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第4話:言葉が育つ


 最初の一時間、会話は会話と呼ぶにはあまりにも不格好なものだった。


「ニホン」


 三浦が胸元の国章を指した。


『日本。国。われわれ』


 翻訳AIが、覚えたばかりのヴァレシア語を慎重に並べる。ガルディオは頷き、今度は自分の胸ではなく西を指した。


「ヴァレシア。王国」


「ヴァレシア王国。リヴァーノ」


 ネリオがそう補足して、さらに西を指し示す。


『語彙候補更新:ヴァレシア=国家名、王国=政治制度、リヴァーノ=地方名または都市名』


 壁面表示の隅で、文字が次々と増えていく。三浦たち日本人には読めるが、ガルディオにはその意味が分からない。ただ、一つだけ分かったことがあった。


 この白い船は、会話をするたびに何かを覚えている。


「……さっきより早くないか?」


 ガルディオがネリオに囁いた。


「何がです?」


「返事だ」


 ネリオも気づいていた。


 最初のうちは、彼らが一語話すたびに、白い船の人間たちは数秒から十数秒のあいだ、奇妙な板や空中に浮かぶ表示を見ていた。だが今は違う。短い言葉なら、ほとんど間を置かずに返ってくる。


 ネリオは試すように言った。


「海」


『海』


「空」


『空』


「船」


『船』


「王」


 ほんのわずかに、間が空いた。


『王。統治者。君主』


 ネリオの眉が上がった。


「……三つ返ってきた」


「どれも似たようなもんだろ」


「違います」


「俺には同じだ」


「だから船長は政治の話をしないでください」


「港の役人みたいなこと言うな」


 三浦には内容までは完全に分からなかったが、翻訳AIは推定を表示していた。


『軽度の冗談、または皮肉を含む会話と推定』


 高瀬が小さく笑った。


「向こうも普通に仲が悪そうで、安心しますねぇ」


「仲が悪いんですか?」


 神谷が訊いた。


「仲が良いから、ああいう言い方ができるんですよ」


「高瀬さんの人間関係論、信用していいんです?」


「失礼ですねぇ」


 三浦は二人を放っておいた。


 ◇


 接触開始から一時間十二分。言語解析の進捗は、当初の予測を大きく上回っていた。


 理由は二つあった。


 一つは、日本側の翻訳AIだ。


 このAIは、人間の音声だけを解析しているわけではない。発話時の視線、指先の動き、表情、周囲の物体、直前の会話、そして相手同士の反応──それらすべてを同時に照合している。


 たとえば「船」という単語を学ぶときも、単に日本語の「船」と現地語の音を結びつけるだけではない。ガルディオが自分の船を指したこと。ネリオも同じ語を使ったこと。別の会話では、「船」が複数形らしい形に変化したこと。「船長」という言葉に同じ語幹が含まれていたこと。そのすべてを材料にして、意味と文法を組み立てていくのである。


 そしてもう一つが、ファルネの翻訳魔法だった。


「もう一度お願いします」


 ファルネが三浦に言った。もちろん、その文章はまだ日本側には通じない。ネリオが身振りを添えると、三浦は意図を理解し、ゆっくりと言った。


「私たちは、あなたたちと戦うために来たのではありません」


 ファルネが目を閉じる。指先から淡い光が広がった。


 その魔法は、言葉そのものを読み取るものではない。発話者の意図と音、文脈、そしてすでに覚えた対応関係を手がかりに、最も近い概念を探り当てるものだ。


 数秒の後、ファルネが口を開いた。


「……我々は……お前たちに、刃を……持って来ていない?」


「違う」


 ネリオが即座に言った。


「戦いを望んでいない、じゃないですか?」


「分かってますよ! 術式がそう出すんです!」


 AIは、そのやり取りまで記録していた。


『対訳候補修正。“刃を持つ”=敵対・戦争に関する慣用表現の可能性』


 日本側の言語担当官が声を上げた。


「面白いですね」


「何がです?」


 神谷が訊いた。


「あの人の魔法、直訳器じゃありません。意味空間の対応を取ってるんです」


「……日本語でお願いします」


「向こうも、翻訳に失敗してるんですよ」


「ああ」


「でも、その失敗の仕方がものすごく有用なんです」


 AIにとって、それは宝の山だった。日本語の原文、ファルネの魔法が吐き出した不完全な現地語、ネリオによる訂正、そしてガルディオの反応。それらが次々と対訳資料になっていく。


