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第2話:東の海に帆はなく


 その朝、リヴァーノの海は穏やかだった。


 初夏の夜明け。東の水平線は薄い桃色から金色へと移ろいつつあり、湾内にはまだ朝靄が残っている。


 石造りの岸壁では夜明け前から魚市場の準備が始まり、運河では荷船が低い音を立てながら進んでいた。海沿いに並ぶ倉庫の向こうでは、踏車式の木造クレーンが巨大な腕を空へ突き出している。


 岬の魔法灯台は、夜の役目を終えようとしていた。淡く青白い灯火が消えるまで、あとわずかだった。


 午前五時三十分。世界が変わった。


 だが、リヴァーノでは誰一人としてそれに気づかなかった。


 海は波打ち続け、鳥は鳴き、運河の水もいつもと変わらず流れていた。地震も轟音も、空を裂く光もなかった。


 東の海のはるか彼方に、昨日まで存在しなかった八千万人の国家が出現したことなど、誰に分かるはずもなかった。


 ◇


「網、上げろ!」


 リヴァーノから東へ二十数海里の沖合。十五人乗りの漁船《星鱗号》では、早朝から漁が続いていた。


 全長二十メートルにも満たない一檣帆船である。船体は太い木材で頑丈に組まれ、船尾には魔力を込めた小さな風向計が取り付けられている。


 漁師のニコロは、濡れた網を引き上げながら悪態をついた。


「重てぇぞ。昨日より入ってる!」


「口より手を動かせ!」


「動かしてるだろ!」


 網の中では、銀色の魚が跳ねていた。悪くない朝だった。


 船長は空を見上げ、風を読む。


「あと二回だ。それで帰る」


「もう?」


「昼には風が変わる」


 誰も反対しなかった。この海域で三十年漁を続けてきた男の判断である。


 少し離れたところでは、別の漁船が二隻、同じように網を引いていた。海鳥が旋回し、風も波もいつも通りだった。


 だから、最初にそれを見つけた少年も、初めは船だとは思わなかった。


「……何だ、あれ」


「どうした?」


「東です」


 十六になったばかりの見習いが、目を細めた。


「東に何かいる」


 ニコロが振り返る。朝日に照らされた海と水平線が広がっているだけだ。


「何も──」


 言いかけて、言葉が止まった。


 水平線に、小さな黒い点があった。鳥ではない。雲でもない。


「船か?」


「帆が見えねえ」


 誰かが笑った。


「じゃあ岩だ」


「こんなところに岩なんかあるか」


 船長が望遠鏡を取り出した。古びてはいるが、ヴァルカッサ製の上等な品だ。しばらく無言で覗き込んだ後、彼は低く言った。


「……船だ」


「帆は?」


「ない」


 今度は誰も笑わなかった。


「帆なしでどうやって動く?」


「知らん」


「櫂は?」


「見えん」


「魔導船か?」


 その言葉に、何人かが顔をしかめた。


 魔法を補助動力に使う船なら存在する。だがそれは、普通の帆船に魔法使いが乗っているという意味であって、帆も櫂もなしに外洋を走る船など、彼らは聞いたこともなかった。


「ベルカディアの新型じゃないか?」


「だったら旗くらい分かるだろ」


 船長は答えなかった。


 黒い点は、ゆっくりとではあるが大きくなっていた。こちらへ向かっているのではない。北西へ横切っているだけだ。それなのに、速い。


「……あれ」


 見習いが言った。


「煙、出してないですよね」


 船長が望遠鏡を下ろした。


「帰るぞ」


「え?」


「網を切れ」


「船長! これだけ獲れて──」


「切れ!」


