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第17話:六つの仮説


 ヴァルガニア帝国の首都グラディオルには、海がない。


 巨大な河川はある。運河もある。何百隻もの河船が行き交い、穀物や石材、鉄、木材、そして人間を運んでいる。だが、水平線はない。潮の匂いもない。港町の人間が持っている、海の向こうへの感覚も薄い。


 だから、東の果ての港町で起きた出来事も、最初のうちは、グラディオルでは遠い海の噂にすぎなかった。


 ◇


「人口、八千三百万」


 皇帝レオグラード五世は言った。


「一桁、多くないか」


 ヴァルガニア帝国の帝都グラディオル、皇宮内の小会議室。午前八時四十分。


 机の上には、ヴァレシア方面から届いた報告書が並んでいた。


 第一報は、東方の海域に未知の船が出現したこと。第二報は、その船員との接触に成功したこと。第三報は、国号が「日本」、人口が八千三百万であること。そして第四報は、ヴァレシアの王女アレシナが、日本政府の代表と、友好と連絡に関する文書に署名したこと。


 しかもその日本は、別の世界から国土ごと現れた可能性がある、と主張しているという。


「私も、最初にそこを疑いました」


 宰相のセルヴァン・デオラスが答えた。五十七歳。官僚として、二十年以上にわたり帝国を支えてきた男である。


「八百三十万なら?」


「まだ大国ではありますが、理解はできます」


「八十三万なら?」


「より自然です」


「八千三百万では」


「ヴァレシアの全人口の、四十倍以上になります」


「我が帝国の、五倍を超える」


「はい」


 皇帝は、紙に目を落とした。


「それだけの人口が」


「はい」


「昨日まで、誰にも知られていなかった」


「報告を、文字通りに信じるならば」


「馬鹿な」


 その言い方は、静かだった。怒っているわけでも、笑っているわけでもない。ただ、成り立たない数字を見たときの、官僚の顔だった。


「翻訳の問題だろう」


 レオグラードは言った。


「可能性はあります」


 セルヴァンも、否定はしなかった。


「現地の言葉と日本語とで数詞の体系が異なっていれば、桁を取り違えることは十分に考えられます」


「それでいい」


 皇帝は、次の紙を手に取った。


「次だ」


 ◇


「帆なし」


 軍務総監のグラウス・ヴァルヘイン元帥が、報告を読み上げた。六十歳。帝国軍の最高実務責任者である。


「櫂もなし」


「はい」


「外輪もなし」


「はい」


「煙もなし」


「はい」


「百歩級」


「現地の報告では」


「乗員は、三十数名」


「同様です」


 グラウスは、鼻を鳴らした。


「ベルカディアだな」


 皇帝が顔を上げた。


「理由は」


「船だからです」


「雑だな」


「東海で、ヴァレシア人の知らない新型船を作れる国といえば」


 元帥は、指を一本立てた。


「ベルカディア」


 二本目。


「ヴァレシア自身の、秘密の計画」


 三本目。


「さらに東にある、未知の海洋国」


「日本という名の?」


「その可能性も含めてです」


「魔法を使っていない、とあるが」


 皇帝が言った。


「それについては」


 会議室の端で、宮廷魔術顧問のエルゼオ・カルディスが口を開いた。六十八歳。帝国でも最高位に数えられる魔術研究者である。


「誤認でしょう」


「断定するのか」


「ほぼ、断定します」


 皇帝の眉が、わずかに動いた。


「説明を」


 エルゼオは、報告書を開いた。


「百歩級の船体を、帆も櫂も使わずに推進する」


「そうだ」


「風と潮流に逆らって、停止する」


「そうある」


「内部の照明」


「ある」


「冷却」


「ある」


「自動で動く扉」


「ある」


「高速の小艇」


「ある」


「言語を解析する自動の機械」


「あるらしい」


 エルゼオは、紙を置いた。


「これらを魔力なしで実現することは、既知の自然理論では説明できません」


「ならば?」


「魔力を使っているのです」


 答えは、単純だった。


「ただし」


 老魔術師は続けた。


「我々の知る術式とは、異なるものでしょう」


「古代文明か?」


「可能性はあります」


「ベルカディアの新しい体系か」


「それも」


「魔力の隠蔽は?」


「それが、最も現実的です」


 レオグラードは頷いた。


 筋は通っている。少なくとも、帝国の中では、非常によく。


 ◇


 ただ一人だけ、何も言わない者がいた。


 帝国情報院長、リゼル・オルダン。四十六歳。平民の出身で、帝国中から集めた情報を疑い、分解し、比べ合わせて、その中から使えるものだけを残す仕事をしている。


「リゼル」


 皇帝が呼んだ。


「はい」


「反対か」


「何に対して、でしょう」


「全部だ」


「全部に反対しているわけではありません」


「では」


 リゼルは、資料に目をやった。


「八千三百万は、誤訳かもしれません」


「そうだろう」


「帆のない船は、ベルカディア製かもしれません」


「うむ」


「魔力を隠蔽している可能性もあります」


 エルゼオが頷いた。


「異世界という説明は、ヴァレシア側による外交上の演出かもしれません」


 グラウスが腕を組んだ。


「なら、問題はないではないか」


「はい」


 リゼルは答えた。


「一つずつであれば」


 会議室が、少しだけ静かになった。


 ◇


「一つずつ、とは?」


 セルヴァンが聞いた。


「はい」


 リゼルは、紙を並べ始めた。


「一枚目。八千三百万──誤訳」


「二枚目。帆のない船──ベルカディアの試作船」


「三枚目。魔力反応なし──高度な隠蔽術」


「四枚目。日本という未知の国──遠洋の国家」


「五枚目。別の世界から来た──ヴァレシアによる外交的な演出」


「六枚目。月へ行ける──宗教的な比喩か、誇張か、あるいは航海の伝説」


 そこまで並べてから、リゼルは皇帝を見た。


「陛下」


「何だ」


「一つの嘘を説明するために」


 彼は、指先で六枚の紙を示した。


「我々はもう、六つもの別々の仮説を必要としています」


 誰も、すぐには答えなかった。


 ◇


 最初に口を開いたのは、エルゼオだった。


「だからといって、荒唐無稽な説明を採用する理由にはならん」


「同意します」


 リゼルが言った。


「では」


「私は、“異世界”を信じているとは申し上げていません」


「なら、何が言いたい」


「説明できない部分を」


 情報院長は答えた。


「説明できたことにしない方がよい、と申し上げているのです」


 グラウスが笑った。


「情報屋らしい答えだ」


「軍人より長生きするためです」


「言うようになったな」


「元帥が長生きしておられるので、参考にしております」


 グラウスの口元が、少しだけ動いた。だが、皇帝は笑わなかった。


「結論を言え」


「日本という政治勢力が存在すること自体は、かなり高い確度で事実です」


 リゼルは答えた。


「根拠は」


「独立した情報源が、多すぎます」


 ◇


 帝国情報院が把握している情報源は、十二を超えていた。


 ヴァレシアに駐在する使節。帝国系の商人。リヴァーノに入港した商船。東海の漁師。ヴァレシア国内の街道を行く商人。ルメリア教の関係者。魔術師ギルドの関係者。ベルカディア系の商会の動き。そして、ヴァレシア王室の公文書。


