新しい乗組員
第十話 新しい乗組員
「それで、次はどこへ行く?」
レイナは自分の工具箱を通路へ置くと、まるで前回の航海からずっと乗組員だったような顔で尋ねた。
カイトは、扉に取り付けられた『REINA』の金属板をもう一度見た。見間違いではない。室内には寝台も作業机もあり、壁の工具棚には、すでに使い込まれた測定器まで収まっている。
「次の行き先を聞く前に、一つ確認させろ。いつから俺の船は、整備を頼むと整備士の部屋まで増築される契約になった?」
「契約書を作らなかったあなたが悪いのよ。書いていない条件は、現場で一番合理的な人間が決めるものだから」
「その合理的な人間ってのは、もちろん自分のことなんだろうな」
「他に候補がいるなら紹介して。工具を持てないホログラムと、工具を持つ人間を呼ぶ側のお姫様しか見当たらないけど」
自室から顔を出したカノンが、金色の縁取りが入ったティーカップを胸元へ引き寄せた。
「わたくしを整備士の候補に含めること自体、無礼ですわ。工具というものは、必要な者に持たせるために存在するのでしょう?」
NOVAが通路の天井近くへ浮かび、横向きに寝そべるような姿勢で三人を見下ろした。
「見事な分業ね。レイナが直し、カノンが命じ、カイトが支払う。私は失敗した時に原因を説明する役を引き受けるわ」
「ずいぶん安全な場所を取ったな。おまえだけ損をしない仕組みじゃないか」
「AIは学習するものよ。あなたと付き合って、危険な作業には近づかず、責任者の近くにはもっと近づかないことを覚えたの」
「責任者は俺だぞ」
「だから離れているのよ」
レイナは二人のやり取りを聞き流し、自分の部屋から小さな端末を持ち出した。
「部屋については、もう完成しているから議論しても床面積は戻らないわ。それより出航準備を始めましょう。五日も改装に使ったんだから、そろそろこの船が宇宙船だったことを思い出させてあげないと」
「五日も俺たちを締め出しておいて、勝手に乗り込んだ本人が急かすのか。普通なら、せめて一度くらい許可を取るものじゃないのか」
「許可を求めて断られたら面倒でしょう?」
「断られる前提だったのか」
「自分の性格くらい把握しなさい」
カイトは言い返しかけたが、レイナの顔には冗談を言っている様子がない。本当に手続きの省略だと思っているらしい。
NOVAがカイトの肩越しから、レイナの部屋を覗き込んだ。
「諦めた方がいいわ。彼女は部屋を作った時点で交渉を終えているもの。あなたは今、すでに終わった会議へ参加しているのよ」
「会議があったことすら知らん」
「欠席者には議事録も配られないのね。効率的な組織だわ」
カイトは深く息を吐き、操縦席へ向かった。
改装された通路は静かだった。以前は歩くたびに床板が軋み、どこかで配線が壁へ当たる音がしていたが、今は船内全体が一つの機械として落ち着いている。操縦席へ腰を下ろすと、計器類が順番に起動し、深い青色の光が視界へ広がった。
配置は変わっている。だが、操縦桿へ手を伸ばした時、以前より近く、自然な位置にあることが分かった。よく使う操作系統は指の届く場所へまとめられ、滅多に使わないものは誤操作しないよう奥へ移されている。
背後からレイナが覗き込んだ。
「どう? 人の仕事に細かく文句を言うのが趣味の船主さんにも、さすがに一つくらい褒めるところがあるでしょう」
「悪くない。俺の癖まで勝手に読んで配置を変えた点を除けば、ほとんど完璧だ」
「癖を読まなければ、あなたは一生、不便な配置を『慣れているから』という理由で使い続けるでしょう。整備士の仕事は、機械だけじゃなく持ち主の悪習も直すことよ」
「頼んだ覚えはないぞ」
「悪習は本人が頼まないから悪習なの」
レイナは当然のように隣の席へ腰を下ろした。椅子の高さも背もたれの角度も、彼女の身体へぴたりと合っている。
カイトは黙ってその椅子を見た。
「何?」
「そこも自分用に作ったのか」
「整備主任席よ。航行中に船の状態を見る人間が、通路へ立ったままという方がおかしいでしょう」
「誰が整備主任に任命した。俺は部屋どころか役職まで発注した覚えはないぞ」
「ほかに船内機構を理解して、工具を使えて、異常が出た時に逃げずに触れる人間がいるなら、今すぐ席を譲るわ」
カイトは後ろを見た。
