救難信号
第十一話 救難信号
赤い救難信号は、正規航路から外れた暗い宙域で点滅を続けていた。アークは港の灯りを背に、低い唸りを残しながら加速する。メビウスリングコイルの出力が安定すると音はすぐに細くなり、船内には計器の作動音と、カノンがティーカップを受け皿へ置く音だけが残った。
「本当に静かですのね。これなら航海中でも、落ち着いてお茶を楽しめますわ」
カイトは正面の航路図から目を離さなかった。
「その優雅さのために、出航が十分遅れたことは忘れるなよ」
「十分で安全と優雅さの両方が手に入ったのですから、安いものでしょう?」
「払ったのは俺だ」
「でしたら、あなたも少し優雅になればよろしいですわ」
NOVAが操縦席の横へ浮かび、油の染みたカイトの作業着を眺めた。
『無理を言わないの。工具箱を枕に眠れる人へ優雅さを求めるのは、貨物コンテナに社交性を期待するようなものよ』
「貨物コンテナは余計なことを言わない。おまえよりずっと付き合いやすい」
『会話が成立しない相手を好むのね。あなたの人間関係が狭い理由を一つ解明できたわ』
レイナは二人を聞き流し、救難信号の波形を拡大していた。識別番号の後半だけが、周期的なノイズに潰されている。
「故障じゃないわね。救助は呼びたい。でも船名は知られたくない。誰かが、そういう信号に作り替えてる」
「救助船を選んでるのか?」
「あるいは、まともな船を遠ざけている」
カノンがカップを持ち上げた。
「では、なぜわたくしたちは近づいていますの?」
NOVAが即答した。
『まともな運送会社でも警備船でもないからよ』
「分類が雑だぞ」
『精度は高いわ』
カイトは反論をやめ、信号までの距離を確認した。
「あと一時間四十分。武器の状態は?」
レイナが尋ねる。
「近距離用の粒子砲が二門。採掘用レーザーを照準器につないだものが一基。あとは推進器を向ければ、大抵の船は嫌がる」
『最後のは武器じゃないわ』
「相手が嫌がれば武器だ」
『その基準なら、カノンの買い物も兵器になるわね』
「五日間拘束された。長期戦用だ」
「わたくしの買い物を軍事作戦へ分類しないでくださる?」
NOVAが購入品の一覧を宙へ出した。
『衣類は補給物資、菓子は兵站、香料は化学物質、食器は投射物、大型鏡は反射装甲。十分に軍事転用できるわ』
「鏡でどう戦いますの?」
『相手が自分の顔を見て戦意を失えば』
「相手に失礼ですわ!」
「怒るところはそこか」
救難信号が消えた。
軽口が止まる。
数秒後、赤い光が再び点滅した。今度は間隔が短い。
『自動送信じゃない。誰かが手で打ってるわ』
NOVAが符号を分解し、短い文章へ変えた。
『侵入者あり。操舵不能。船倉封鎖』
「賊に襲われていますの?」
『そう主張している者がいる、というだけね。送信者が元の乗員とは限らないわ』
カイトは進路を正規航路からさらに外へ向けた。
「船を見れば分かる」
『見た瞬間に撃たれる可能性もあるわよ』
「撃ってくるなら、話が早い」
レイナが顔をしかめた。
「普通は遅くなるのよ。船体に穴が開くから」
「この船には開かない」
「相手の船には開くでしょう」
「それなら、なおさら早い」
NOVAが静かに頷いた。
『撃たれた場合に限る、と最初に付ければ、かなり文明的に聞こえるわ』
残り三十分を切った頃、前方の星が黒いガス雲に飲み込まれた。塵と帯電粒子が広がり、通常のセンサーなら精度が半分以下へ落ちる宙域だ。
「嫌な場所を選んだものね」
レイナが周辺図を睨む。
「通常航法なら、入るだけでも命懸けよ」
「通常ならな」
カイトが球心力航法へ切り替えると、黒い雲の中に無数の中心点が浮かび上がった。塵の塊、岩片、漂流物。それぞれの位置と偏りが線で結ばれ、見えない流れを作っている。
『球心力航法へ移行。周辺物体の位置変化を追跡するわ』
NOVAが船首側へ滑った。
「こんな場所へ自分から入る船は普通ではないけれど」
「救難信号が中にある」
「外から助けられれば楽なのにね」
「楽ができるなら、最初からスクラップ船なんか拾ってない」
「そこは自慢するところではなく、反省するところよ」
アークは速度を落とさず、ガス雲へ入った。星明かりが消え、窓の外には濃淡の違う黒だけが広がる。帯電粒子が外板へ触れ、青白い火花となって流れた。
「趣味の良い景色ではありませんわね」
カノンが声を落とす。
「部屋へ戻って鏡を見れば、景色は改善するわ」
「こんな時まで言いますの?」
「こんな時だからよ。不安を消せなくても、話題くらいは変えられるもの」
前方センサーに大きな影が現れた。中型貨物船。船体後部は損傷し、推進器も止まっている。船首の警告灯だけが、暗闇の中で赤く瞬いていた。
『目標船を確認。船籍照合不能。登録番号は削り取られているわ』
