。足運び、手、腰、視線、装備──使節団長にも、はっきりと分かった。


 向こうもまた、こちらを分析しているのだ。


 ◇


 領主は、待ちきれなかった。


「もう行っていいだろう」


「お待ちください」


「百歩以上あるぞ」


「日本人側が、こちらを確認しています」


「なら確認させればいい」


「閣下」


 騎士が小声で言った。


「前へ出ないでください」


「なぜだ」


「そういうお約束です」


「私は約束したか?」


「なさいました」


「七十歩と言った記憶はあるが」


「最終的には、百歩で同意されました」


「私も覚えています」


 娘が横から口を添えた。領主は二人を見比べる。


「味方がいない」


「閣下を生かしておこうとする者なら、大勢おります」


 そのとき、日本側の一行が動き出した。


 十二人。中央に四名、後方に二名。護衛らしき六人は、周囲に視線を配りながら歩いている。剣は持っていない──少なくとも、見えるところには。


 だが騎士は、それで安心するほど素直ではなかった。


「武器を隠しています」


「分かるのか?」


「分かります」


「どこにだ?」


「申し上げません」


「なぜ」


「閣下が覗き込まれるからです」


 ◇


 両者の距離が縮まっていく。二十メートル、十メートル、五メートル。


 日本側の使節団長が足を止めた。領主も一歩前へ──


「閣下」


 騎士の低い声に、領主は止まった。


「分かっているよ」


 全然分かっていない、と娘は思ったが、口には出さなかった。


 使節団長が頭を下げた。


「日本国政府を代表し、本日の歓迎に感謝いたします」


 AIによる変換は、ほんの〇・数秒だった。


『日本国の政府を代表し、我々を迎えてくださったことに感謝いたします』


 領主の目が輝いた。昨日ガルディオから聞いた翻訳機械だが、実際に耳にすると、さらに異様だった。


 領主も右手を胸に当てた。


「ヴァレシア王国、リヴァーノ領主として、皆様を歓迎します」


『ヴァレシア王国リヴァーノの統治者として、あなた方を歓迎します』


 日本側の言語担当が、一瞬だけ画面に目を落とした。


「精度が高いですね」


「昨日の資料のおかげです」


 小声でそう返して、使節団長は続けた。


「我々は、平和的な関係を築くことを望んでいます」


『我々は、争いではなく、友好的な関係を作りたいと考えています』


 領主が笑った。


「それなら、まず一つは意見が一致しましたな」


 少し考えてから、彼は続けた。


「少なくとも、今すぐ殺し合う必要はないようだ」


 翻訳AIが、一瞬迷った。


『少なくとも、現在すぐに互いを殺す必要はないようです』


 日本側の使節団が、一斉に固まった。領主の娘が目を閉じる。


「お父様」


「何だ?」


「最初の挨拶です」


「冗談だよ」


 日本側のAIが補足を表示した。


『直前の発話はユーモアである可能性、八八パーセント』


「翻訳機が、冗談だと言っています」


 使節団長が笑いながら言うと、その言葉が訳された。領主は声を上げて笑った。


「優秀な機械だ」


 張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ解けた。


 ◇


 直接の握手は行われなかった。


 未知の感染症について安全性が完全には確認されていないため、当面は直接の接触を避けたい──日本側がそう説明すると、リヴァーノ側もすぐに理解した。むしろ、司祭と治癒術師が大きく頷いたほどだった。


