球心力エネルギー
第九話 球心力エネルギー
「まず、重力を忘れろ」
カイトの言葉に、レイナは眉一つ動かさなかった。普通なら笑うところだろう。宇宙船の整備工房で、航法理論の話を始めようという男が、最初に現在の航法技術そのものを捨てろと言ったのだから。
だが、彼女は笑わなかった。
作業台に腰を預けたまま、カイトが指差した航路図を見る。宇宙の墓場を形作る無数の残骸。その間を縫って進む一本の航跡は、重力場を基準に引かれた航路とは明らかに違っていた。物体の大きさや質量だけでは説明できない小さな蛇行を繰り返しながら、それでも最短に近い線で中心部へ届いている。
「重力を忘れたら、船は何を基準に進むの?」
「位置だ」
レイナの目が少し細くなる。
「それでは答えになっていないわ」
「物がある位置には、理由がある。星も、衛星も、漂流物も、偶然そこへ浮かんでるわけじゃない」
カイトは航路図の表示を縮小した。墓場の全景が小さくなり、その外側に惑星、恒星、さらに遠方の天体が現れる。大小の球が、距離を置いて宇宙に散らばっている。
「子供の頃、夜空を見ていて不思議だった。どうして星は丸いのか。どうして月も丸いのか。水滴も、泡も、広がる波も、最後は中心を持つ。なのに、その理由を全部、重力で片づけるのはおかしいと思った」
「重力があるから丸くなる。教科書ならそう答えるわね」
「だから教科書を疑った、重力があるから丸くなるんじゃない、丸くなるから、重力があるんだ」
レイナの口元がわずかに動いた。呆れたのではない。気に入ったらしい。
カイトは宙に浮かぶ天体群の一つへ触れた。球体の周囲に細い輪が生まれ、隣の球へ向かって広がっていく。
「一つの球は、それだけで中心を持つ。中心を持てば、外側との間に偏りが生まれる。球が二つあれば、その偏りが干渉する。三つなら、さらに複雑になる。宇宙では、その干渉が無数に重なっている」
「それを球心力と呼んでいる?」
「ああ。物体を引っ張る力じゃない。球になろうとする力だ、そして球と球もまた、まとまろうとする。存在するものは、全て球になろうとする。それが運命だ」
レイナは腕を組んだまま航路図を見ていた。重力と呼ばれてきた現象を否定しているのではない。その一段下に、別の構造があると言っている。結果を原因として扱ってきたのではないか。カイトの理論は、そこへ刃を入れていた。
「でも、球でない物体も宇宙にはあるわ」
「ある。だが、どんな形でも中心はできる。というかな、全ての物体は分解すると最終的には球だ、球の集まりとして考えれば計算が出来る、大きな球、小さな球、宇宙に広がる全ての球、ミクロからマクロまでな」
カイトは墓場の残骸群を拡大した。破断した船体、裂けた外板、折れた構造材。それぞれに小さな点が現れ、複雑な線で結ばれていく。
「壊れた船にも、質量の偏りと中心がある。周囲の物体と干渉すれば、その位置は絶えず変わる。重力場だけで計算すると、大きな質量しか見えない。だが球心力なら、小さな偏りも航路へ入れられる」
NOVAが黙って右手を上げた。
航路図の脇に、二つの数値表が現れる。従来の重力場演算と、球心力を組み込んだ演算。墓場へ近づくにつれ、前者の予測誤差は雪崩のように増えていた。対して後者は、中心部へ入ってもわずかな幅に収まっている。
「重力場航法では、十三分後に許容誤差を超えたわ。球心力航法へ切り替えなければ、アークは最初の残骸群で右舷を失っていた」
「外板は壊れないぞ」
「では、残骸群の方が粉々になり、推進器へ破片が詰まっていたでしょうね。結果はあまり上品ではないわ」
レイナは数値表へ近づき、誤差の推移を追った。途中から彼女の目つきが変わった。整備士が故障箇所を探す目ではない。数式の向こうにある構造を、頭の中で組み直している。
「この補正値、随分細かいわね。どこから拾ったの?」
「アークの観測装置よ」
NOVAが答えた。
「まず球の存在を把握する、それが計算の第一段階、そして距離、密度、形状、回転、周囲との位置関係。観測できる情報をすべて球心力モデルへ流し込んだ。最初は私も疑ったけれど、計算結果が黙らせてくれたわ」
「AIを黙らせるとは、大したものね」
「今も口数は多い」
カイトが言うと、NOVAは宙で足を組み替えた。
「理論が正しくても、開発者の人格までは補正できなかったの」
レイナは聞き流した。視線はすでに航路図からメビウスリングコイルへ移っている。
「航法に使えることは分かった。でも、どうしてこれでエネルギーを取り出せるの?」
カイトはコイルの前へ立ち、帯状の導体を指先でなぞった。
