皇女の買い物
第八話 皇女の買い物
アークをレイナの工房へ預けた夜、カイトたちは貿易港の中央区にあるホテルへ入った。ホテルといっても、長距離船の乗組員が一晩身体を休めるための場所で、入口には油と金属の匂いをまとった男たちが絶えず出入りし、壁際の端末には出港便と入港便の情報が流れ続けていた。
受付の前で、カイトは二部屋を取った。
「なぜ二部屋ですの?」
「俺とお前で一つずつだ」
「それなら結構ですわ」
カノンは一度うなずいたあと、すぐに眉を寄せた。
「NOVAの部屋がありませんけれど」
カイトの肩越しに浮かんでいたNOVAが、受付台の上へ腰掛けるような姿勢を取った。
「私は壁を通れるから、部屋という考え方と相性が悪いの」
受付係の目が、NOVAからカイトへ移った。何か聞きたそうだったが、この港では事情を聞かない方が長生きできるらしい。鍵だけを差し出し、何も言わなかった。
部屋へ入ったカノンは、最初に寝台を調べ、次に浴室を調べ、最後に鏡の前へ立った。大きすぎる作業着を着た自分の姿をしばらく見つめたあと、袖口をつまみ上げる。
「明日は服を買いますわ」
隣の部屋へ入ろうとしていたカイトは、扉の前で振り返った。
「アークの修理代は払ったぞ」
「だから服を買うのです」
「話がつながってない」
「修理代を払っても、お金は残っているのでしょう?」
「よく見てたな」
「皇女は国家予算を扱う立場ですもの」
「今の国家予算は俺の残高か」
カノンは鏡の中の自分へ視線を戻した。
「少なくとも、現在のわたくしの衣装費はそこから出ますわ」
カイトは何も答えず、扉を閉めた。
翌朝、目を覚ましたカイトが食堂へ降りると、カノンはすでに朝食を終えかけていた。昨日までなら食器の形や料理の味へ何かしら文句をつけていたが、今朝は黙って窓の外を見ている。
中央区の大通りには、荷物を積んだ無人車両が列を作り、その上を配送ドローンが飛び交っていた。建物の壁には立体広告が浮かび、通行人の顔を読み取って商品を勧めている。
「珍しいか?」
カイトが向かいへ座ると、カノンは視線を動かさないまま答えた。
「雑然としていますわね」
「聞いたのは街の感想じゃない」
「帝都にも、これくらいの技術はありました」
その直後、窓の外を巨大な魚の立体広告が泳いでいった。カノンの肩がわずかに動く。
NOVAが窓際へ浮かび、魚の尾を目で追った。
「帝都では広告まで泳いでいたの?」
「導入予定でしたの」
「便利ね。二百年前の予定を、まだ現役で使えるなんて」
カノンは黙って飲み物へ口をつけた。
食事を終えた三人が外へ出ると、街はすでに動き始めていた。通りの両側には船舶部品店、飲食店、衣料品店、宿泊施設が並び、頭上を渡る連絡通路には旅行者や船員が行き交っている。
カノンは、なるべく平然と歩こうとしていた。だが視線だけは隠せない。無人車両が脇を抜ければ振り返り、床を滑る清掃機に足元を空け、通行人の前へ現れた広告を自分への挨拶だと思って立ち止まる。
「さっきから何をしてる」
「街の様子を視察しています」
「広告に道を譲るのが?」
「礼儀を知らない広告でしたわ」
カイトはそれ以上追及しなかった。
衣料品店へ入った瞬間、カノンの歩みが止まった。
広い店内には、数え切れないほどの服が並んでいた。棚へ畳まれた普段着、壁面へ浮かぶ外出着、船内作業用の軽装、防寒服、礼装。中央の立体端末は入店者の体格を読み取り、似合いそうな衣装を次々と表示している。
「多すぎますわ」
「選べるだろ」
「選択肢が多ければよいというものではありません」
「昨日まで一着だったぞ」
カノンは自分の作業着を見下ろし、言い返すのをやめた。
店員が近づいてきた。カノンの服装を見て一瞬戸惑ったものの、すぐ営業用の笑顔へ戻る。
「ご旅行ですか?」
「似たようなものだ」
「長い旅でしたわ」
二人の答えを聞き、店員は納得したようにうなずいた。