「賢明です」


 司祭が言った。


「港町では、遠い土地の病ほど恐ろしいものはありません」


 日本側の検疫官が、少し意外そうな顔をした。


「疾病が人から人へ伝播することは、理解されているんですか?」


『質問の意図を調整します』


 AIが、柔らかく言い換えた。


『病気が、人や物を通して遠方から持ち込まれることについて、知識があるのですか』


「もちろんです」


 治癒術師が答えた。


「すべての病について、というわけではありませんが」


 科学担当の端末に、記録が追加された。


『現地の医学・疫学知識、予想以上に高度』


 ◇


 第一回の会談は、予定通り港務所で行われた。


 日本側の十二名全員が会談室に入るわけではない。中心となる四人と、検疫官一名、護衛二名。残りは隣室と、建物の周囲に控えた。


 リヴァーノ側も人数を絞った。領主と娘、騎士、港務官、司祭、魔術師ギルドの代表、書記──そして、なぜかガルディオ。


「なぜあなたがいるんです?」


 ネリオが小声で聞いた。


「俺が、日本人を最初に見たからだ」


「昨日は寝てたでしょう」


「今は起きてる」


 ガルディオは端の椅子に腰を下ろした。日本側に三浦船長が来ていないことだけは、少し残念そうだった。


 ◇


 机の上には、水と果実、焼き菓子、小さなパンが並べられていた。日本側は礼を述べたが、口にはしなかった。


 領主は、それにも興味を示した。


「召し上がらないのですか?」


「申し訳ありません。現在は検疫上の理由から、現地の食品を直接摂取しない方針なのです」


「毒を疑っているわけでは?」


「違います」


「分かっていますよ」


 領主は頷いた。


「病ですね」


「はい」


「ならば構いません」


 少し間を置いて、領主は続けた。


「いつ召し上がれるようになります?」


「安全性が確認されれば」


「どのくらいで?」


 娘が父を見た。


「お父様」


「最初の質問だ」


「もう三つ目です」


 ◇


 こうして、リヴァーノ領主による、日本国への質問攻めが始まった。


「まず」


 領主は机に身を乗り出した。


「あなた方は、何者なのです?」


「我々は、日本国という国家の国民です」


 使節団長が答えた。


「それは昨日、ガルディオから聞きました」


 ガルディオが片手を上げてみせる。


「その日本国は、どこにあるのです?」


 予想していた質問だった。それでも、答えにくい。


「現在は、この海の東方に我々の国土があります」


「現在は?」


 やはり、そこを拾われた。使節団長は慎重に言葉を選んだ。


「我々の知る限り、昨日の朝まで、日本はこの世界には存在しませんでした」


 AIが訳すと、室内が静まり返った。


 昨日のうちに、すでに報告は受けている。それでも、当事者本人の口から聞くと重みが違った。


「別の世界」


 領主が言った。


「そうお考えなのですか?」


「正確には、まだ断定していません」


「では、何だと?」


「分かりません」


「分からない?」


「はい」


 領主は一瞬驚いた顔をした後、妙に満足そうに頷いた。


「いいですね」


 日本側が、少し困惑した。


「何が、でしょう」


「分からないものを、分からないと言う」


 科学担当の表情が、わずかに緩んだ。


「我々も、それを大切にしています」


「なら、話が合いそうだ」


 ◇


「次です」


 その言葉に、領主の娘は嫌な予感を覚えた。


「日本には、何人住んでいるのです?」


「約八千三百万人です」


「やはり、そうですか」


「はい」


 昨日の報告が誤訳ではなかったと確認して、領主は背もたれに身体を預けた。


「ヴァレシア王国は、百九十万ほどです」


 日本側の政治担当が、即座に記録を取る。


「リヴァーノは?」


「この街ですか。それとも、私の領地ですか?」


 AIが一瞬止まった。


『“リヴァーノ”が、都市名と領域名の両方に使われている可能性』


「両方お願いします」


 領主は嬉しそうだった。質問される側に回ったことが、である。


「街はおよそ一万八千。領地全体では──」


 数字が続き、日本側が記録していく。そして領主は、待っていましたとばかりに質問を返した。


「その八千三百万人を、一人の王が治めているのですか?」


「いいえ」


「では、何人の王が?」


「政治を行う王はいません」


 領主が止まった。娘が顔を上げ、騎士までもが日本側を見た。


「王が、いない?」


「日本には、天皇がいます」


「なら、その方が王ですね」


 即座に頷いた領主に、使節団長は首を振った。


「いえ」


「違う?」


「天皇は国家の象徴ですが、政府を直接統治するわけではありません」


 領主の眉が寄った。


「では、誰が命令するのです?」


「行政については、内閣です」


「その長が王?」


「違います」


「では、その内閣は誰が選ぶのです?」