 声色が変わっていた。船員たちは黙って従い、まだ海中に残っていた網を切り離した。


「西へ向けろ。全帆!」


「いったい何なんです?」


 船長は一度だけ東を振り返った。


「分からんから帰るんだ」


 ◇


 午前六時四十分。《星鱗号》より南の海では、別の船がまた異なるものを見ていた。


 リヴァーノと南方の港町を往来する沿岸商船《銀梟号》である。積載量は百二十トン。干し魚、染料、陶器、果実酒を積み、船員二十八名と商人四名を乗せていた。


 船長室で帳簿に目を通していた船主のロベルタは、甲板から響いた呼び声に眉をひそめた。


「奥方!」


「その呼び方はやめろと言っているでしょう!」


「なら船主殿! 東に妙な船が!」


「また?」


「またって?」


 ロベルタは立ち上がった。


「さっき北の漁船が信号を送ってきたのよ。『東に怪船あり』って」


 甲板へ出ると、船員が東を指差していた。


 それは漁師たちが見たものとは違った。白い──いや、白というより、光を照り返す灰色の船だ。そして、大きい。


「望遠鏡を」


 差し出された筒を受け取って覗き込み、ロベルタはしばらく黙った。


「……何これ」


 商人として四十年以上、海を渡ってきた。ヴァルカッサの四百トン積み商船も見たし、ベルカディアの大型交易船も、ヴァルガニアの重武装艦も知っている。だが、それらのどれにも似ていなかった。


 船体の側面には、窓らしきものが規則正しく並んでいる。帆柱も帆もない。船首の形も異様で、滑らかな船体には継ぎ目がほとんど見えなかった。


「鉄……?」


「鉄で船なんか作ったら沈むでしょう」


「じゃあ何だ」


「私が聞きたいわよ」


 誰かが小さく祈りの言葉を唱えた。


「古代人の船じゃないでしょうね」


「三千万年前の遺跡から船が出てきたなんて話、聞いたことがないわ」


「なら魔物とか」


「魔物があんなに真っ直ぐ走るものですか」


 そのとき、船体の後方で光が瞬いた。船員たちが身構えたが、何も起きなかった。


 やがて巨大船は、こちらなど存在していないかのように遠ざかっていった。


「速い……」


 副船長が呟いた。


 帆船なら、風を見ればおおよその速度は分かる。だがあの船は風向きに逆らい、しかも帆走船では考えられない速さで進んでいた。


 ロベルタは望遠鏡を下ろした。


「リヴァーノへ戻るわよ」


「積荷は?」


「商売は明日でもできる」


「でも──」


「こんな話が酒場の噂になる前に、港務所へ持っていくの」


 ロベルタはもう一度、東の水平線を見やった。


「私たちだけが見たんじゃないなら、なおさらよ」


 ◇


 午前八時。リヴァーノ港務所は、いつもの朝とはまるで違う場所になっていた。


「だから船なんです!」


「帆のない船だと?」


「そう言ってるでしょう!」


「大きさは?」


「分かりません!」


「旗は?」


「見えなかった!」


「どこの国だ」


「だから知らないって言ってるじゃないですか!」


 漁師が怒鳴っている。別の机では、商船の副船長が絵を描いていた。


「船首はもっとこう……滑らかで」


「こんな形か?」


「違う。もっと尖ってない」


「ではこう?」


「違う!」


 港務官は頭を抱えていた。


 普段なら「海で怪物を見た」という報告など、半分は酒か霧のせいである。だが、今日は違った。


 すでに六隻。互いに別の海域にいた漁船や商船が、同じ方向で未知の船を目撃している。しかも証言の細部が一致していた。帆がない。煙がない。巨大で、異常に速い。船体は木ではないように見える。そして、いずれも東から現れた。