「それらがすべて、同じ嘘をついている可能性は」


 皇帝が尋ねた。


「あります」


「あるのか」


「ヴァレシアとベルカディアが共同で、大規模な情報工作を行っている場合です」


「目的は」


「帝国に圧力をかけることでしょう」


「十分にあり得る」


 グラウスが言った。


「その場合」


 リゼルは続けた。


「彼らは、数千人規模の商人、漁師、船員、港湾労働者、聖職者に同じ虚偽を共有させ、存在しない船を見たことにさせ」


 一拍、間を置く。


「さらに、王女本人に公文書へ署名させたことになります」


「難しいか」


 セルヴァンが言った。


「不可能ではありません」


「またそれか」


「情報の仕事では、“不可能”と言うのを嫌いますので」


 皇帝が、初めて少しだけ笑った。


「お前は、便利な男だな」


「褒め言葉として、受け取っておきます」


 ◇


 その日の午後、新しい報告が届いた。


 それは、帝国の誤解を正すための情報ではなかった。むしろ、その逆だった。


 ◇


 リヴァーノの湾内。


 ヴァルガニア帝国情報院の協力者の男は、倉庫の二階から東の海を見ていた。表向きは鉱物商。だが実際には、十年以上にわたって帝国へ港湾の情報を流してきた男だ。


 望遠鏡の向こうには、白い「いわみ」が浮かんでいる。


 その姿にも、もう見慣れ始めていた。見慣れたといっても、理解したわけではない。ただ、何日も同じ場所に浮かんでいれば、人間は怪異にさえ慣れてしまうものだ。


 問題は、その朝、別の船がやって来たことだった。


「……帆?」


 男は、望遠鏡の焦点を合わせ直した。


 帆だった。間違いない。三本の帆柱に帆が張られ、船首が波を切っている。そして船体は、少なくとも外から見る限り、完全な木造の帆船だった。


 ◇


 日本籍の帆走実習船「あさなぎ」。


 四九九総トン、三檣バーケンティン型で、全長は六十メートル弱。二十四世紀の日本では珍しい船だ──というより、意図的に珍しく作られた船だった。


 主船体は、木でできている。外板も、骨格も、主要な甲板も木材だ。


 ただし、そこに使われている木材は、十六世紀の船大工が知っている木とは、同じ植物に由来するという点を除けば、かなり違う。


 細胞構造を調整した、高耐久の人工育林材。含水率を長期間安定させる処理に、菌類や虫害、腐朽への耐性加工。樹脂の含浸と積層。内部の応力を制御した曲げ材。接合部には耐食性の複合材が使われ、表面には火災対策の処理が施され、船底には海洋生物の付着を防ぐ透明な皮膜が張られている。


 それでも、木は木だった。


 日本が海洋文化を保存し、伝統的な造船技術を実際に教えるために、二十四世紀の技術を使って本気で木造帆船を作った──その結果が、この船なのである。


 帆索の操作は高度に自動化され、危険な索具の作業は補助機械が支援する。風向、船体の姿勢、帆にかかる荷重は常に計測され、操帆AIが最適な値を提案する。


 だが、帆は人が張るし、人の手で扱う。舵もある。帆走の実習船なのだから、帆で走らなければ意味がない。


 ◇


「日本の船か?」


 帝国の協力者は、船尾の旗を見た。白地に、赤い丸。「いわみ」と同じ旗だった。


「……帆船じゃないか」


 隣にいた港湾労働者が言った。


「そうだな」


「普通の、帆船だ」


「普通?」


「少なくとも、ちゃんと船の形をしてる」


 確かに、それは安心できる形だった。


 帆がある。風を受けて傾き、波に上下し、帆を縮め、索具が動く。港に入る前には、水先案内の艇と合流する。


 理解できるのだ。


 そのことがどれほど強い安心を生むのか、日本人自身は考えてもいなかった。


 ◇


「あさなぎ」がリヴァーノへ来た理由に、秘密など何もなかった。


 ヴァレシアとの暫定覚書が成立した後、日本側は、現地の港での航行、水先案内、帆走の慣習、海図の情報、救難の手順、そして現地の船員たちとの交流を始めることにした。


 いきなり巨大な動力船を何隻も入れるより、帆船の方が、互いに分かりやすいだろう──そう考えた。ただ、それだけのことだった。


 実際、この船はリヴァーノの船乗りたちに大人気だった。


「木だ!」


「木だな!」


「本当に木だぞ!」


 日本人からすれば、かなり失礼な喜ばれ方だった。


 ◇


 だが、ヴァルガニアの協力者にとって、この船の意味は違っていた。


 帆のない、巨大で、未知の動力を持つ、理解不能な白い船。その日本が、普通の木造帆船も持っているのだ。


「なるほど」


 男は呟いた。頭の中で、世界が少しだけ元に戻っていく。


「やっぱり、そういうことか」


 ◇


 その理解が崩れたのは、一時間後のことだった。


「東に、大型帆船!」


 監視塔の鐘が鳴り、港の人々が、また海に目を向けた。今度の船は、「あさなぎ」よりも遥かに大きかった。


 ◇


 四本の帆柱に、白い帆。黒に近い濃紺の船体。船首には、金色の装飾が施されている。


 そしてその船体は──鋼でできていた。


 ◇


「……ベルカディアの船か?」


 帝国の協力者の隣で、港湾労働者が呟いた。


「違う」


「なら、A国の?」


「違う」


「じゃあ──」


 船尾に、旗が見えた。白地に、赤い丸。


 二人とも、黙り込んだ。


 ◇


 日本国の大型帆走練習船、「海王丸七世」。


 二十世紀に建造された初代から、その名と役割を受け継いできた七代目の船である。


 大型の四檣バーク型で、鋼製の船体の全長は百二十メートルを超える。その帆装の面積は、リヴァーノの船乗りなら見上げただけで首を痛めるほど広い。


 船体の材料は、二十四世紀型の耐食高靱性鋼。索具の一部には高分子の複合繊維が使われている。帆は見た目こそ伝統的な帆に近いが、耐候性、形状の保持、荷重の分散性能のいずれをとっても、過去の帆布とは比べものにならない。