「議会──正確には国会の指名に基づいて、首相が任命されます」


「その議会は、誰が選ぶ?」


「国民です」


 領主の動きが止まった。


「八千三百万人が?」


「一定年齢以上の国民が、選挙権を持っています」


「農民も?」


「はい」


「商人も?」


「はい」


「貴族も?」


「法的な貴族身分は、存在しません」


 沈黙が落ちた。今度は長かった。リヴァーノ側の全員が、日本側を見つめていた。


「……貴族が、いない?」


 領主が聞き返した。


「はい」


「一人も?」


「特権を世襲する法的な貴族階級は、ありません」


 騎士が、初めて自分から質問した。


「では、地方の統治者は?」


「地方自治体の長がいます」


「その子が跡を継ぐのか?」


「自動的には継ぎません」


「誰が決める?」


「住民による選挙です」


 領主は娘を見た。娘も父を見返す。港務官は何かを書きかけたまま、筆を止めていた。


「船の話より、分からんな」


 ガルディオがぼそりと言った。


「同感です」


 ネリオが答えた。


 ◇


 領主は、次に使節団の四人を見た。


「皆さん、文字は読めますか?」


「もちろんです」


「あの船の者たちも?」


「基本的には全員」


「日本人の何割が、文字を読めるのです?」


 日本側は、数字ではなく説明を選んだ。


「ほぼすべての成人が、日常生活に必要な読み書きと計算を行えます」


 領主の表情が変わった。これまでの驚きとは、少し違う変わり方だった。


「農民の子も?」


「はい」


「貧しい家の子も?」


「原則として、一定期間の教育を受けます」


「無料で?」


「基礎教育については、公的な制度によって保障されています」


 領主は黙り込んだ。その横顔を見て、娘には分かった。この質問だけは、好奇心から出たものではない。


「もし」


 領主がゆっくりと言った。


「貧しい家に生まれた子に、非常に優れた才能があったら?」


 使節団長は少し考えた。


「制度としては、その才能を伸ばす機会を得られるようにすることを目指しています」


「目指している?」


「完全ではありません」


 領主の眉が、わずかに上がった。


「家庭の豊かさ、住む地域、人間関係、本人を取り巻く環境。そうした差が、すべて消えたわけではありません」


「なるほど」


 領主は少し笑った。


「そこまで理想の国ではない、と」


「はい」


「安心しました」


「なぜでしょう」


 使節団長も笑って尋ねた。


「完璧だと言われたら、嘘を疑うところでした」


 騎士が、わずかに頷いた。


 ◇


「では」


 領主が、次の紙に目を落とした。娘が驚く。


「本当に、質問を書いてきたんですか」


「当然だ」


「何枚です?」


「七枚」


 日本側の言語担当が、思わず咳払いをした。領主は気にせず続けた。


「日本では、魔術師はどのように教育されているのです?」


 ──来た。日本側の全員が、ほんの少しだけ姿勢を変えた。


「昨日も説明しましたが」


 使節団長が言った。


「我々の世界では、昨日まで、魔法の実在は確認されていませんでした」


 魔術師ギルドの代表が、即座に反応した。


「まったく?」


「少なくとも、科学的に再現・確認されたものはありません」


「では、あなた方の船を動かしている魔法使いは」


「いません」


「光は」


「電気です」


「翻訳は」


「人工知能と計算機です」


「冷たい空気を出していたものは」


「空調設備です」


「小舟は」


「機械式の推進装置です」


 ギルド代表は言葉を失った。代わりに、領主が尋ねた。


「科学とは、何です?」


 使節団長が視線を送ると、科学担当が答えた。


「観察し、仮説を立て、実験し、再現できるかを確かめ、誤りがあれば修正する。その積み重ねによって自然の法則を理解し、利用する方法──と言えば、近いでしょうか」


 翻訳AIが、慎重に訳していく。領主が目を細めた。


「自然哲学を、ものすごく徹底したようなもの、ですか?」


「かなり近いと思います」


「魔法も、同じなのでは?」


 今度は、日本側の科学担当が止まった。


 それから、笑った。


「我々も、そう考え始めています」


 ◇


 その返答に一番驚いたのは、ギルド代表だった。


「魔法を、研究する?」


「当然です」


 科学担当は即答した。


「実在するのであれば」


「神秘としてではなく?」


「観測できるなら、測定します」


「再現できたら?」


「条件を調べます」


「術者によって違ったら?」


「その差の原因を調べます」


「なぜ魔法が存在するのか、分からなくても?」


「分からないこと自体が、研究の対象です」


 領主が嬉しそうに笑った。ルメリア教の司祭までもが、静かに頷いている。


「それは、我々の学究派と話が合いそうですな」


「学究派?」


「後ほど、ご説明しましょう」