『翻訳品質推定:初歩的日常会話領域、七九パーセント』


「一時間で?」


「単純な会話だけですけどね」


 言語担当官は、少し興奮していた。


「これ、魔法の側が教師役になってるんですよ」


 ◇


 一方のガルディオは、別の意味で興奮していた。


「じゃあ、これは?」


 彼はテーブルを叩いた。


『机』


「これは?」


 椅子を指す。


『椅子』


「これは?」


 壁を叩く。


『壁』


「これは?」


 最後に、高瀬を指差した。一瞬、室内が静まり返る。


『女性。人。船員』


 高瀬が吹き出した。ガルディオは目を丸くする。


「分かるようになってるぞ!」


 今度は、その言葉がそのまま訳された。


『理解できるようになってきた』


 ほとんど自然な訳だった。ガルディオの顔から、笑みが消えた。


「……今のは、ちゃんとしてたな」


『現在の発話は、高い確率で正しく翻訳されています』


 ネリオが椅子から半分腰を浮かせた。


「しゃべった!」


「ずっとしゃべってただろ」


「そうじゃなくて!」


 ファルネは青ざめていた。


「術式を使ってない……」


 彼は日本側の端末を凝視した。


「誰も魔力を流していない。魔石もない。なのに……」


 高瀬が三浦に囁いた。


「向こうの魔法使いさん、機械を見る目が怖いですねぇ」


「こっちの研究者があの魔法を見る目も、たぶん同じだ」


「それはそうですね」


 ◇


 二時間目に入るころには、会話は単語の交換から質問へと変わっていた。まだ遅く、まだ間違う。だが、意味は通る。


「この船」


 ガルディオが床を指した。


「何人?」


『質問:乗員数』


「通常は三十数名です。今は追加の要員も乗っています」


 三浦の答えが、ヴァレシア語へ変換される。


『この船は、普段三十より少し多い人が働く。今は、特別な仕事の人もいる』


 ガルディオが固まった。


「……三十?」


「ええ」


「この船を?」


「はい」


「三十人で?」


「はい」


 ガルディオはネリオを見たが、ネリオも言葉を失っていた。


 自分たちの《セルカ》でさえ、三十六人が乗っている。帆を操り、舵を取り、砲を扱い、荷を動かすためだ。目の前の白い巨船は、その何倍もの大きさがある。


「奴隷や漕ぎ手は?」


 翻訳AIが、一瞬止まった。


『“奴隷”の概念を認識。慎重な応答を推奨』


 三浦の表情が、少しだけ変わった。


「いません」


『いない』


「下の方にも?」


「いません」


「機関部とかいう場所には?」


「いません」


 ガルディオは腕を組んだ。


「じゃあ、誰が動かしてる」


 三浦は少し考えてから答えた。


「機械です」


『人ではない仕組みが、多くの仕事をする』


 ガルディオは天井を見上げた。


「……魔法じゃなく?」


「我々の知る限り、魔法ではありません」


 今度はファルネが身を乗り出した。


「本当に?」


 訳を聞いて、三浦は頷いた。


「少なくとも昨日まで、我々は魔法が実在するとは考えていませんでした」


 翻訳AIの動作が止まり、警告が表示された。


『“魔法”に相当する現地概念との定義差が大きい可能性』


 言語担当官が、すかさず言い換えた。


「我々の世界では、あなたが先ほど行ったような現象を、人間が起こすことはできませんでした」


 今度は、きちんと通じた。


 ファルネは口を半開きにし、ネリオも呆然としている。ガルディオだけが、三浦の顔をじっと見つめていた。


「……では」


 彼はゆっくりと尋ねた。


「この船も?」


「魔法ではありません」


「光も?」


「魔法ではありません」


「さっきの、勝手に動く小舟も?」


「魔法ではありません」


「言葉を覚える板も?」


「魔法ではありません」


「お前たち、本当に何なんだ?」


 翻訳AIは、数秒考えた。


『あなた方は、一体何者なのか』


 三浦は苦笑した。


「それを説明するために、言葉を覚えているところです」


 今度の訳は、九割方正しかった。


 ◇


 さらに一時間後、日本側は一枚の画像を表示した。


 日本列島の地図だった。ガルディオが画面に顔を近づける。


「島?」


「はい」


「全部、ニホン?」


「はい」


 縮尺が示され、比較用として、海上で確認されたリヴァーノ周辺の海岸線が横に並べられた。ガルディオは地図を睨んだ。


