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第3話:最初の言葉


 白かった。


 老船長が最初に抱いた感想は、それだった。


 遠目には朝日に霞んで灰色にも見えた異形の船は、近づくにつれて、はっきりと白い船体を現した。帆船では考えにくいほど均一で、滑らかな白だ。


 喫水線近くまで巨大な船腹が続き、その上には青い帯が走っている。船体の中央から後方にかけて高い構造物がそびえ、窓らしき黒い面が規則正しく並んでいた。


 帆柱は一本もない。巨大な外輪もなければ、煙突から黒煙を吐いているわけでもない。なのに、動いている。


「……でかいな」


 誰かが呟いたが、笑う者はいなかった。


 老船長の船も、決して小舟というわけではない。七十トンを超える積載能力を持ち、外洋航海にも耐える頑丈な船で、リヴァーノでは立派な部類に入る。


 しかし、あの白い船の横に並べれば話が違った。海に浮かぶ城壁──そんな比喩が一番近い。


「船長」


 後ろから航海魔術師が呼んだ。


「風、落としますか?」


「ああ」


 老船長は望遠鏡から目を離さずに答えた。


「術も切れ。自然風だけで行け」


「まだ距離がありますが」


「だからだ」


 その一言で、魔術師は意図を理解した。帆の周囲にまとわりついていた風が、ゆっくりと弱まっていく。


 彼が使っていたのは、船乗りたちが《風走り》などと呼ぶ、ありふれた航海魔法だった。


 大気をゼロから大量に生み出すわけではない。帆の前後に小さな圧力差を作り、自然風を集めて流れを整えるだけの術だ。熟練した航海魔術師が二人いれば、良風のときなら大型帆船を一段速く走らせられるし、凪でもどうにか操船できる程度の風は得られる。


 ただし、魔力は食う。何日もそれだけで航海できるようなものではない。今日のような緊急の出港には、うってつけだった。


 風が自然なものへと戻っていく。白い船は、何の反応も示さなかった。


 ──いや。老船長には、それが分からなかっただけだった。


 ◇


「局所気圧異常、消失しました」


 巡視船「いわみ」のOICで、解析AIが報告した。神谷玲司が表示を拡大する。


「やっぱり、あの帆船の周囲だけです。環境風は東北東の六・二メートル毎秒。それに対して、さっきまで帆面付近では最大十二メートルを超えていました」


「突風では?」


 船長の三浦直哉が尋ねた。


「動きが帆と同期しすぎています。温度差もありません。しかも今、一瞬で消えました」


 高瀬千尋は椅子に座ったまま、手元の映像を眺めていた。


「向こうの人が、何かしたんでしょうねぇ」


「魔法ですか」


 神谷は半ば冗談のつもりで言ったが、誰も笑わなかった。


 転移からまだ数時間。だが「いわみ」が説明不能な現象を拾うのは、これが初めてではない。沿岸部、灯台、都市──そして人間らしき生物そのものからも、既知の物理学では分類できない微弱なエネルギー変動が、あまりにも頻繁に観測されている。


 三浦は短く息を吐いた。


「名称は、後で学者に決めてもらおう」


「現状では未知現象扱いですか?」


「それでいい」


「夢がないですねぇ」


「海保だからな」


 茶化す高瀬に、三浦はごく真面目な顔で答えた。神谷が呆れたように二人を見てから、報告を続ける。


「目標、速度低下。武器操作らしき動作なし。帆も一部縮帆しました」


「こちらも五ノットまで落とせ」


「了解」


「30ミリは?」


 高瀬が尋ねた。


「現状のまま。砲口は向けるな」


「了解です」


 艦首に据えられた30ミリ機関砲は、静かに正面を向いたままだった。射撃管制系そのものは生きており、必要なら数秒で応戦できる。だが、その必要がないことを、全員が願っていた。