 船体の内部には、発電と蓄電の設備、自動消火装置、海水の淡水化装置、気象解析装置、医療設備、操帆の補助機構、船体の状態を監視するAI、そして港内で使う補助推進器まで、何もかもが備えられている。


 だが海の上では、風があるなら、普通に帆で走る。それが「海王丸七世」という船だった。


 ◇


 その日、リヴァーノ沖の風は良かった。だから「海王丸七世」は、ほぼ全帆に近い姿で現れた。


「……でかい」


 港のどこかで、誰かが言った。


 それは、「いわみ」を初めて見た日と同じ言葉だった。だが、その意味はまったく違っていた。


「いわみ」は、理解できないから怖い。「海王丸七世」は、理解できる形のまま大きいから怖いのだ。


 ◇


 ヴァレシア海軍の士官たちは、すぐに船乗りの目になった。


「四檣だ」


「鋼の船だぞ」


「大型だな」


「千トンか?」


「もっとある」


「砲門は?」


「見えない」


「商船か?」


「練習船だそうだ」


「……何だと?」


 日本側の連絡員が、困った顔で説明した。


「船員を育てるための船です」


 周囲が、黙り込んだ。


「これで?」


「はい」


「戦闘用ではないのか?」


「違います」


「貨物船でも?」


「主な目的は、違います」


「では、何のための船だ」


「教育です」


 ヴァレシア海軍の士官は、しばらく「海王丸七世」を見つめていた。


「日本人は」


 一拍、間を置いて、彼は言った。


「教育に、どれだけ金をかけているんだ」


 それは、かなり正しい疑問だった。


 ◇


 だが、ヴァルガニアの協力者が帝都へ送った報告では、その話は少し形を変えていた。


『日本、大型の鋼製帆船を保有』

『四檣、百歩超』

『武装は確認されず』

『用途は、自称“訓練”』

『同日、小型の木造帆船も入港』


 協力者は、最後に自分の分析を一文付け加えた。


『日本の船の体系は、帆走船を基盤とし、一部に特殊な動力船を併用するものと推定』


 その報告は、驚くほどの速さで、帝都へと向かっていった。


 ◇


「ほら見ろ」


 二日後、再び皇宮。グラウス元帥が言った。


「帆船を持っている」


 机の上には、新しい報告が置かれていた。四九九総トンの木造帆船と、大型の鋼製四檣帆船。どちらにも、日本の旗が掲げられていたという。


 皇帝レオグラードは、報告を二度読んだ。


「二隻とも、日本の船か?」


「はい」


「あの白い船と、同じ旗か」


「確認されています」


「ならば」


 皇帝は、少しだけ安堵した。本人は、そのことに気づいていなかった。


「やはり、ただの海洋国家ではないか」


 ◇


 セルヴァン宰相も、今回はかなり納得した顔をしていた。


「少なくとも」


「何だ」


「彼らの海運技術のすべてが、あの白い船のようなものではない、ということです」


「そうだ」


「木造の船まで保有している」


「そうだ」


「大型の船では、鋼材を使う」


「我々より優れた冶金技術を持っている可能性はある」


「しかし、帆走を利用している」


「つまり」


 皇帝が言った。


「世界の法則から外れた国ではない、ということだ」


 リゼルが、無言で皇帝を見た。


 ◇


 宮廷魔術顧問のエルゼオは、さらに強気になっていた。


「これで、説明がつきます」


「聞こう」


「日本には、通常の船があるのです」


 彼は、木造帆船の報告を指した。


「こちらは、一般の船」


 次に、鋼製帆船の報告を指す。


「こちらは、大型の遠洋船」


 そして最後に、「いわみ」の図を示した。


「そして、これは特殊な試験船」


「魔導の船か?」


「おそらく」


「しかし、魔力がないのだろう」


「隠蔽です」


「またそこへ戻るのか」


「陛下」


 エルゼオは、真剣だった。


「三種類の船が存在するのなら、なおさらです」


「どういうことだ」


「通常の船に帆を使っている国家が」


 彼は、「いわみ」の図を指した。


「この一隻だけ、まったく異なる原理を突然使っている」


「うむ」


「ならば、これは特殊な技術なのです」


 理屈は、通っていた。実に綺麗に。


 ◇


「軍事的には、むしろ安心材料です」


 グラウスも頷いた。リゼルが、顔を上げる。


「安心、ですか?」


「少しだけだ」


「理由は」


「あの白い船が、日本の船の標準ではない可能性が高い」


「帆船があるから、ですか?」


「そうだ」


「帝国陸軍にも、馬車がありますね」


 グラウスの眉が動いた。


「何が言いたい」