「でかいな」


「国としては、面積はそれほど大きい方ではありません」


『我々の世界では、日本は特別に大きな国ではなかった』


 訳を聞いた瞬間、ガルディオの表情が変わった。


「待て」


 ネリオもすぐに気づいた。


「“我々の世界では”?」


「はい」


 三浦は頷いた。


「さっき言っていた話か」


「はい」


 部屋の空気が、静かになった。ガルディオはもう冗談を言わなかった。


「では、本当に」


 一語一語を確かめるように、彼は言った。


「お前たちは、昨日まで、この世界にいなかった?」


 翻訳AIが日本語へ変換する。信頼度は九四パーセント。三浦も慎重に答えた。


「我々が知っている限りでは、その通りです」


「国ごと?」


「おそらく」


「……国ごと」


 ネリオが呟いた。ファルネの顔からは、血の気が引いていた。


「そんな転移魔法、存在しません」


「お前が知らないだけじゃないのか」


 ガルディオが言うと、ファルネは睨み返した。


「国土をですよ? 何百万人住んでいると思ってるんです!」


 三浦がその言葉を拾った。


「人口について聞かれましたか?」


 ネリオが頷く。ガルディオが、何気ない調子で訊いた。


「ニホン。何人?」


「約八千三百万人です」


 翻訳AIが数字を変換する。一度、二度と桁を確認してから、訳が流れた。


『約八千三百万人』


 静寂が落ちた。ガルディオが眉を寄せる。


「八百三十万?」


「違います」


 AIが画面に大きく数字を表示した。83,000,000。それが現地の数字表記へと変換される。


 ネリオが桁を数え始めた。一、十、百、千、万、十万、百万、千万──途中で、その指が止まった。


「……八千三百万」


 ファルネは椅子に深く座り直した。


 ガルディオは三浦を見て、次に白い壁を、それから天井を見た。


「お前の国には」


 ゆっくりと言う。


「こういう船が、何隻ある?」


 神谷の表情が、わずかに変わった。三浦も気づいていた。


 質問の質が変わったのだ。これはもう、ただの好奇心ではない。相手は船乗りだ。八千三百万という人口と、この船の技術とを、結びつけて考え始めている。


「その質問には、今は詳しくお答えできません」


『安全に関わるため、今は詳しい数を話すことができない』


 ガルディオは数秒、三浦を見つめ──それから笑った。


「いい返事だ」


『良い回答だ』


「何でも喋る馬鹿じゃないらしい」


 そこで、AIが少し迷った。


『あなたは、何でも話す愚か者ではないようだ』


「そこまで正確に訳さなくていい」


 三浦が言い、隣で高瀬が笑いを堪えていた。


 ◇


 接触から三時間四十六分。翻訳AIの一般会話における推定精度は、九十パーセントを超え始めていた。


 もちろん、あらゆる分野で九十パーセントという意味ではない。政治制度、宗教、法、魔法理論、抽象的な哲学──そうした分野に踏み込めば、まだ危険なほど不正確だった。


 しかし、「食べる」「眠る」「船」「国」「町」「王」「海」「敵」「友人」「行く」「戻る」といった程度の言葉なら、ほとんど支障がない。


 さらにAIは、会話の最中に自ら質問を返すようになっていた。


『“領主”という語について確認します。土地所有者、軍事指揮官、行政統治者のいずれですか?』


「全部です」


 ネリオが答えると、AIが一秒ほど止まった。


『すべて』


「そうです」


『制度理解の再構築を開始します』


「AIが困ってる」


 神谷が呟いた。


「そりゃ困るでしょうねぇ」


 高瀬が答えた。


 日本側にとっても、この数時間は未知の社会制度を学ぶ時間だった。ヴァレシア王国、国王、貴族、リヴァーノ領、都市自治、港務所、魔術師ギルド、ルメリア教──そして。


「エルフ?」


 言語担当官が聞き返した。


「エルフ」


 ネリオが頷く。AIが周辺の会話を検索した。


『知的種族の名称と推定』


「人間とは違う?」


 三浦の問いに、ネリオが首を傾げた。


「人間?」


 そこで、双方の会話が止まった。「人間」という概念の境界が、そもそも違っていたのだ。


 ネリオは自分を指して「サピエンス」と言い、ファルネを指して、もう一度「サピエンス」と言った。それから紙に別の人影を描き、耳を長く伸ばす。


「エルフ」


 さらに、小柄で頑丈そうな者を描いた。