「では、お二人でこれからこちらへ?」
「違う」「違いますわ」
見事に重なった返事に、店員が目を丸くする。
「ご家族では?」
「違う」「その可能性はありません」
「それでは、ご婚約者でしょうか」
カイトはすぐに否定したが、カノンは一拍遅れた。
「……違いますわ」
NOVAがカノンの横へ降り、その顔を覗き込む。
「ずいぶん長い演算だったわね」
「質問の意味を確認していただけです!」
店員は聞かなかったことにして、カノンを試着区画へ案内した。
最初に出てきたカノンは、動きやすい細身の服を着ていた。作業着より身体に合い、色も落ち着いている。カイトが一度見て「それでいい」と言うと、カノンは鏡の中の自分から目を離さずに答えた。
「あなたが最初に選んだという一点だけで、少し不安ですわ」
「俺は選んでない。終わらせようとしてる」
「買い物を作業のように扱わないでくださる?」
「作業より時間がかかるな」
カノンは店員から別の服を受け取り、再び試着区画へ消えた。
次に現れた時には、袖と襟に控えめな装飾が入り、腰の線が美しく見える上品な服を着ていた。歩き方まで少し変わっている。
「こちらの方が、わたくしらしいですわね」
「動きにくそうだ」
「美しさは効率で測るものではありません」
「船なら落ちるぞ」
「わたくしは船ではありませんわ」
NOVAがカノンの周囲をゆっくり一周した。
「似合っているわ。ただ、アークの床へ潜る時には邪魔ね」
「なぜ、わたくしが床へ潜る前提なのです?」
「カイトといれば、昨日まで前提でなかったことが次々に起こるからよ」
ホノグラムがニンマリと笑った。
それは否定しにくかったらしく、カノンは鏡へ向き直った。
服選びは、カイトが予想したより長く続いた。普段着は動きやすさを優先し、外出着はカノンの好みを通し、防寒用の上着も一着加えた。靴は三足になった。
箱が積み上がるのを見て、カイトの眉が少しずつ険しくなる。
「足は一組だぞ」
「歩く場所が違います」
「船の中と外だろ」
「皇女の生活を二種類で済ませないでくださる?」
「今は船とホテルしかない」
「これから増やせばよろしいでしょう」
「誰が」
「船主が」
自分を指されたカイトは、そこで会話を打ち切った。
会計の段階になり、カノンは値札を見ても高いのか安いのか判断できないことに気づいた。前日まで、墓場から持ち帰った部品が船一隻分の値段で売れることすら理解できなかったのだ。今の通貨に慣れていない以上、自分の感覚で選ぶしかない。
「これは高価な品ですの?」
店員は答えに困り、カイトを見た。
「普通だ」
「こちらは?」
「少し高い」
「では、こちらは?」
「かなり高い」
カノンは静かにカイトを睨んだ。
「説明する気がありませんわね」
「金額は表示されてる」
「その価値が分かりません」
「飯が何回食えるかで考えろ」
カノンは少し考え、手にしていた服を棚へ戻した。
「それでは、これは食事三百回分ですの?」
「だいたいな」
「布に?」
「だから戻したんだろ」
カノンは別の服を手に取り、今度は値札を確かめてからうなずいた。
その様子を見ていたNOVAが、カイトの肩越しに囁く。
「皇女が予算を覚えたわ」
「覚えたのは飯の回数だ」
「国家も最後は同じよ」
会計を済ませたあと、カノンは買った服へ着替えた。大きすぎる作業着から解放されただけで、表情まで少し明るくなっている。店を出たところで、彼女は当然のように箱をカイトへ差し出した。
「持て」
「皇女へ荷物を持たせるおつもりですの?」
「今は自分で買った客だ」
「支払ったのはあなたです」
「なら俺の服だな」
カノンは箱を抱きしめるように引き戻した。
「何をおっしゃいますの!」
「自分で持てるじゃねえか」
カイトは二箱だけ受け取り、残りはカノンへ持たせた。カノンは不満そうだったが、今度は手放さなかった。