「だからといって」


 リゼルは答えた。


「帝国軍の最先端の輸送手段が馬車だとは、限りません」


 沈黙が落ちた。セルヴァンが、少しだけ笑いそうになる。


「院長」


 グラウスの声が、低くなった。


「日本の帆船と、帝国軍の馬車が同じだと?」


「同じだとは、申し上げていません」


「なら」


「古い方式を残していることは、新しい方式を持っていない証拠にはならない、と申し上げているのです」


 リゼルは、木造帆船の報告を指した。


「むしろ」


「何だ」


「四九九トンの木造船を、彼らがなぜわざわざ建造しているのか」


 誰も、答えなかった。


「大型の鋼製帆船を、なぜ“教育”に使っているのか」


「技術の過渡期なのだろう」


 エルゼオが言った。


「かもしれません」


「またそれか」


「はい」


 ◇


 リゼルには、一つ気になる部分があった。


「乗員の数は?」


 情報官が答えた。


「木造船については、二十名前後を確認しています。ただし、実習者を含む可能性があります」


「鋼製帆船は」


「百名を超える人影がありました」


「普通ではないか」


 グラウスが言った。


「船体の規模からすれば」


 リゼルは言った。


「ベルカディアの大型艦より、少ない可能性があります」


「帆を操る機構に、魔法を使っているのだろう」


 エルゼオが言った。


「魔力の反応は?」


「遠距離からの観測では、不明です」


「なら、分からん」


「はい」


 リゼルは、もう一枚の報告に目を落とした。


「海王丸、七世」


 彼は呟いた。


「七世?」


 セルヴァンが反応した。


「何だ」


「船の名前です」


「それが、どうした」


「“七世”とあります」


「七代目、ということだろう」


「船を、七代も」


「長い歴史があれば、珍しくはない」


「はい」


 それは、その通りだった。だからリゼルも、そこで話を止めた。情報が、足りない。


 ◇


 そして、その日の午後、もっと大きな情報が届いた。ベルカディアが動いたのだ。


「正式なものか?」


 皇帝が尋ねた。


「はい」


 セルヴァンが答えた。


「ベルカディア商王国政府が、ヴァレシアへ正式な文書を送付しました」


「内容は」


「日本国政府との外交接触を希望する、と」


 グラウスの顔色が変わった。


「速いな」


「ベルカディアですから」


「勝手に、リヴァーノへ船を送ったのか?」


「いいえ」


「では」


「ヴァレシア政府に、事前の協議を申し入れています」


 皇帝は、少し黙り込んだ。


「礼儀正しいな」


「非常に」


「気持ちが悪い」


「陛下」


「褒めているのだ」


 ◇


 問題は、そこだった。


 ベルカディアは、嘘の匂いに敏感な国である。金が動くからだ。そして海運国家でもある。船の噂を、ヴァルガニアよりも正確に評価できる。


 そのベルカディアが、日本との正式な接触を求めたのだ。


「ベルカディアは、日本の存在を事実と判断したということか?」


 皇帝が言った。


「少なくとも」


 リゼルが答えた。


「“存在しない可能性に賭けるのは危険だ”と判断したのでしょう」


「ヴァレシアの情報工作に乗った可能性は」


「あります」


「ベルカディア自身が関与している可能性は」


「あります」


「日本を利用して、我が国を牽制する可能性は」


「あります」


「では」


「ただ」


 また、その言葉だった。皇帝が、リゼルを見る。


「何だ」


「ベルカディアが関与しているのなら」


「うむ」


「なぜ日本の船は、ベルカディアの船ではないのでしょう」


 皇帝の指が、止まった。


 ◇


「船の形を隠しているのだ」


 グラウスが言った。


「では、旗は?」


「偽の旗だ」


「日本語は?」


「作られた言語だ」


「八千三百万は」


「誇張だ」


「王女との文書は」


「ヴァレシアとの共同工作だ」


「木造帆船は」


「偽装だ」


「大型の鋼製帆船は」


「同じことだ」


 リゼルは、静かに、六枚の紙をもう一度並べてみせた。


「増えましたね」


 グラウスの顔が、硬くなった。


「何がだ」


「仮説が、です」


 ◇


 皇帝レオグラード五世は、長いあいだ何も言わなかった。


 彼は、愚かな男ではない。三十一年にわたって帝国を治めてきた。二度の戦争、三度の大飢饉、王位継承の危機、地方の反乱、疫病、ベルカディアとの海上紛争、ヴァレシアへの外交圧力──あらゆる問題を、現実的に処理してきたのだ。


