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第18話:持ち帰ったもの


 王女アレシナが、王都ヴァレシアスへ戻った日の午後。


 王宮の正門をくぐった馬車には、宝石も、珍しい香辛料も、外国の金貨も積まれていなかった。


 代わりに積まれていたのは、木箱が六つ、革の鞄が十一、封印された書類箱が三つ。そして、護衛の一人が妙に大事そうに抱えている、細長い包みが一つ。


「それは、何?」


 馬車を降りながら、アレシナが尋ねた。


「日本側からいただいた、筆記具です」


「まだ持っていたの?」


「はい」


「使えばいいでしょう」


「もったいないので」


「そういう扱いをするものではないと思うけれど」


 護衛は、納得していない顔をした。アレシナは諦めた。


 ◇


 王宮の階段を上っていく。


 懐かしい、とアレシナは思った。それほど長く離れていたわけではない。それなのに、なぜか妙に古びて見えた。


 石の壁、油を使わない魔法灯、衛兵、伝令、紙束を抱えた書記官たち。どれも、ヴァレシアでは最高水準のものだ。アレシナ自身、出発する前までは、何の疑問も持っていなかった。


 今も、それらに価値がないとは思わない。ただ、比べる相手を知ってしまったのだ。


「嫌ね」


 アレシナは、小さく呟いた。


「何がです?」


 同行していた王室外交官が聞いた。


「見方が変わってしまう、ということが」


「日本を見たからですか?」


「ええ」


「王都が、貧しく見えますか」


 アレシナは、少し考えた。


「違うわ」


「では」


「できないことが、前よりもよく見えるの」


 外交官は黙り込み、それから少しだけ笑った。


「それは、良いことなのでは?」


「たぶんね」


 ◇


 国王アルヴェリオ三世は、娘を抱きしめはしなかった。ヴァレシアの王室では、公の場でそういうことはしないのだ。


 ただ、会議室に入ってきたアレシナを見ると、真っ先にこう尋ねた。


「無事か」


「はい」


「怪我は」


「ありません」


「病気は」


「ありません」


「日本人に、連れ去られそうになったりはしなかったか」


「なっていません」


「リヴァーノ辺境伯に、何か余計なことをさせられなかったか」


「たくさん」


「やはりか」


 王妃エレヴィナが、横から夫を見た。


「最後の質問だけ、種類が違いません?」


「重要なことだ」


「あとで、ご本人に伝えておきますね」


「やめろ」


 アレシナは、久しぶりに肩の力を抜いた。


 部屋には、王太子ルヴェリオ、第二王子セルディオ、宰相、財務官、軍務長官、王室外交官、宮廷魔術師長、高位聖職者がそろっていた。日本について初めて議論したときの顔ぶれの多くが、また同じ部屋に集まっていたのだ。


 ただし、机の上に置かれているものが違う。あのときは、噂だった。今日は、文書がある。


 ◇


 アレシナは、二つの正文のうち、ヴァレシア側が保管する一通を机の上に置いた。


 封印と署名。王冠を代表する国王特使、アレシナ・ヴァレシア。日本国政府特別代表、榊真綾。


 宰相が、慎重にその紙に手を触れた。


「これが」


「はい」


「日本と我が国が、初めて交わした政府間の文書」


「そうなります」


 セルディオが、横から覗き込んだ。


「日本語の方は?」


「参考の対訳があるわ」


「見せて」


「あとでね」


「なぜ」


「どうせ読めないでしょう」


「文字を見るだけでも──」


「会議の後で」


 アルヴェリオが、机を軽く叩いた。


「セルディオ」


「はい」


「今日は、宇宙の話はするな」


「まだ何も言っていません」


「顔に書いてある」


「不公平です」


 ◇


 宰相が、文書の概要を読み上げた。


 相互の平和的な意思。統治権と領域の尊重。使節の安全。海難救助。検疫。許可のない軍事進入を行わないこと。交易と技術移転については、今後協議すること。そして、恒久的な外交関係に向けて、協議を続けること。