「東、か」


 港務官は呟き、壁の海図に目をやった。


 リヴァーノより東には、遠洋漁場といくつかの小島が描かれているだけで、その向こうは延々と続く大海だ。何も描かれていない。


「……ベルカディアではありませんね」


 部下が言った。


「分かっている」


「ヴァルガニアの秘密船では?」


「ヴァルガニアにこれが作れるなら、我々はとうに属国になっている」


「では、セルヴァーニュ王国?」


「馬鹿を言うな」


 そこへ新たな報告が飛び込んできた。


「灯台監視所からです!」


「今度は何だ」


「沖合に……光があります」


「朝だぞ」


「そういう意味ではありません」


 港務官が顔を上げた。


「海の上を高速で移動する光点です。監視魔法でも確認したとのことです」


 室内が静まり返った。


「数は?」


「複数です」


 港務官は椅子に深く腰を沈めた。


「領主館へ急使を」


「もう送っています」


「もう?」


「商船から三隻目の報告が来た時点で」


「……よくやった」


 ◇


 午前八時半。リヴァーノ領主は、朝食の途中だった。


 焼きたての平焼きパン、山羊乳のチーズ、果実、魚の塩漬け。卓に並んだ料理をよそに、彼は報告書を読みながら、食事の手を完全に止めていた。


「面白い」


 向かいに座っていた娘が、静かに目を閉じた。


「お父様」


「いや、これは面白いだろう」


「『危険かもしれない』が先では?」


「危険なものほど面白い場合もある」


「それを人は無謀と呼びます」


 脇に控えていた騎士が咳払いをした。幼くして孤児となった彼を領主が拾い上げ、教育を施し、やがて戦功によって騎士に叙された男である。


「閣下。御令嬢のおっしゃる通りです」


「君までか」


「私は閣下に長生きしていただきたいので」


 領主は報告書に目を戻した。


「目撃したのは?」


「現時点で九隻。漁船が六、商船が三です」


「全員が嘘をついている可能性は?」


「極めて低いでしょう」


「幻覚魔法は」


「それにしては海域が広すぎます」


「巨大な魔物」


「複数の船員が、船体上の構造物や窓らしきものを確認しています」


 領主の顔から笑みが消えた。代わりに、子供のような真剣さが浮かぶ。


「東に文明がある」


「まだ断定はできません」


 娘が言った。


「ならば、文明がある可能性が出てきた」


「それなら否定しません」


「しかも、我々の知らない造船技術を持っている」


 領主は立ち上がった。


「港へ行こう」


「なりません」


 即答だった。


「まだ何も言っていないぞ」


「港へ行くとおっしゃいました」


「状況を直接確認するだけだ」


「港務官から報告を受ければ済みます」


「望遠鏡で見たい」


「監視塔に登るおつもりですか?」


「いい考えだ」


「閣下」


 忠臣の声が一段低くなり、領主は諦めたように椅子へ戻った。


「分かった。では、誰かを確認に出そう」


「海軍へ知らせます」


「返事を待っていたら半日かかる」


「では沿岸警備隊を──」


「ああ」


 領主が指を鳴らした。


「彼がいるじゃないか」


 忠臣の顔が、露骨に嫌そうに歪んだ。


「まさか」


「彼なら、東の海を誰よりも知っている」


「海を知っていることと、命令に従うことは別問題です」


「でも、ちゃんと帰ってくる」


「毎回、奇跡的に」


 娘が首を傾げた。


「誰の話です?」


 領主は笑った。


「君も知っているだろう。港で一番、海賊に見える男だよ」


 ◇


 その男は、ちょうど酒場で朝酒をあおっていた。


「俺は休みなんだが」


 使者から命令書を受け取るなり、彼はそう言った。


 五十代後半。潮風に焼けた顔に、頬から首へと走る古傷と無精髭。片耳には金属の飾りが揺れ、腰には湾曲刀を下げている。そのうえ、朝から酒だ。


 どこからどう見ても、海賊だった。


「領主閣下からの正式な命令です」


「読めるよ」


「ならば」


「せっかちな御方だ」


 男は杯を空にした。


「怪船ねえ」


「すでに十隻以上が目撃しています」


「沈められた船は?」


「今のところありません」


「追われた船は」


「ありません」


「撃たれたってのは?」


「ありません」


「じゃあ、向こうもこっちを見てるだけじゃねえか」


 使者が眉をひそめる。


「だからといって、安全とは限りません」


「分かってるよ」