 その経験が、彼に一つの確信を与えていた。


 世界は複雑だ。だが、人間が動かしている以上、そこには必ず利害がある。国が動くのなら、その裏には金か、土地か、権力か、恐怖か、安全保障か──何かがあるはずだ。


「仮に、日本が」


 皇帝は言った。


「本当に八千三百万人の国家だとしよう」


 全員が、皇帝を見た。


「陛下?」


 セルヴァンが言った。


「仮定の話だ」


「はい」


「本当に、突然現れた」


「はい」


「本当に、ヴァレシアより遥かに強い」


「はい」


「ならば」


 皇帝は、指を組んだ。


「なぜ、ヴァレシアに従う」


「従ってはいません」


 リゼルが言った。


「港に入る許可を求めた」


「主権の尊重でしょう」


「軍事行動を控えた」


「同じことです」


「領土を要求しない」


「日本側の外交方針かと」


 皇帝は、そこに疑問を抱いた。


「そんな国があるか?」


 部屋が、静まり返った。


 ◇


 ヴァルガニアの常識では、強い国は、その強さを使うものだ。


 使い方の程度は違う。征服、条約、関税、港湾の権利、貢納、軍の通行権、婚姻、保護国化。だが、力があるのなら、その力は外交上の利益へと変換される。それが国家というものだった。


「八千三百万の人口」


 皇帝は言った。


「未知の技術を持つ白い船。巨大な鋼の帆船。それだけの力を持ちながら」


 彼は、机を指で叩いた。


「人口百九十万のヴァレシアに、“入ってもよろしいですか”と聞く」


「はい」


「何も欲しがらない」


「少なくとも、今のところは」


「それが」


 皇帝は、少し笑った。


「一番、信じがたい」


 ◇


 リゼルは、反論しなかった。


 実のところ、彼にも理解できなかったからだ。


 日本の制度。日本の倫理。国際法。主権の平等。植民地主義を経験した歴史。技術移転への警戒。そうしたものを、ヴァルガニアはまだ何も知らない。知らない以上、日本の行動は、ヴァルガニア自身の国家観で解釈するしかない。