 読み終えると、静寂が落ちた。


 最初に口を開いたのは、ルヴェリオだった。


「つまり」


「はい」


 アレシナが答えた。


「まだ、同盟ではありません」


「それは分かる」


「通商条約でもありません」


「分かっている」


「正式な国交でも」


「それも分かっている」


 兄は、少し苛立った。


「では、何を得てきたのだ?」


「時間です」


 アレシナは答えた。ルヴェリオが眉を寄せる。


「時間?」


「互いに、いきなり敵にならずに済む時間です」


 部屋が静まり返った。


「それから」


 アレシナは続けた。


「次も話し合える、という権利」


 アルヴェリオが、小さく頷いた。


「十分だ」


「父上」


 ルヴェリオが、父を見た。


「最初の文書としてはな」


「しかし、相手は──」


「八千三百万」


「それだけではありません」


「分かっている」


 王は、文書に視線を落とした。


「だからこそ、いきなり軍事同盟などを結ばれても困るのだ」


 ◇


「それで」


 アルヴェリオが、娘を見た。


「見てきたか」


 アレシナは一瞬、その意味を考えた。


 出発の前に、父に言われたことだ。日本が何者なのかを見ること。友人になれるのなら、その条件を知ること。敵になる可能性があるのなら、その兆しを見逃さないこと。


 ──利用できるかどうかではなく、共に生きられる相手かどうかを、見てこい。


「見てきました」


「答えは」


「まだ、分かりません」


 軍務長官が、少し意外そうな顔をした。セルディオは、もっと露骨だった。


「そこまで行って?」


「そこまで行ったからよ」


「どういう意味?」


「分からないことが、増えたの」


 アルヴェリオが笑った。


「良い答えだ」


「褒められるとは思いませんでした」


「何もかも分かった、と言われる方が怖い」


 ◇


 アレシナは、一つずつ話していった。


 日本政府の代表、榊真綾のこと。七十一歳で、かつては皇族だった女性。だが今は、一人の外交官として、王女の前に座っていたこと。


「七十一?」


 王妃が聞き返した。


「はい」


「本当に?」


「ご本人がそうおっしゃっていました」


「見た目は?」


「五十前後にしか見えません」


 アルヴェリオが、無意識に自分の左脚を撫でた。エレヴィナはそれに気づいたが、何も言わなかった。


 ◇


「日本は」


 アレシナは続けた。


「我々を、対等な国として扱うと明言しました」


 王室外交官の何人かが、顔を上げた。


「人口の差を承知の上で?」


「はい」


「国力の差も?」


「はい」


「土地の要求は」


「現時点では、ありません」


「港湾の使用権は」


「要求なし」


「軍事基地は」


「要求なし。ただし、将来の可能性について、絶対に否定することはしませんでした」


「そこだ」


 ルヴェリオが反応した。


「兄上」


「将来は、要求してくる可能性がある」


「可能性を否定しなかった、というだけです」


「同じことだ」


「違います」


「何が違う」


「“絶対に要求しない”と今この場で約束されるよりも、その方が私は信用できます」


 ルヴェリオは黙り込んだ。


「日本側は」


 アレシナは言った。


「必要になれば、提案はするかもしれない。しかし、我々の同意なく占有することはない、と言いました」


「言葉だけなら、何とでも言える」


 軍務長官が言った。


「その通りです」


 アレシナは、あっさりと認めた。


「だから、文書にしたのです」


 少しだけ、空気が変わった。アルヴェリオが、娘を見る。


「その榊という女を、信用するか」


「個人として、ですか?」


「そうだ」


「かなり」


「では、日本政府は」


 アレシナは、少し長く考えた。


「信用したいと思っています」


「その違いは」


「政府は、人ではありませんから」


 王の口元が、少し上がった。


「続けろ」


「人は誠実でも、国の事情は変わります。政権も変われば、利益も変わる」


「日本人に教わったのか?」


「父上に、です」


「そうだったか」


「お忘れですか?」


「最近、物忘れがな」


「平均寿命百歳の国と付き合うには、困りますね」


 エレヴィナが笑った。


 ◇