「距離二千八百」


 神谷が告げた。


 大型表示には、木造帆船の姿が映っている。乗員は三十数名。数門の小型砲に、火器らしき長物と刀剣。そして、人間にしか見えない者たち。


「……人間ですね」


 誰かが呟いた。三浦はその言葉に返事をしなかった。


 まだ断定はできない。だが少なくとも、その姿はあまりにも自分たちに似ていた。


 ◇


「向こうも速度を落としました」


 書記が言った。


「どうして分かる?」


「波を見れば分かります」


「お前、船乗りだったか?」


「三年乗ってました」


「先に言え」


 老船長は笑った。


 巨大な白い船は、彼らが近づくにつれて速度を落としていた。逃げる様子もなければ、襲ってくる様子もない。


「旗は?」


「掲げています!」


 船尾にいた船員が答えた。


「見せろ」


 望遠鏡の中に、白地に赤い丸の旗が映る。


「……知らんな」


 その下には、もう一枚別の旗があった。青地に何かの印が描かれているが、王家の紋章でも、商会の旗でもない。


「書記」


「はい」


「知ってるか」


「知りません」


「B国の植民地旗とか」


「ありません」


「A国は?」


「少なくとも、公開されているものの中には」


「ならよし」


「何がよしなんです?」


「知らん国だと分かった」


「何も分かってませんよ」


「一つ分かったじゃねえか」


 満足げな老船長の横で、書記はため息をついた。


 その隣では、航海魔術師が小さな金属板を握っていた。板には細かな文字と幾何学模様が刻まれている。


「通信は?」


「灯台の中継までは届きません」


「当然か」


 リヴァーノ周辺の海では、主要な監視塔や灯台が通信魔法の中継点になっている。大型商船や軍船は小型の共鳴器を積んでおり、短い文章や定型符号なら数十海里先まで送ることができる。


 漁船の多くはもっと簡素で、「怪船発見」「救助要請」「魔物」「嵐」といった短い符号を沿岸の中継所へ投げる程度だ。今朝、異常の報告が驚くほど早く領主館まで届いたのも、そのおかげだった。


 だが、外洋へ出れば届く距離には限界がある。


「帰るまで報告できません」


「じゃあ、生きて帰ろう」


「最初からそのつもりでお願いします」


 ◇


 距離、八百メートル。


「人を甲板に出しますか」


 神谷の問いに、三浦は少し考えた。


「艦橋ウイングに三人。武器は持つな」


「警備上──」


「見える範囲には、だ」


 神谷は一瞬黙り、頷いた。


「了解」


 やがて白い船の側面、高い位置に人影が現れた。老船長の船で、一斉に声が上がる。


「人だ!」


「二本足です!」


「見りゃ分かる!」


「角は?」


「見えない!」


「耳は?」


「普通っぽい!」


 老船長は顔をしかめた。


「お前らは市場で珍獣でも見てるのか」


 そう言いながら、自分も望遠鏡を覗き込む。


 確かに人だった。服装は奇妙で、身体にぴったりとした濃い色の衣服の上に救命具らしきものを着け、帽子をかぶっている。顔立ちは遠くてよく分からないが、少なくとも海魔や亡霊には見えなかった。


「旗を出せ」


「どれを?」


「交渉旗だ」


 白と黄の縦二色旗が掲げられた。リヴァーノ沿岸で、海上で敵意がないことを示す古い慣習の旗だ。相手が知っている保証などない。それでも、何もしないよりはましだった。


 ◇


「旗信号」


 OICのAIが即座に反応した。


『既知旗章データベースに一致なし。ただし、直前の減速、武器抑制、乗員露出と組み合わせた場合、非敵対・交渉意思表示である確率は七八パーセント』


「七八か」


 神谷が呟いた。


「十分だろう」


 三浦は言った。


「こちらも応答する」


「国際信号旗は意味ないですよ」


「分かってる」


 日本側は白旗を掲げなかった。降伏と誤認される可能性があるからだ。


 代わりに、艦橋前面の大型情報表示面へ、単純な図像が映し出された。二隻の船と、その間を結ぶ線。武器を表す図形には斜線が引かれ、その下で二人の人物が向かい合って手を上げている。