 そして、その国家観の中では、強い国が何の見返りもなく小国の主権を尊重する、という説明の方が、異世界からの転移よりも、ある意味では理解しづらかったのだ。


 ◇


「裏がある」


 グラウスが言った。


「当然です」


 セルヴァンも同意した。


「ベルカディアか?」


 皇帝が言った。


「可能性はあります」


 グラウスが答える。


「ヴァレシアの王家か?」


「可能性はあります」


「東方にある、別の大国か?」


「可能性はあります」


「日本の内部に、複数の勢力がある可能性は?」


 そこで、リゼルが少し顔をしかめた。


「それは、あり得ます」


 皇帝が、リゼルを見た。


「ほう」


「八千三百万という人口が事実なら、単一の意思で動く集団とは考えにくいでしょう」


「王がいない、という話もあったな」


「はい」


「ならば」


 皇帝はようやく、自分に理解できる道を見つけた。


「日本を、動かしている者がいる」


 リゼルは、返事をしなかった。


 ◇


「情報院に命ずる」


 皇帝の声が変わった。全員が、姿勢を正す。


「日本という存在を、否定するな」


 リゼルの目が、わずかに動いた。


「はい」


「しかし、報告を文字通りに信じるな」


「はい」


「リヴァーノの帝国系商人を使え」


「すでに使っております」


「ヴァレシアに駐在する使節は」


「照会中です」


「ベルカディアの商会は」


「監視しています」


「船は」


「観測を継続しています」


「日本語は」


「資料の入手を試みます」


「日本人とは」


「接触いたしますか?」


 皇帝は、少し考えた。


「まだ早い」


「承知いたしました」


「まず」


 皇帝は、机に指を置いた。


「日本が何者なのかを──」


 そこで、一瞬、言葉が止まった。


「いや」


 皇帝は、言い直した。


「誰が日本を動かしているのかを、調べろ」


 リゼルだけが、ほんの少し、目を伏せた。


「承知いたしました」


 ◇


 次は、外交だった。セルヴァンが、文書の案を開いた。


「ヴァレシアへ、照会いたします」


「内容は」


「東方より来訪した勢力について、地域の安定という観点から、情報の共有を求める、と」


「柔らかいな」


「文面は」


「意味は」


「我々に隠すな、です」


「よろしい」


「日本との覚書についても、写しを要求します」


「当然だ」


「ベルカディアの使節派遣については」


「把握している、と伝えろ」


 セルヴァンが、少し止まった。


「牽制いたしますか」


「軽くな」


「どの程度で」


「ヴァレシアが」


 皇帝は言った。


「日本というものを得たからといって、既存の問題まで消えたと思わない程度にだ」


 グラウスが、頷いた。


 ◇


 それが、この日ヴァルガニアが犯した、二つ目の間違いだった。


 以前からヴァレシアに要求していた関税、帝国商人の権利、国境の砦、港湾の利用、通商の条件──それらを、撤回もしなければ、延期もしない。日本が現れたからといって、既存の問題は別だ、というわけである。