そのあとカイトは二人と別れ、レイナに頼まれた接続端子を探すため工具店へ向かった。店内には船舶用部品が種類ごとに並び、壁面の端末には材質と規格、耐熱温度、使用可能な電圧が表示されている。
指定された端子を探しながら、カイトは昨日のレイナを思い出した。
メビウスリングコイルへ触れた時、彼女はすぐに分かったふりをしなかった。分からないからこそ配線を追い、形を確かめ、NOVAの航路記録まで見てから、初めて球心力の話を求めた。技術者を名乗る人間は多い。だが大抵は、自分の知識にないものを間違いと呼ぶ。
だがレイナは違った。
間違いかどうか判断するために、まず理解しようとした。
カイトは指定された端子を手に取り、側面の規格表示を確認した。
「珍しい奴だな」
近くにいた店員が顔を上げる。
「その端子ですか?」
「いや」
「では、どの商品でしょう」
「商品じゃない」
店員は一瞬考えたあと、深く聞かないことにした。
夕方、三人が工房へ戻ると、アークの改装はすでに始まっていた。船内から外された仮設配線が床へ並べられ、墓場から運んできた同型艦の環境制御装置が作業台へ載せられている。居住区には新しい骨組みが組まれ、カノンの個室になる区画の輪郭も見え始めていた。
「少し狭くありませんこと?」
カノンが骨組みの内側へ立ち、両手を広げた。
作業員の一人が工具を止める。
「レイナの指示だ。寝台と収納は入る」
「皇女の部屋としては?」
「その質問は見積もりに入ってない」
カノンが不満そうに骨組みを見上げている間に、カイトは操縦席へ向かった。
レイナは床へ片膝をつき、配線図と実際の接続を見比べていた。頬には細い油汚れが走り、赤茶色の髪も何本かほどけている。だが目だけは昨日より冴えていた。
カイトが端子の箱を置くと、レイナは中身を確認した。
「頼んだ物ね。意外と早かったわね」
「店は近い」
「そうじゃない。そっち」
レイナの視線が、カイトの後ろへ向いた。
新しい服を着たカノンが、両手に箱を抱えて工房を歩いている。作業員たちが振り返るたび、本人は気づかないふりをして姿勢を正していた。
「長かったぞ」
「でしょうね」
レイナは端子を一つ取り出し、古い配線へ合わせた。寸法を確認したあと、工具を置く。
「これで今日の仕事は終わり?」
「お前の仕事はな」
「あなたの仕事も残ってるわよ」
レイナはメビウスリングコイルを覆っていた保護板を外し、その前へ椅子を一つ置いた。
「三割分」
「改装は始まってる」
「だから逃げられない」
「船を人質にするのか」
「船医には、患者を預かる権利があるの」
カイトは椅子を見たが、すぐには座らなかった。
その横へNOVAが浮かび、昨日の航路図を小さく展開する。
「観念した方がいいわ。彼女、あなたが戻るまでコイルの周りを三周していたもの」
レイナがNOVAを睨む。
「数えてたの?」
「暇だったから」
「AIなら仕事をしなさい」
「あなたの観察も仕事のうちよ」
カイトは仕方なく椅子へ腰を下ろした。
レイナも作業台へ寄りかかり、腕を組む。軽口を交わしていた時とは違い、その目には余計なものがなかった。
「それで」
レイナはメビウスリングコイルへ視線を落とす。
「球心力は、どこから始まったの?」
カイトはすぐに答えなかった。
子供の頃、夜空を見上げながら考え続けたもの。丸い星、丸い月、丸く広がる波。すべての形が中心を持ち、互いに干渉しながら、見えない均衡を作っている。長い話になる。
そう言う代わりに、カイトはNOVAが浮かべた航路図へ指を伸ばした。
「まず、重力を忘れろ」
レイナの口元が、わずかに上がった。
「三割じゃ足りない話になりそうね」
工房の外では、貿易港の灯りが一つずつ点き始めていた。
アークの改装は、まだ始まったばかりだった。
だがその夜、レイナが本当に開こうとしていたのは、船の内部ではなかった。
カイトが子供の頃から閉じ込めてきた、宇宙の見方そのものだった。