 望遠鏡を覗いていた老船長が、固まった。


「……絵が出た」


「どこにです?」


「あの黒い板だ」


「魔術投影ですか?」


 書記の問いに、航海魔術師が首を振った。


「分かりません。少なくとも、術式は感じない」


 船長はしばらく、その絵を見つめていた。


「喧嘩する気はないってことか?」


「おそらく」


「よし」


 彼は船首へと歩き出した。


「俺も見えるところへ行く」


「船長!」


「それじゃ来た意味がないだろう」


 ◇


「前部甲板に人物一名」


 映像を確認した神谷が言った。


「例の海賊っぽい人ですね」


「まだ言ってるんですか」


 高瀬が笑う。


「どう見てもそうでしょう」


「向こうから見たら、私たちも相当怪しいですよ」


「こっちは公船です」


「向こうがそれを知るわけないでしょう?」


 三浦は艦橋ウイングへ出た。潮風が吹きつける。


 遠くの木造船、その船首に一人の男が立っていた。もう望遠機器を通さなくても、人がいると分かる距離だ。


 三浦は、武器を持っていないことを示すように、両手を見える位置へ上げた。


 老船長の動きが、一瞬止まる。


 やがて彼も、同じように両手を上げた。


「……通じたな」


 三浦が小さく言った。


 ◇


 最初の言葉は、ひどく単純なものだった。


 老船長が、自分の胸を指差して叫んだ。


「ガルディオ!」


 三浦には聞き取れなかった。だが、AIは聞き取っていた。


『発話:/gar.di.o/。状況上、固有名詞である可能性九一パーセント』


「名前か」


 三浦も自分を指差した。


「三浦。ミウラ」


「ミウラ!」


 老船長──ガルディオが眉を上げて繰り返した。発音は少し違ったが、三浦は頷き、次に自分の船体を指した。


「いわみ」


「イワミ?」


 三浦が頷くと、ガルディオも自分の船の舷を叩いた。


「セルカ!」


『固有名詞候補。船名である確率八四パーセント』


 AIが記録していく。一つ、また一つと、意味が生まれていった。


 ガルディオが書記を呼び寄せると、書記は自分を指して「ネリオ」と名乗り、航海魔術師を指して「ファルネ」と紹介した。三浦の側も、乗員たちの名前を示していく。


 人、船、海、空。数字、右と左、来る、止まる。互いに指を差し、絵を描き、声を出し合う。


 まるで子供の言葉遊びのようだった。だが双方とも、本気だった。


 ◇


「解析速度、上がってます」


 通信担当官が言った。


『語彙候補百七十二。統語構造候補六。代名詞体系の推定を開始』


「もう?」


 神谷が振り返る。


「物体と行動が、全部映像で対応してますからね。未知の言語としては条件がいいんです」


 担当官は画面に目を戻した。


「それに、向こうの魔術師らしい人が、何かやってます」


 ファルネは額に汗を浮かべていた。


 その指先には淡い光が宿っている。書記ネリオの発した言葉、日本人が発した言葉、双方の視線と、その先にある対象物──それらを一つずつ拾い上げては、翻訳術式へと組み込んでいく。