 国家としては、ごく普通の判断だった。弱みを見せない。新しい駒が盤上に出たからといって、急に態度を変えない。


 それは、これまでなら、正しい判断だったのだ。


 ◇


 会議が終わり、人々が退室していった。最後に残ったのは、皇帝と宰相、そしてリゼルだった。


「院長」


「はい」


「まだ、何かあるな」


 情報を隠している人間の顔を、レオグラードは三十一年間見てきた。リゼルは、少し迷った。


「陛下」


「言え」


「日本の木造帆船について」


「四九九トンの、あれか?」


「はい」


「それが、どうした」


「港の船大工が見学した、という報告があります」


「ほう」


「その感想が」


 リゼルは、紙に目を落とした。


「“木造船として理解できる。しかし、理解できる部分ほど異常だ”と」


 皇帝が、眉を寄せた。


「どういう意味だ」


「木材の継ぎ目が、少ない」


「技術が高いのだろう」


「腐朽が、ほとんどない」


「新造船だからだろう」


「金属部品に、錆がない」


「手入れがいいのだろう」


「索具の太さに対して、強度がおかしい」


「新しい素材だ」


「帆を扱う人数が、少なすぎる」


「魔法だ」


「魔力の反応は、確認されていません」


 少し、沈黙が落ちた。


「そして」


 リゼルは続けた。


「日本側は」


「何だ」


「この船を、“古い船の作り方を残すために、新しい技術で作った”と説明しているそうです」


 皇帝は数秒間、その意味を理解できなかった。


「古い船を」


「はい」


「新しい技術で」


「はい」


「なぜだ」


「文化の保存と、教育のためだそうです」


 セルヴァンが、小さく息を吐いた。


「また、教育か」


「はい」


 ◇


「鋼製の帆船の方は」


 皇帝が聞いた。


「海王丸七世ですね」


「それだ」


「日本側の説明では」


 リゼルは、紙を見た。


「伝統的な帆船の運航を学ぶための、大型の練習船だと」


「それだけか?」


「それだけです」


「軍艦ではない」


「違う、と」


「商船でもない」


「はい」


「大型の鋼船を」


「はい」


「わざわざ帆で走らせて」


「はい」


「若者を教育する」


「そうです」


 皇帝は、椅子の背に身体を預けた。


「日本人は、暇なのか?」


 セルヴァンが、初めて声を出して笑った。


 ◇


 リゼルだけは、笑わなかった。


「陛下」


「何だ」


「もし」


「また仮定か」


「はい」


「言え」


「彼らが本当に」


 リゼルは、少し言葉を選んだ。


「我々より遥か先の技術を持っているのだとしたら」


「うむ」


「木造帆船を作ることと」


 一拍、間を置いて。


「木造帆船しか作れないこととは、別のことです」


 そう、彼は言った。


 ◇


 皇帝は、しばらくリゼルを見つめていた。


「覚えておこう」


「ありがとうございます」


「だが」


「はい」


「私はまだ」


 机の上には、「あさなぎ」と「海王丸七世」と「いわみ」の報告が並んでいる。三種類の船、三種類の技術。そして、同じ旗。


「国が別の世界から落ちてきた、という話よりも」


 皇帝は言った。


「どこかに、普通の説明があると思っている」


 リゼルは頷いた。


「それで、よろしいと思います」


 皇帝は、少し意外そうな顔をした。


「止めないのか」


「止めません」


「なぜだ」


「私も、そう思いたいからです」


 そのとき初めて、リゼルが少しだけ笑った。


 ◇


 その夜、帝国情報院に、日本関連の情報を集めるための専用の卓が設けられた。


 分類名は、『東方未確認海上政治勢力』。その下に、括弧付きで『通称、日本』と記された。


 確度の評価は、次のようなものだった。