 次は、軍事の話だった。


 ここでは、報告できることが少なかった。日本側が、詳細を明かしていないからだ。ただ、一つだけ言えることがあった。


「『いわみ』は、やはり軍艦ではありません」


 アレシナが言うと、軍務長官の顔が曇った。


「何度聞いても、嫌な話だ」


「海の上の治安維持、救難、法の執行を担当する組織の船だそうです」


「それに、砲が付いている」


「付いています」


「軍艦は?」


「見ていません」


「見せてもらえなかったのか?」


「こちらからは、求めませんでした」


 ルヴェリオが、アレシナを見た。


「なぜだ」


「何のために?」


「相手の戦力を知るためだ」


「初めて正式に会った国に、“軍艦を見せろ”と?」


「……」


「兄上なら、そう言いますか?」


 ルヴェリオは、口を閉ざした。


「私は、宇宙船を見せてほしい」


 セルディオが小声で言った。


「あなたは黙っていて」


 ◇


 財務官が、別の資料を開いた。


「経済については、いかがでしたか」


「日本側も、自国の状況を再計算している最中です」


「再計算?」


「この世界に来たことで、外国との交易を、ほぼすべて失ったそうです」


 財務官が止まった。


「ほぼ、すべて?」


「はい」


「それは」


 財務官は、少し考えた。


「国家的な破局なのでは?」


「普通なら、そうでしょう」


「日本は違うと?」


「食料も資源も、無限ではないそうです」


「当然でしょう」


「ただ」


 アレシナは、日本側から説明された範囲で話した。


「食べ方を変えれば、自国民を養い続けることは、おそらくできる、と」


 財務官の眉が上がった。


「八千三百万人を?」


「はい」


 部屋が、少しだけ静かになった。


 アルヴェリオは、最初の報告を読んだとき、武器よりも先にそこを見ていた。


「やはりな」


 王が呟いた。


「何がです?」


「国家として、強い」


 ◇


「しかし」


 財務官が言った。


「それなら、日本が我々から買うものなど、あるのですか」


「あります」


「何を」


「食料です」


「……食料?」


「それに、嗜好品、木材、鉱石、薬草、魔法に関係する品物。その他は、まだ調査中です」


「食料を」


 財務官は、もう一度繰り返した。


「日本が?」


「日本人も、食事をしますから」


「それは分かります」


「では」


「そういう意味ではなく」


 財務官は、額を押さえた。


「八千三百万人を養える国が、我々の小麦や魚を買うと?」


「買う可能性がある、ということです」


「なぜです」


「自国で作れることと、外国から買いたくないこととは、別のことだそうです」


「なるほどね」


 王妃が言った。


「お分かりになるのですか?」


「自分で縫えるからといって、服を全部自分で縫いたいと思う?」


 財務官は黙り込んだ。


「……非常に、分かりやすいです」


 ◇


 だが、日本からの輸出の話になると、空気が変わった。


「日本からは、何を売ってもらえる?」


 アルヴェリオが尋ねた。


「決まっていません」


「なぜだ」


「売れるものが、多すぎるからです」


「多すぎる?」


 財務官が顔を上げた。


「そして」


 アレシナは言った。


「売ってはいけないものも、多いのです」


「武器か」


 ルヴェリオが言った。


「軍事技術は、原則として提供しない、と」


 王太子の表情が、露骨に険しくなった。


「一切か?」


「少なくとも、現段階では」


「我々がヴァルガニアから圧力を受けていると、知っていてもか?」


「知っています」


「それでもか?」


「はい」


 沈黙が落ちた。ルヴェリオは、椅子に深く座り込んだ。


「都合のいい友人だ」


「兄上」


「事実だろう」


「日本は、まだ友人ですらありません」


 アレシナは、静かに返した。


「友人になれるかどうかを、話し合っている途中なのです」


「だからこそ──」


「それに」


 アレシナは、兄を見つめた。


「ヴァレシアは、日本の武器をもらわなければ自分を守れない国になるのですか?」


 それは、かなり強い言葉だった。ルヴェリオの目が細くなる。軍務長官も黙り込んだ。


「私が」


 アレシナは続けた。