 未知の言語を相手にした翻訳魔法は、決して万能ではない。言葉の意味を神が教えてくれるわけでもなく、ある程度の対訳と文脈がなければ、術式は何も掴めないのだ。


「ミ……ウラ」


 ファルネが呟いた。


「人……名前……」


 光が揺れる。


「ニホン?」


 先ほどから何度も耳にした語だった。日本側の人間が、自分たちや旗を示すときに使っていた言葉だ。


「国か?」


 ネリオが尋ねた。


「たぶん」


「イワミは?」


「船」


「ミウラは?」


「人名」


 ガルディオが笑った。


「向こうの魔法も大したもんだな」


 ファルネが睨み返した。


「向こうは魔法を使ってません」


「じゃあ何だ」


「知りません!」


 ◇


 接触開始から四十七分。「いわみ」の翻訳AIが、最初の文章を組み立てた。


『推定現地語の生成が可能です。意味保持率は推定六三~七一パーセント。社会制度・抽象概念については、重大な誤訳の可能性があります』


「挨拶くらいなら?」


 三浦が聞いた。


『可能です』


「やってみよう」


 外部スピーカーから声が流れた瞬間、ガルディオたちは身構えた。白い船そのものが喋ったように聞こえたからだ。


『ワレワレ、ニホン、ノ、フネ』


 発音はおかしく、語順も少し妙だった。それでも、ネリオの目が見開かれた。


「分かる」


「何て言った?」


「……『我々、日本、船』」


 声は続く。


『ワレワレ、タタカイ、ノゾマナイ』


 ファルネの翻訳術式が震えた。


「敵意……いや……」


 彼は眉間に皺を寄せた。


「『我々は刃を欲しない』……そんな意味です」


 ガルディオは白い船を見上げ、笑った。そして、大声で返した。


「俺たちもだ!」


 当然、日本側にはそのままでは伝わらない。数秒の間があって、AIが訳を表示した。


『推定訳:我々も同様。戦闘否定。信頼度七六パーセント』


「上出来だ」


 三浦が言うと、艦橋のあちこちで小さく息を吐く音がした。


 人類が初めて異世界の文明と交わした、意味の通じる言葉。それは宣戦布告でも、神への祈りでもなかった。


 ──戦うつもりはない。


 ただ、それだけだった。


 ◇


 さらに三十分が過ぎたころ、日本側は次の提案を出した。


 大型表示に、三人の人物と小さな艇、そして「いわみ」が描かれ、その間を往復する矢印が示される。翻訳AIが、ぎこちない現地語を添えた。


『三人。こちらの船へ来る。見る。話す。その後、あなたの船へ戻る。よいか?』


 ガルディオの船に、沈黙が落ちた。


「駄目です」


 ネリオが即答した。


「まだ何も言ってねえ」


「顔で分かります」


「俺とお前とファルネだ」


「ほら!」


「ちょうど三人じゃねえか」


「何がちょうどなんですか!」


 ファルネも青ざめている。


「船長、相手が何なのかまだ──」


「だから見に行くんだ」


「殺されたら?」


「そのときは、俺の人を見る目がなかったってことだ」


「軽すぎません?」


 ガルディオは白い巨船を眺めた。


 一時間以上も自分たちをすぐ近くに置きながら、一度も武器を向けなかった船。自分たちの言葉を、懸命に学ぼうとしている者たち。


「それにな」


 彼は静かに言った。


「帰って、領主閣下に何て報告する?」


 誰も答えなかった。


「『白くてでかい船でした』か?」


 ガルディオは鼻で笑った。


「それじゃ、酒場の酔っ払いと変わらん」


 ◇


 やがて、「いわみ」の側面が開いた。


 それだけで、ガルディオたちはまた驚かされた。船腹そのものが滑るように動き、その奥から小さな艇が姿を現したのである。


「……帆がない」


 ネリオが呟いた。


「小舟までか」


 艇が海面へ降ろされ、数人の日本人が乗り込む。次の瞬間、水が白く弾け、小艇は信じられない速さでこちらへ走り出した。


「速っ……」


 ファルネの口から、魔術師らしくもない声が漏れた。ただ一人、ガルディオだけが笑っていた。


「面白くなってきた」


 小艇は《セルカ》の横で鮮やかに減速した。乗っている日本人の一人が手を上げる。顔には透明な覆いをつけ、服装も奇妙だったが、武器を構えてはいない。


 ガルディオが縄梯子へ足をかけた。


「船長!」


 副船長の呼ぶ声に、彼は振り返った。


「俺が戻らなかったら」


「はい」


「領主閣下に伝えろ」


 そこで少し考え込む。


「……いや、やっぱりいい」


「何をです?」


「縁起が悪い」


 そう言って笑うと、ガルディオは異世界の小艇へと乗り移った。


 ◇


 数分後、ガルディオは白い船を真下から見上げていた。近くで見ると、さらに巨大だった。