「球心力は中心へ収束するこの世で一番強い力だ、その流れを、そのまま受ければ押し潰されるだけだ。だから途中で裏返す、いわゆる普通の反重力と呼ばれるものに近い、だがその出力は桁違いだぞ」
「メビウス構造でそんな事が?」
「ああ、一周では元へ戻らない。表と裏を二周でつなぐことで、収束する流れを反転させる。戻ろうとする力を、外へ逃がすんだ」
「理屈としては分かる。でも、それだけではエネルギーにならない」
「だから位相をずらしてある」
カイトはコイルの三か所に付いた小さな端子を示した。等間隔ではない。二つは近く、一つだけ離れている。
「球心力は一定じゃない。大きさや周囲の球の位置で揺らぐ。その揺らぎへ合わせて、反転する位置を変える。完全に打ち消さず、わざと差を残す。その差が出力になる」
レイナの指が端子へ伸びかけ、触れる直前で止まった。
「その制御を、これだけの部品で?」
「今はな」
「今は?」
「もっと効率は上がる」
レイナはとうとう笑った。
「あなた、完成した物を見せている顔じゃないわね」
「完成したと思った時点で、次の間違いが見えなくなる」
それは格好をつけた言葉ではなかった。カイトにとっては、ごく当たり前の手順なのだろう。長年考え、作り、壊し、また考えた人間だけが持つ、終わりを信用しない目をしていた。⸻レイナはしばらくコイルを見つめたあと、工具箱から絶縁手袋を取り出した。
「話は分かったわ」
「それだけか?」
「十分よ。続きは手を動かしながら考える」
レイナは作業台の端末を閉じると、途中まで剥がしていた配線の束へ戻った。球心力が正しいかどうかを、口先だけで論じる気はないらしい。自分で触り、自分で測り、自分の目で結果を見る。そういう女だった。
カイトも工具を手に取ろうとしたが、レイナが手のひらを向けた。
「あなたたちは、今日から船内立入禁止」
「なんでだ」
「邪魔だから」
「俺の船だぞ」
「今は私の工事現場よ」
レイナは有無を言わせず、カイトをハッチの外へ押し出した。その後ろからカノンが出され、最後にNOVAのホログラムまで船外へ追いやられる。
重いハッチが閉まり、内側からロック音が響いた。
「……閉め出されたぞ」
「正確には排除されたのよ」
NOVAは閉じたハッチの前へ浮かび、腕を組んだ。
「所有者が自分の船から排除される。新しい権利関係の誕生ね」
「笑い事じゃない」
「わたくしは好都合ですわ」
カノンが嬉しそうに振り返った。
「せっかく港へ来たのですもの。まだ見ていない場所がたくさんありますわ」
嫌な予感がした。その予感は、三十分後には確信へ変わった。
最初に連れて行かれたのは衣料店だった。カノンは並んだ服を片端から手に取り、鏡の前で合わせては首を傾げた。
「これは地味ですわね」
「船で着るんだろ、それに昨日も買ったよな」
「宇宙船だからこそ華やかさが必要なのですわ。景色が暗いのですから」
次に連れて行かれたのは菓子店だった。
「この店の焼き菓子を全部一つずつ」
「全部?」
「比較しなければ、どれが一番か分かりませんでしょう?」
「一番だけ買え」
「その一番を決めるために全部必要なのですわ」
NOVAはカイトの横へ浮かび、山のように積まれていく箱を眺めた。
「科学的ね」
「どこがだ」
「目的のために全種類を検証する。あなたの研究方法と同じよ」
反論できなかった。
その後も家具店、雑貨店、香料店、食器店と引き回された。カノンは何かを見るたびに「船内に必要ですわ」と言ったが、その大半はカイトの知る宇宙航行には必要のないものだった。
金色の縁取りがされたティーカップ。花の形をした照明。三人掛けの長椅子。用途不明の大きな鏡。
「その鏡はどこへ置く」
「わたくしの部屋ですわ」
「壁がなくなるぞ」
「鏡が壁になりますわ」
「ならない」
日が暮れる頃には、カイトの両手は荷物で塞がり、肩からも袋がぶら下がっていた。NOVAは重量を持てないため、空中で楽しそうについてくるだけだった。
「便利だな、おまえは」
「ええ。文明とは、重い物を持つ側と、それを眺める側に分かれることよ」
「いつか持てる体を作ってやる」
「その前に、あなたが荷物で潰れそうね」
ホテルへ戻っても、翌日にはまた別の通りへ連れて行かれた。
三日目になると、カイトは店の看板を見るだけで疲れるようになった。
四日目には、カノンが「少しだけ見たい店がありますの」と言った時点で無言になった。
五日目の昼、港の広場にある長椅子へ腰を下ろしたカイトは、両手に食料品の袋を抱えたまま空を見上げていた。
「宇宙の墓場の方が楽だったな」
「残骸は値段交渉をしないものね」
NOVAが隣へ降り、座るふりをした。
「それに、撃っても文句を言わない」
「誰を撃つつもりですの?」