「日本を見て一番怖かったのは、軍艦ではありません」


「では、何だ」


「頼りたくなってしまうことです」


 ◇


 誰も、すぐには答えなかった。


「道路を作ってほしい。病気を治してほしい。作物を増やしてほしい。兵器をくれ。学校を作ってくれ。ヴァルガニアから守ってくれ」


 アレシナは、一つずつ指を折っていった。


「たぶん、頼めばできることが、いくつもあるのでしょう」


「それは、悪いことか」


 アルヴェリオが聞いた。


「全部が悪いとは、思いません」


「なら」


「でも」


 アレシナは、一度、息を吐いた。


「それを全部日本にやってもらった後で、ヴァレシアには、いったい何が残るのでしょうか」


 ◇


 国王は、しばらく答えなかった。王太子も、宰相も、財務官も。誰一人として、軽く扱える問いではなかった。


 最初に口を開いたのは、王妃エレヴィナだった。


「それを、ずっと考えながら帰ってきたの?」


「ずっと」


「日本人に、そう言われたの?」


「いいえ」


「なら」


 王妃は、微笑んだ。


「行かせて、よかったわね」


 アルヴェリオが、娘を見た。


「私も、そう思う」


 ◇


「逆の面も、あります」


 宮廷魔術師長が言った。


「逆?」


「日本側は魔法について、我々よりはるかに無知です」


「そうです!」


 セルディオが、ようやく自分の出番を見つけたという顔をした。


「お前は黙っていろと言ったはずだ」


「魔法は、宇宙ではありません」


「屁理屈を覚えるな」


 魔術師長が、少し咳払いをした。


「日本人自身にも、魔法に似た現象が発現し始めているのでしたな」


「はい」


 アレシナが頷いた。


「ならば」


 魔術師長は、慎重に言葉を選んだ。


「日本にとって我々は、単に貧しく遅れた国ではないのかもしれません」


「向こうも、同じことを言っていました」


「何と?」


「魔法については、自分たちが学ぶ側だ、と」


 魔術師長は、少し嬉しそうな、それでいて警戒するような顔になった。


「そうですか」


「嬉しいですか?」


「少し」


「怖いですか?」


「かなり」


「なぜです?」


「学ぶのが、速そうですから」


 アレシナは笑った。


「同感です」


 ◇


 会議は、夕刻まで続いた。


 外交、交易、魔法、宗教、検疫、海路、日本人の入国、ヴァレシア人の日本への渡航、技術、教育、ヴァルガニア、ベルカディア。議論すればするほど、議題は増えていった。


 最後に、アルヴェリオは椅子に座ったまま言った。


「結論を出す」


 全員が、口を閉じた。


「第一に」


 王は、指を一本立てた。


「日本との暫定覚書を、王国政府として正式に承認する」


「はい」


「第二に」


 二本目。


「恒久的な外交関係を結ぶための協議を、続ける」


 アレシナが、顔を上げた。


「第三に」


 三本目。


「日本への視察使節を、準備する」


 セルディオが、立ち上がりかけた。


「座れ」


「まだ何も言っていません」


「お前は、分かりやすすぎる」


 王妃が笑った。


 ◇


「視察団の目的は、何といたしましょう」


 宰相が尋ねた。


「日本を見ることだ」


 アルヴェリオが答えた。


「軍隊を、ですか」


「違う」


「産業を?」


「それだけでもない」


 王は、少し考えた。


「国を、だ」


 全員が、続きを待った。


「八千三百万人が、どう暮らしているのか。どう食べ、どう働き、どう学び、どう病を治し、どうやって国を動かしているのか」


 かつてアルヴェリオは、日本の軍艦よりも、八千三百万人を支えられる国家の仕組みの方を恐れた。ならば、見に行くべきものも、そこにあった。


「軍人だけを送るな」


「はい」


「外交官だけでも駄目だ」


「では」


「医師」


「はい」


「商人」


「はい」


「魔術師」


「はい」


「学者」


「はい」


「農業を知る者」


「はい」


「船を知る者も」


「承知いたしました」


 セルディオが、手を挙げた。


「天文学者も」


 王は、息子を見た。


「……一人だけならな」


「父上!」


「うるさい」


 ◇


 そのとき、扉の外で足音がした。侍従が入ってくる。


「陛下」