カノンはティーカップを磨いている。NOVAは工具を持てない。消去法というには、最初から選択肢が一つしかなかった。
NOVAが操縦席の前へ降り、投影された髪を指先で払った。
「無投票当選ね。民主主義としては寂しいけれど、この船の人材事情としては正直な結果だわ」
「おまえは船内機構を全部理解してるだろ」
「理解と労働は別物よ。私は異常箇所を特定し、あなたたちへ的確な指示を出せるわ」
「つまり、自分は手を汚さずに済むと」
「ホログラムに油汚れを期待するなんて、ずいぶん詩的な発想ね。代わりに、あなたが間違えた瞬間は誰より早く記録してあげる」
「いらん」
「もう保存してあるわ」
カイトが振り返ると、NOVAは涼しい顔で出航前点検の画面を開いた。
「船体気密、正常。主推進器、正常。姿勢制御用メビウスリングコイル、待機状態。居住区画、異常二十八件」
後部からカノンの声が飛んできた。
「わたくしの部屋を異常扱いするのはおやめなさい!」
「部屋ではなく、固定されていない食器が二十七点。それから、壁一面を占拠している鏡が一件よ」
カノンがティーカップを抱えたまま操縦席へ現れた。
「食器は生活の潤いですわ。鏡は身だしなみ。どちらも宇宙航行に欠かせない必需品でしょう?」
レイナはカノンの手元のカップを指差した。
「加速した瞬間、それは生活の潤いから高速飛翔物へ昇格するわ。顔に刺さってから身だしなみを整えるつもりなら止めないけど」
カノンは手の中のカップを見下ろした。
「……固定具というものを付けてくださいませ」
「追加作業ね。請求書へ入れておくわ」
「わたくしは乗客ですのよ。乗客から整備費を取る船がどこにありますの?」
「自分の部屋へ二十七個も飛翔物を持ち込む乗客がいる船なら、ここにあるわ」
NOVAが感心したように頷いた。
「商談成立ね。カノンが要求を増やし、レイナが請求を増やす。カイトは船を所有しているという満足感だけ受け取れるわ」
「満足感で腹が膨れるなら、俺はとっくにこの船を三隻持ってる」
「三隻あれば借金も三倍ね。夢が広がるわ」
「広がってるのは穴だ」
レイナが席を立った。
「出航は十分待って。食器を全部固定してくる」
「今すぐ出ることはできないのか」
「できるわよ。金色のティーポットを後頭部に受けても、船長として威厳を保てる自信があるなら」
「十分待つ」
カイトの判断は早かった。
「賢明ね。あなたに残された数少ない長所の一つだわ」
「数えてたのか」
「今、一つ見つかったところよ」
十分後、レイナが操縦席へ戻ってきた。
「終わったわ。食器は全部固定したし、棚にも加速時のロックを付けた」
「鏡はどうした」
「壁そのものにしたから飛ばないわ。カノンの主張が、技術的には一番厄介な形で実現したわね」
「当然ですわ。わたくしの希望は、最終的には現実になるものですの」
NOVAがカノンの部屋を透かすように視線を向けた。
「現実の方が折れたのね。気の毒に」
カイトは深く考えることをやめ、港湾管制へ出航許可を送った。間もなく指定航路が表示され、アークの周囲から整備用アームがゆっくりと離れていく。
船体の底から、低い振動が伝わった。
ブオッ、と巨大な生き物が眠りの中で息を吐いたような音が船内を満たす。主メビウスリングコイルと、姿勢を支える小型リングコイルが順番に起動し、出力が上がるにつれて低い唸りは少しずつ細くなっていった。
やがて、ほとんど聞こえない静寂へ収束する。
レイナが計器へ顔を寄せた。
「出力が上がっているのに、振動は逆に消えていく。普通の推進器なら、ここから船体全体が悲鳴を上げ始めるところよ」
「力が暴れてる間は音が出る。全部が同じ中心へ揃えば、喧嘩する相手がいなくなるんだ」
NOVAが演算結果を宙へ表示した。
「カイト語を標準語へ翻訳すると、各コイルの位相が収束し、船体へ伝わる振動が相殺されているという意味ね」
「最初からそう言えばいいだろ」
「あなたが?」
「おまえがだ」
「私は今、言ったわ。説明を短くすると文句を言い、正確にすると長いと言う。人間の注文は、カノンの買い物より複雑ね」
カノンが後部座席へ腰を下ろしながら眉を上げた。
「わたくしの買い物は明確ですわ。良いものを、必要なだけ買う。それだけですもの」
「必要の意味だけが、宇宙の膨張より速く広がっているわ」