少し離れた店からカノンが顔を出した。両手には、また新しい包みを抱えている。
「誰でもない」
「でしたら、次はこちらですわ。船内に飾る絵を選びますの」
カイトが立ち上がるより早く、端末が鳴った。
表示された名前はレイナだった。
『完成よ』
その二文字が、遭難船へ届いた救難信号に見えた。
「帰るぞ」
「まだ絵が」
「帰る」
「一枚だけですわ」
「帰る」
カイトは荷物を抱え直し、工房へ向かって歩き出した。カノンは不満そうに頬を膨らませたが、置いて行かれると分かると慌てて後を追った。
工房へ着くと、アークは以前と同じ姿で停まっていた。傷一つ付かない外装は変わらず、外から見ただけでは五日間の工事があったとは思えない。
レイナがハッチの前で待っていた。
「遅かったわね」
「五日間、街中を引き回されてたんだぞ」
「楽しそうで何より」
「どの顔を見てそう思った」
レイナは答えず、ハッチを開いた。
船内へ入ったカイトは、最初の一歩で立ち止まった。
別の船になっていた。
むき出しだった配線はすべて壁の中へ収まり、薄暗かった通路には柔らかな照明が灯っている。床は水平に張り直され、歩くたびに鳴っていた軋みもない。操縦席へ続く区画は無駄なく整理され、古い機器と新しい設備が一つの船として違和感なく組み合わされていた。
居住区には小さな調理設備と食事用のテーブルが置かれ、その奥には独立した寝室が並んでいる。
カイトは壁面を指でなぞった。つなぎ目が分からない。元からそこにあったような仕上がりだった。
「やるじゃないか」
「当然よ」
レイナは短く答えたが、口元にはわずかな笑みがあった。
カノンは自分の部屋へ駆け込み、すぐに歓声を上げた。
「素晴らしいですわ!」
部屋には、注文していたものとは別に、淡い光を放つ間接照明が組み込まれていた。狭い空間を広く見せるよう壁面が整えられ、収納も無駄なく収まっている。
「分かっていらっしゃいますわね、レイナ」
「注文書の半分は捨てたけどね」
「なぜですの!」
「全部入れたら、あなたが寝る場所がなくなるから」
「鏡は?」
「壁に埋め込んだわ」
カノンは鏡を見つけ、すぐに機嫌を直した。
NOVAは船内を滑るように移動し、新しく設置された投影装置を確認している。壁際へ近づくと姿が途切れることもなく、通路の奥まで滑らかについてきた。
「投影範囲が船内全域に広がっているわ」
「廃棄されていた中継器を直したの。これで壁に頭をぶつけることもないでしょう」
「私はぶつからないわ」
「この前、隔壁から上半身だけ出してカノンを驚かせていたでしょう」
「あれは演出よ」
カイトは操縦席へ座り、表示された計器を一通り確かめた。操作系統は以前の配置を残しながら、必要な情報だけが見やすくまとめられている。勝手に変えられることを警戒していたが、カイトの癖まで読んで組み直したような配置だった。
文句の付けようがない。
「完璧だ」
カイトがそう言うと、レイナは満足そうに腕を組んだ。
「では、さっそく次の航海の話をしましょう」
「次?」
「今度はどこへ行くの?」
カイトは彼女の言葉に引っかかりを覚えたが、先に船内をもう一度見回した。
その時、居住区の奥に見慣れない扉があることに気づいた。
カノンの部屋ではない。
自分の寝室でもない。
倉庫でも、機械室でもない。
扉の横には小さな金属板が取り付けられ、そこに一つの名前が刻まれていた。
REINA
カイトは扉を指差した。
「おい、なんだこれは?」
レイナは不思議そうに扉を見た。
「え、私の部屋だけど?」
「なんでおまえの部屋がある」
「必要だからよ」
「何に必要なんだ」
「航海に決まってるでしょう」
カイトはしばらく黙った。
「おまえ、乗る気か?」
「そのつもりだけど?」
「聞いてないぞ」
「今、言ったわ」
レイナは自分の部屋の扉を開けた。中には寝台と作業机があり、工具を収納する棚まで備え付けられている。明らかに、思いつきで作った部屋ではない。
最初から乗り込むつもりだったのだ。
NOVAが扉の上へ腰を下ろし、楽しそうに足を組んだ。
「おめでとう、カイト。改装を頼んだら整備士まで付いてきたわ」
「注文してない」
「返品は受け付けてないわよ」
レイナが即答した。
カノンも部屋から顔を出す。
「わたくしの隣ではありませんわよね?」
「隣よ」
「なぜ勝手に決めましたの!」
「今さら?」
レイナは部屋から工具箱を取り出し、当然のように通路へ置いた。
「それで、次はどこへ行く?」
カイトは完成した船内と、すでに自分の部屋を確保した女を見比べた。
アークは広くなったはずだった。
だが、乗る人間が増えれば、結局狭くなるらしい。