「城壁ですね」


 ネリオが小声で言った。


「城壁は泳がん」


「分かってます」


 日本人の船員が、乗り移る場所を示した。金属製の階段に手すり。見たこともない材質で、どこもかしこも驚くほど清潔だった。


 ガルディオが最初に甲板へ上がった。


 その瞬間、彼は人生で初めて、日本という国の地面を踏んだ。──正確には、海上保安庁巡視船の甲板だったが。


 数メートル先に、一人の男が立っていた。


 背が高い。ガルディオも決して小柄ではないが、相手はさらに大きかった。先ほど名を交わした男だ。


「ミウラ」


 ガルディオが呼ぶと、三浦は頷いた。


「ガルディオ」


 今度は、ほぼ正しい発音だった。ガルディオの眉が上がる。


「もう上手くなったな」


 数秒遅れて、翻訳機がぎこちなく日本語へ直した。


『あなた、すでに言葉、良くなる』


 三浦は少し笑った。


「機械が頑張ってるんです」


『道具が、努力しています』


 訳を聞いたガルディオは、意味が分からないという顔をした。当然だった。三浦もそれ以上は説明しなかった。


 代わりに、三浦は一歩だけ前へ出た。ガルディオも手を伸ばしかける。


 そこで、日本人の一人がわずかに動いた。検疫の観点から、まだ直接の接触は避けたい──三浦はそれを察し、胸に手を当てて軽く頭を下げた。


 ガルディオは一瞬考え、それから同じように頭を下げた。


 後世に描かれた多くの絵画では、このとき二人は握手を交わしたことになっている。だが実際には、最初の挨拶で二人の手は触れていない。


 それでも、十分だった。


 続いてネリオとファルネも甲板へ上がってきた。周囲を見回したファルネの顔色が、みるみる変わっていく。


「……魔力がない」


「何?」


「この船です」


 彼は声を潜めた。


「こんなものが動いているのに……ほとんど魔術式を感じないんです」


 ガルディオは、白い甲板を靴先で軽く叩いた。


「それなら」


 そして、目の前の日本人たちを見た。


「別の方法で動かしてるんだろ」


 ◇


 簡易応接区画へ向かう途中、ガルディオは何度も立ち止まりそうになった。


 壁から光が出ているのに、火がない。窓は透明で、しかも薄い。扉は人が触れる前に開き、空気は妙に涼しい。海の上なのだから揺れているはずなのに、床には船の振動がほとんど伝わってこない。


 すれ違う乗員たちの服は統一されていた。奴隷らしき者は見当たらず、船員の中には女もいる。そして──。


「獣人はいないんですね」


 ネリオが小声で言った。


「エルフもな。今のところは」


 ガルディオが答えた。


 日本側のAIはその会話まで拾っていたが、「獣人」と「エルフ」に対応する意味をまだ確定できず、翻訳を保留した。


 やがて一行は、小さな部屋へ通された。テーブルと椅子、そして壁面表示があるだけの部屋だ。三浦に座るよう促され、ガルディオは腰を下ろした。


 数秒の沈黙が流れた。互いに、何から聞くべきか分からなかったのだ。


 結局、最初に質問したのはガルディオだった。


「ニホン」


 彼は自分たちが来た西を指し、次に東を示した。


「どこ?」


 翻訳AIが意味を組み立てる。


『質問推定:日本はどこにあるのか。出身地の位置を要求』


 三浦は黙り込んだ。神谷が横目で船長を見る。高瀬も、笑っていなかった。


 簡単な質問だった。だが、その答えは少しも簡単ではなかった。


 三浦は、ゆっくりと口を開いた。


「分かりません」


『我々は、知らない』


 AIの訳を聞いて、ガルディオが眉をひそめた。もう一度、東を指す。


「国。そこ?」


 三浦は首を振った。


「昨日までは、ここではない場所にありました」


 翻訳AIの動作が止まった。


『抽象概念の翻訳信頼度が低下しています。再構成します』


 数秒後、訳が流れた。


『昨日まで。我々の国は、この世界の、この場所には存在しなかった』


 沈黙が落ちた。


 ネリオは口を開いたまま固まり、ファルネは三浦をじっと見つめている。ガルディオだけが、しばらく何も言わなかった。


 やがて彼は、椅子の背へ深く身体を預けた。


「なるほど」


『理解した』


 ネリオが思わず振り向いた。


「船長、理解したんですか?」


「いいや」


 ガルディオは、白い天井を見上げた。


「何も分からん」


 そして、心底楽しそうに笑った。


「だが、こいつは領主閣下が喜ぶぞ」


 その言葉を、翻訳AIはまだ正しく訳すことができなかった。

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