「ドワーフ」


 獣の耳を持つ者。


「カルネ人」


 そして、爬虫類のような頭部を持つ、また別の種族。


 日本側の全員が黙り込んだ。最初に声を出したのは神谷だった。


「……比喩じゃ、ないですよね」


『発言の解釈不能』


 翻訳AIが淡々と表示する。高瀬はネリオの絵を眺めていた。


「会ってみたいですねぇ」


 三浦は頭を抱えたくなった。


 日本が別の惑星へ移動した。魔法らしきものが存在する。そして今度は、複数の知的種族だ。今日一日だけで、人類史の教科書を何冊書き直せば済むのか見当もつかない。


 ◇


 やがて、帰る時間になった。


「船長。初回の接触としては十分です。接触時間も長くなっています」


 検疫担当者の進言に、三浦も異論はなかった。ガルディオたちには、最初から帰還を保証している。


「今日は、ありがとうございました」


『今日、我々と話してくれたことに感謝します』


「俺たちもだ」


 ガルディオが頷いた。今ではもう、ほとんど遅延なしで訳されるようになっていた。


「領主に話す」


「あなた方の統治者ですか?」


「この土地のな」


 ガルディオは西を指した。


「リヴァーノの領主だ。たぶん、俺の百倍は質問してくるぞ」


 訳を聞いて、三浦は一瞬黙った。


「……覚悟しておきます」


 ガルディオが笑った。今度はAIも、その笑いの意味を理解したらしい。


『友好的な冗談』


 そんな補足まで表示された。


 ◇


《セルカ》へ戻る直前、ガルディオは甲板から、もう一度「いわみ」を見渡した。


 白い船体、金属、電灯、自動の扉、無数の理解不能な機械。そして、魔法を知らない人々。


 彼がこれまでの人生で見てきた、どんな怪異とも違っていた。


 魔物なら、理解する必要はない。嵐なら、耐えればいい。敵船なら、戦うか逃げればいい。


 だが、これは違う。話ができる。考える。笑う。おそらく、嘘もつく。そして、八千三百万人の国から来たという。


「ミウラ」


 ガルディオは振り返った。そこに三浦が立っていた。


「また、話す」


 三浦が口にしたのは、現地の言葉だった。翻訳機を使わずに、自分の声で。発音はひどく、文法も怪しい。だが、意味は通じた。


 ガルディオは、にやりと笑った。


「今度は、酒でも飲みながらな」


 三浦の端末が、即座に訳した。


『次回は酒を飲みながら話したい』


「検疫が終わったら考えます」


『病気の危険がないと分かった後なら、考える』


 ガルディオは一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに笑った。


「よく分からんが、約束だ」


 ◇


 数十分後。帆を広げた《セルカ》は、西へ向かっていた。


 ファルネが再び《風走り》を起動し、帆が強く膨らんで船足が増していく。背後では、「いわみ」が白い巨体を海上に浮かべたまま、彼らを見送っていた。


 ネリオは机に向かい、すでに報告書を書き始めていた。一枚、二枚、三枚──書いても書いても終わらない。


「船長」


「何だ」


「領主閣下には、どこから説明します?」


 ガルディオは少し考えた。


「帆がないところからだ」


「人口八千三百万は?」


「後だ」


「魔法を知らない件は?」


「もっと後だ」


「異世界から国ごと来たという話は?」


 ガルディオは、しばらく黙った。


「……最後にしろ」


「なぜです?」


「最初に言ったら、そこから先を信じてもらえん」


 ネリオは、妙に納得してしまった。ファルネが横から口を挟む。


「私は、最初から全部信じられませんけどね」


「お前は実際に乗っただろ」


「乗ったから余計にです!」


 ガルディオは声を上げて笑った。


 遥か西、まだ見えないリヴァーノの港では、領主と家臣たちが報告を待っている。


 彼らはまだ知らない。帆のない白い船よりも、魔法を使わずに言葉を学ぶ機械よりも、八千三百万という人口よりも──もっと面倒なものが、海の向こうに現れたことを。


 ──話のできる、巨大な国家が。


 そして、その報告を聞いたリヴァーノ領主が最初に口にする言葉が「すぐ会いたい」であることも。それを止めるために、家臣団が総出になることも。


 ガルディオは、まだ知らなかった。

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