「何だ」


「ベルカディア王冠政府より、優先の外交通信が届いております」


 今度は、部屋の空気が別の意味で変わった。


 アルヴェリオは紙を受け取り、一度読み、もう一度読んだ。


「何と?」


 ルヴェリオが尋ねた。王は、紙を机に置いた。


「日本との接触の成立を、祝うそうだ」


「それだけですか?」


「いや」


 アルヴェリオは続けた。


「ベルカディアも、日本政府との平和的な外交接触を希望している」


 財務官が、息を吐いた。


「やはり、来ましたか」


「そして」


 王は、わずかに笑った。


「勝手に行くのではなく、我々と事前に協議したいそうだ」


 アレシナも、少し笑った。


「ベルカディアらしいですね」


「分かっていたのか」


「来ると思っていました」


「なぜだ」


「商人の国ですよ」


 アレシナは言った。


「八千三百万人の市場を、放っておくはずがありません」


 ◇


 アルヴェリオは、日本との覚書と、ベルカディアからの文書を、二つ並べてみた。


 ついこの前まで、東の海には何もなかった。少なくとも、ヴァレシア人の世界地図の上では。


 だが今、そこには日本がある。そして日本が現れたことで、ベルカディアが動いた。ヴァルガニアも、いずれ動くだろう。他の国々も、海商も、魔術師も、学者も、王たちも──そして、この王国自身も。


「世界が」


 アルヴェリオが言った。


「狭くなったな」


 セルディオが、首を傾げた。


「日本が増えたのに?」


「そういう意味ではない」


「では、どういう──」


「遠かった国が、近くなったということよ」


 アレシナが、弟を見て言った。


「でも日本は、もともとありませんでしたよ」


「あなたって、本当に」


「何です?」


「いいわ」


 ◇


 夜。アレシナは、久しぶりに自分の部屋へ戻った。


 机、本棚、窓、そして壁に掛けられた亜大陸東部の地図。何もかもが、以前と同じだった。


 ただ、地図の右端──海しか描かれていなかった場所に、新しい紙片が貼られていた。日本側から提供された、日本の大まかな位置だ。王国の地図には、まだ正確な海岸線すら写し切れていない。


 アレシナは、そこを見つめながら、榊真綾の言葉を思い出していた。


 ──強い側に、相手を国ではないことにする権利があるとは、考えていません。


「なら」


 アレシナは、小さく呟いた。


「こちらも、同じことね」


 日本を、便利な武器庫にしてはいけない。万能の守護者にしても、奇跡を売る商人にしてもいけない。国として、付き合うのだ。


 言葉にすれば、簡単だった。だが、実際にそれをやり遂げるのは、たぶん、とても難しい。


 ◇


 同じ夜、国王の執務室。


 アルヴェリオは、覚書をもう一度読み返していた。最後の一文──恒久的な外交関係に向けて、協議を継続する。そこで、指が止まる。


 向かいに、王妃エレヴィナが座った。


「国交を、結ぶおつもり?」


「まだ決めていない」


「嘘」


「今日は、皆に嘘だと言われる日だな」


「三十年近く、あなたを見てきましたから」


 王は、苦笑した。


「結びたいとは、思っている」


「なら」


「だが」


 王は、窓の向こうの夜の王都──その東を見た。


「国交というのは」


 少しだけ、間を置く。


「巨大な国と、握手をすることではない」


「では、何なのです?」


「その手を」


 アルヴェリオは言った。


「明日も握れると、約束することだ」


 王妃は、しばらく夫を見つめていた。


「では」


「何だ」


「ちゃんと相手を見てから、約束しましょう」


「ああ」


 アルヴェリオは頷いた。


「そのために」


 彼は、机の上に置かれた視察団の案に目をやり、わずかに笑った。


「今度は、こちらが日本へ行く番だ」


 ◇


 ヴァレシア王国と日本国が正式に国交を樹立するまでには、まだいくつもの話し合いが必要だった。


 だがこの日、王都ヴァレシアスでは、一つの方向が定まった。


 日本に守ってもらうためではない。日本を利用するためでもない。日本を恐れて、閉じこもるためでもない。


 隣国として付き合うために──まずは、その国を見に行くことになったのだ。


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