『存在──高』

『ヴァレシアとの接触──高』

『独自の旗──高』

『木造帆船──高』

『大型鋼製帆船──高』

『白色無帆船──高』

『人口八千三百万──中』

『魔法を使わない技術──低から中』

『国民の高い識字率──低から中』

『平均寿命百歳超──低』

『空を飛ぶ機械──低』

『月への到達──極低』

『異世界からの転移──判定不能』


 担当官は、最後に備考欄を書いた。


『複数の情報が、相互に矛盾』


 少し考えてから、彼はそれを書き直した。


『複数の情報は、一見、相互に矛盾するように見える』


 さらにその下に、情報院長リゼル・オルダンが、自らの筆で一文を書き加えた。


『矛盾しているのは情報ではなく、我々の前提である可能性を、排除するな』


 ◇


 だが、その警告は、帝国の中を上へと進むにつれて、少しずつ薄められていった。


 情報院では──『未知の高度技術国家である可能性を排除できない』。


 宰相府では──『東方に、新たな海洋政治勢力が出現』。


 軍務府では──『ヴァレシアおよびベルカディアと関係を持つ、新興の海洋勢力』。


 地方の軍司令部では──『東方の新興国、日本』。


 そして、ある貴族の夕食会では──「ベルカディアが、どこかの島国を連れてきたらしい」。


 そこまで、縮んでしまった。


 ◇


 同じ夜、リヴァーノ沖。


「海王丸七世」は、夜風の中で静かに錨を下ろしていた。帆は畳まれている。甲板では、日本の実習生たちとヴァレシアの若い船員たちが、索具の名前を互いの言葉で教え合っていた。


「これは?」


「シート」


「シート?」


「帆脚索」


「何だって?」


「……翻訳機」


 笑い声が起こった。


 少し離れたところでは、「あさなぎ」の木造の船体が、波に揺られて小さく軋んでいる。そのさらに沖には、白い「いわみ」が浮かんでいた。


 同じ国旗を掲げた、三隻の船。木造の帆船、鋼製の帆船、そして動力の巡視船。


 それを見ていたリヴァーノの人々は、少しずつ理解し始めていた。


 日本は、一隻の船ではない。一つの技術でもない。一つの時代でもない。


 ──巨大な社会、そのものなのだ。


 ◇


 だが、何百里も離れたグラディオルでは、同じ三隻の存在が、まったく逆の結論を生んでいた。


 木造帆船がある。ならば、理解できる。鋼製帆船がある。ならば、高度な海洋国家だ。白い船がある。ならば、特殊な試作船なのだろう。


 八千三百万は、誇張だ。月へ行くというのは、神話だ。異世界というのは、外交上の演出だ。


 そして、ヴァレシアがその日本と手を結んだのなら、そこには誰かの意図があるはずだ──と。


 それは、愚かな判断ではなかった。この世界でこれまで生き抜いてきた国家なら、むしろ当然の判断だった。


 ◇


 問題は、今回に限って、最も単純な答えが、一番あり得ない答えだったことだ。


 日本は、本当に日本だった。八千三百万人は、本当に八千三百万人だった。白い船は、本当に魔法で動いてはいなかった。木造の帆船も、本当に二十四世紀の船だった。「海王丸七世」も、本当にただの練習船だった。


 そして、日本を裏から操っているベルカディアも、ヴァレシアも、古代文明も、秘密結社も──どこにも存在しなかった。


 ◇


 その夜、皇帝レオグラード五世は、最後の報告書に、自ら一行を書き加えた。


『日本の背後関係を、最優先で確認せよ』


 それが、帝国の対日政策における、最初の正式な命令となった。


 そして後世の歴史家たちは、この一文を何度も引用することになる。


 ヴァルガニア帝国が日本を軽視した証拠として、ではない。むしろ──日本を理解しようとして、あまりにも真面目に間違えた、最初の瞬間として。


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