カイトは操縦桿を握り、係留装置がすべて外れたことを確認した。
アークの船体が音もなく浮き上がった。改装工房の床から少しずつ離れ、丸みを帯びた長方形の巨体が、見えない腕に持ち上げられるように上昇していく。
カノンが窓へ身を乗り出した。
「浮きましたわ! 以前よりずっと静かではありませんこと?」
「走るな。まだ低速でも、急に姿勢を変えれば壁へ飛ぶぞ」
「船内は安全になったと聞きましたわ」
「安全になった。おまえが余計なことをしなければな」
「安全装置が利用者へ責任を押しつけるのは、設計として不親切ですわね」
レイナが肩をすくめた。
「あなたを完全に安全にする装置を作るなら、部屋の扉を外からロックするのが一番早いわ」
「それは安全装置ではなく監禁ですわ!」
「結果は同じよ」
NOVAが航路図を開いた。
「さて、船体も乗組員も、本人たちの了承はともかく一応そろったわ。目的地を入力して、ようやく宇宙船らしい仕事を始めましょう」
レイナとカノンの視線がカイトへ集まった。
「それで、どこへ行くの?」
レイナに尋ねられ、カイトは港の外へ続く指定航路を確認した。
「決めてない」
レイナの手が止まった。
「今、何て言ったの?」
「船を直すのが先だったんだ。飛べもしない船で行き先だけ決めても、歩いて行く羽目になるだろ」
「五日もあったでしょう。目的地を一つ決めるくらい、買い物の合間でもできたはずよ」
「その五日間、俺は港中を荷物置き場として連れ回されてた。地図を見る余裕があるなら、菓子箱の底を見ていたよ」
カノンが胸を張った。
「有意義な五日間でしたわ。必要なものはほとんど揃いましたもの」
「必要なものが揃った結果、俺の口座から必要な金が消えた」
NOVAが航路図の前で腕を組んだ。
「安心したわ。船体、推進器、居住区、整備主任まで揃って、最後に不足していたのが船長の計画性だっただけね」
「順番が逆なだけだ。船を手に入れてから、行ける場所を決める。それの何が悪い」
「靴を買ってから人生を決める人の理屈ね」
「裸足で人生を決めるよりましだ」
「少なくとも、方向くらいは決めてから歩くものよ」
その時、航路図の片隅で小さな赤い光が点滅した。
NOVAの表情から笑みが消えた。
「待って。救難信号を受信したわ」
軽口が止まった。
カイトはすぐに表示を拡大した。
「位置は?」
「ここから普通の船で約2日、この船なら5時間。外縁航路のさらに外側ね。発信元は中型貨物船。ただし、識別番号の後半が欠けているわ」
レイナが信号の波形を確認する。
「通信装置の故障かもしれない。救難信号そのものもかなり弱ってるわね」
「違う」
NOVAが指先を動かすと、波形の下に埋もれていた不規則なノイズが拡大された。
「信号が壊れているんじゃない。別の通信を重ねて、識別情報だけ意図的に潰している。救助を呼びたい誰かと、呼ばせたくない誰かが同じ船にいるみたいね」
カノンが身を乗り出した。
「つまり、罠の可能性があるということですの?」
「ええ。あるいは、本当に助けを求めている船を、罠として利用している」
カイトは航路図を見た。
正規航路から外れた宙域。警備船の巡回も少なく、まともな貨物船なら理由もなく入り込む場所ではない。
レイナがカイトへ視線を向ける。
「どうするの、船長? 目的地がなかったところへ、ずいぶん感じの悪い招待状が届いたけれど」
カイトは操縦桿を握り、港外へ向けていた船首を赤い信号へ合わせた。
「ちょうどいい。行き先が決まった」
「罠かもしれないわよ」
「だったら、仕掛けた奴に目的を聞けばいい。まともに答えないなら、答えたくなるまで船を壊す」
レイナは一瞬だけカイトを見たあと、口元を上げた。
「なるほど。船より先に相手を修理するタイプなのね」
NOVAの顔にも薄い笑みが戻った。
「ようやく船長席に人が座ったわ。少し物騒だけど、空席よりはましね」
「最初から座ってる」
「椅子の話ではないわ」
カイトが出力レバーを押し込んだ。
メビウスリングコイルが低く唸り、すぐに一つの静けさへ収束する。
完成したばかりのアークは、勝手に増えた整備主任と、船を屋敷だと思っている姫と、口数を減らす機能だけ未実装のAIを乗せ、正体不明の救難信号へ向かって加速した。