 日本側のAIが、新しい単語を保存した。


 ◇


 質問は止まらなかった。


「日本には、どれほど大きな都市があるのです?」


「最も大きな都市圏では、数千万人規模です」


「数千万?」


「はい」


「一つの都市に?」


「都市圏として、です」


「どうやって食わせるのです?」


「物流網によってです」


「毎日?」


「毎日です」


「凶作のときは?」


「備蓄や、国内の他地域からの輸送、食料生産の調整などで対応します」


「飢饉は?」


「通常時に、大規模な餓死が起きることはありません」


 財務官がこの場にいたら、立ち上がっていたかもしれない。代わりに、領主が前のめりになった。


「では、病は?」


「寿命は?」


 今度は司祭が反応し、娘も視線を上げた。使節団長が答える。


「日本では、平均寿命は百歳を超えています」


 室内の時間が止まった。


「百?」


「はい」


「百歳まで生きる者もいる、という意味ではなく?」


 領主が聞き返した。


「平均です」


 司祭が椅子から身を乗り出した。


 長寿のエルフ系種族を知るこの世界でも、サピエンス型の人間が平均で百歳を超えるというのは、まったく別の話だった。


「健康に動けるのは、何歳までです?」


「平均的な健康寿命は、およそ九十五歳です」


 ガルディオが、ぽかんと口を開けた。


「九十五で?」


「もちろん、個人差はあります」


「歩けるのか?」


「多くの場合は」


「働くのか?」


「働いている人もいます」


「九十で?」


「はい」


 領主は、自分の手に目を落とした。


「どうやって」


「老化の抑制、再生医療、臓器や組織の修復、限定的な若返り治療などです」


 翻訳AIは、その文章だけはかなり苦戦した。現地の言葉に、対応する概念がないのだ。AIは言葉を分解し、説明する形で訳した。


『年を取ることで身体が壊れる速さを、遅くする。壊れた身体の一部を、作り直す。年齢による変化を、一部だけ若い状態に近づける医療』


 部屋の空気が変わった。真っ先に口を開いたのは、領主だった。


「それは」


 少し間を置いて、彼は尋ねた。


「我々にも、使えるのですか?」


 騎士が目を閉じた。


「閣下」


「これは重要だろう」


「重要ですが、初対面です」


 使節団長は、困ったように微笑んだ。


「現時点では、こちらの世界の方々に安全に適用できるかどうかすら、分かっていません」


「調べれば?」


「その可能性はあります」


 領主の目が、また輝いた。娘が小声で呟く。


「今、余計な希望を与えたかもしれません」


 翻訳AIは、なぜかその呟きまで訳してしまった。日本側とリヴァーノ側から、同時に小さな笑いが起きた。


 ◇


 会談開始から、二時間十二分。当初の予定は九十分だった。


 使節団長の端末に、『休憩推奨』と表示された。


 彼は領主を見た。領主の前には、まだ五枚近い質問紙が残っている。


「閣下」


 先に口を開いたのは、娘だった。


「皆様には、休憩が必要です」


「もう?」


「二時間です」


「まだ?」


「二時間です」


「質問は、半分も終わっていないぞ」


「今日一日で、日本という国を全部理解するおつもりですか?」


 領主は真顔で答えた。


「できれば」


 騎士が天井を仰いだ。使節団長は、笑いをこらえきれなかった。


「構いませんよ」


 領主がこちらを見る。


「我々にも、お聞きしたいことがたくさんありますから」


 その一言で、領主の表情が変わった。


「ああ」


 嬉しそうに、彼は頷いた。


「もちろんです。何でも聞いてください」


「答えられる範囲で、です」


 娘が即座に付け加えた。


「分かっている」


「さっきも、同じことをおっしゃいました」


 ◇


 窓の外では、リヴァーノの運河を小舟が進んでいた。


 市場では商人が値段を叫び、木製のクレーンが荷を持ち上げ、異種族の住民たちが橋を渡っていく。そしてある魔術師が、何気なく指先に火を灯していた。


 日本側の科学担当は、それを窓越しに見ていた。


 ほんの小さな炎だ。この街の人々にとっては、珍しくもない光景だろう。だが日本人にとっては、四百年以上にわたる科学史の前提を、一瞬で塗り替える炎だった。


 一方、リヴァーノ領主の前には、日本側が見せた簡単な映像が静止していた。


 そびえ立つ高層都市と、無数の建築物。空を飛ぶ機械。巨大な橋。夜でも昼のように光る街。魔法を使わずに作られたという文明。


 互いが互いを、奇跡だと思っていた。それが、この日の初期会談だった。


 そして休憩の後、領主は質問紙の三枚目を開き、最初にこう尋ねることになる。


「ところで、日本人は空を飛べるそうですが──どのくらい高くまで?」


 その質問が、やがて「宇宙」という言葉にまで辿り着くことを、リヴァーノの誰も、まだ知らなかった。

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