 男が立ち上がった。その瞬間だけ、酔っぱらいの気配がすっと消えた。


「船を出す。港務所の書記を一人つけてくれ。外国語ができる奴だ。それと航海魔術師を二人」


「護衛兵を──」


「いらん」


「しかし」


「兵隊を百人積んだところで、帆なしで海を走る化け物船に勝てるのか?」


 使者は黙り込んだ。


「俺の船員で十分だ」


 戸口へ向かう男の背に、使者が問いかける。


「砲は?」


「積んである」


「使用許可は?」


「使わねえよ」


 男は振り返った。


「向こうが先に撃つまではな」


 ◇


 午前九時十五分。武装帆船はリヴァーノを出港した。


 乗員三十六名。小型砲六門に、火縄銃、弩、刀剣。それに航海魔術師が二名と、書記が一名。


 港の岸壁では、大勢の住民が見送っていた。


「本当に出たぞ」


「帰ってくると思う?」


「あの爺なら地獄からでも戻ってくるさ」


「海賊船と間違われないか?」


「……ありそうだな」


 帆が風をはらみ、船は東へ──未知の海へと向かった。


 船長は船首に立ち、潮風を顔に受けていた。


「船長」


 航海魔術師が声をかけた。


「何だ」


「東の魔力場がおかしいです」


「どうおかしい?」


「分かりません」


「役に立たんな」


「そういう問題ではなくてですね」


 魔術師は不機嫌そうに杖を握り直し、自分でも言葉を探すように続けた。


「何か……広いんです」


「海は広いだろ」


「海じゃありません。昨日までなかった何かが、あそこにあるんです」


 船長は東を見た。肉眼では、まだ水平線しか見えない。


「そりゃちょうどいい」


「何がです?」


「見に行く理由が一つ増えた」


 ◇


 一時間もしないうちに、見張りが叫んだ。


「東前方! 船影!」


 船長は望遠鏡を構え、そのまましばらく黙り込んだ。


「……ほう」


 見えた。今度は噂ではない。


 白い船体に、異様に高い構造物。帆柱はなく、煙も上がっていない。明らかに木造ではなく、自分の船とは比較にならないほど大きい。船腹には、見たこともない文字が記されていた。


「ベルカディアの船じゃありませんね」


 書記が呟いた。


「当たり前だ」


「ヴァルガニアでもない」


「見れば分かる」


「では、古代文明の……?」


「三千万年も海に浮かんでたんなら、大したもんだ」


 甲板の船員たちは、声を潜めて言葉を交わしていた。


「……動いてないぞ」


「帆もないのに?」


「いや、止まってるんだ」


「錨は?」


「ここからじゃ見えん」


「船長、どうします?」


 船長は望遠鏡越しに、相手の船を観察し続けていた。そのとき、巨大船の上で何かが動いた。


 人影だ。


「いるな」


「何がです?」


「人だ」


 甲板にざわめきが広がる。船長は望遠鏡を下ろした。


「帆を少し落とせ」


「接近するんですか?」


「そのために来たんだ」


「砲手!」


 若い船員が叫んだ。


「火を──」


「入れるな」


 船長の声は静かだった。だが、誰も逆らわなかった。


「船長?」


「弓も銃も下げろ」


「ですが、もし敵なら──」


「あれが敵なら、だ」


 老船長は、巨大な白い船を顎で示した。


「あの距離まで俺たちを近づけさせてる時点で、向こうには別の考えがある」


「どうして分かるんです?」


「勘だよ」


「勘……」


「五十年も海で生きてりゃ、勘ってのは経験の別名になるのさ」


 男は笑い、もう一度望遠鏡を構えた。


「それにな。あいつらが俺たちを沈めたけりゃ、とっくに沈んでる」


 未知の船もまた、こちらを見ている。その事実だけは、彼にも分かった。


 互いに武装し、互いに相手を知らず──そして互いに、まだ撃っていない。


 老船長は、少しだけ口角を上げた。


「さて」


 東の海には何もない。それが昨日までの常識だった。


「どこの海から来たんだ、お前ら」


 その問いへの答えが、自分の想像より遥かに奇妙なものだとは、彼はまだ知る由もなかった。


 やがて望遠鏡の中で、白い船体に刻まれた文字が少しずつ鮮明になっていく。彼には読めない。けれど、その船には確かに名前があった。


 ──「いわみ」。


 日本国海上保安庁の巡視船。それは、ヴァレシア王国が初めて出会う「日本」そのものだった。

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