NOVAが船体を走査する。
『形は貨物船だけど、船倉の内壁が厚すぎる。普通の荷物を運ぶ船ではないわね』
「待って。反対側にもう一隻いる」
レイナが表示を切り替えると、貨物船の陰から黒い小型船が現れた。識別灯なし。船首に外付け砲塔が二門。
「海賊船ですの?」
「見た目だけで決めるな」
カイトはそう言ったが、すでに粒子砲を待機状態へ入れていた。
小型船から通信が入る。
《接近中の船へ告ぐ。この宙域は救助作業中だ。直ちに離脱しろ》
声は機械処理されていた。
NOVAが通信を解析する。
『救助船を名乗っているのに、登録情報は送ってこない。ずいぶん秘密主義な慈善団体ね』
カイトが通信を開いた。
「こちらアーク。救難信号を受信した。船内の状況を確認させろ」
《必要ない。負傷者はすでに収容した。離脱しろ》
レイナが生命反応を表示した。
「貨物船に十七人、小型船に六人。誰も移動してないわ」
「しかも船倉から、まだ手動の救難信号が出ている」
NOVAが貨物船の中心を指した。
カイトは通信を切らずに続ける。
「負傷者は貨物船に残ってるぞ」
相手の声が低くなった。
《余計なことへ首を突っ込むな。この船が何を運んでいるかも知らないだろう》
「知らないから見に来た」
《警告はした》
「俺も今からする」
黒い船の砲塔が動いた。
「照準を合わせてる!」
レイナが叫ぶ。
カイトは避けなかった。
NOVAが横目で見る。
「相手の良心を測る方法が雑すぎない?」
「撃つかどうか見てる」
「撃たれてから分かる仕組みなのね」
二本の光線が闇を裂き、アークの船首へ命中した。船内に軽い振動が伝わる。それだけだった。
「攻撃を確認。外板温度、二度上昇」
NOVAが損傷表示を開く。
「以上よ」
カノンが目を見開いた。
「今、撃たれましたわよね?」
『相手には気の毒だけど、撃ったつもりらしいわ』
レイナが表示を閉じる。
NOVAが通信を返した。
「こちらアーク。貴重な試射データをありがとう。残念ながら、攻撃としては未完成ね」
『何だ、その船は……』
カイトが右舷砲塔へ照準を合わせた。
「次はこっちの番だ」
「船ごと壊さないで。中の六人から話を聞く必要があるわ」
レイナが釘を刺す。
「砲塔だけならいいか」
「許可を求めるふりをしながら、もう照準を合わせてるでしょう」
「さっき撃たれた」
「文明的な条件は満たしたわね」
NOVAが脆弱部を表示する。
『右舷砲塔基部。出力二十二パーセントなら、船体損傷は最小限よ』
カイトが引き金を引いた。粒子線が砲塔の根元を貫き、小さな爆発とともに砲身が船体から離れていく。
『貴様ら、何者だ!』
カイトは残った左舷砲塔へ照準を移した。
「ただの救助船だ。そっちの砲塔も救助が必要か?」
通信の向こうで言葉が止まった。
『説得力のある自己紹介ね。少し武装が多いけれど』
NOVAが薄く笑った。
その時、貨物船から短い音声が届いた。
『助けてくれ。船倉に子供たちがいる』
カノンの表情が変わった。
カイトが生命反応を拡大する。船倉にいる十七人のうち、十二人は身体が小さい。
「人身売買か」
レイナの声が低くなった。
黒い小型船が急旋回し、推進器の出力を上げた。
『敵船、離脱行動』
NOVAが警告する。
「逃がすな」
カイトは操縦桿を倒した。
「貨物船の救助は?」
「接舷準備をしろ。カノンは船内に残れ」
「わたくしも行きますわ」
カノンが立ち上がる。
「危険だぞ」
「船倉で待っているのが子供なら、わたくしだけ安全な部屋でお茶を飲んでいるわけにはまいりません」
カイトは彼女を見た。わがまま姫の顔ではなかった。
NOVAが二人の間へ降りる。
「連れていきましょう。怯えた子供へ最初に見せる顔としては、少なくともカイトより適任よ』
「俺の顔がどうした」
「救助より取り立てに見えるわ」
「それには同意する」
レイナが工具ベルトを締めた。
カイトが言い返す前に、逃走船が加速した。
「先にあっちだ」
出力レバーを押し込む。アークのメビウスリングコイルが一度だけ低く唸り、黒い船との距離を一気に縮めた。
『逃走船まで四十秒。向こうは全力、こちらは巡航出力よ』
NOVAが追跡軌道を表示する。
レイナが計器を見て眉を上げた。
「改装前より速くなってる?」
「余計な配線と壊れた設備を外したからな」
「今までゴミを積んで飛んでいたの?」
「思い出だ」
『処分を先延ばしにしたゴミを、人間はそう呼ぶのね』
黒い船の後部ハッチが開いた。
複数の小型物体が放出される。
「機雷! ?」
レイナが叫ぶ。
カイトは速度を落とさなかった。
「ちょうどいい」
「何が?」
「改装した姿勢制御を試す」
「完成後の初航海で、機雷原を試験場に選ぶつもり?」
「今使わなきゃ、いつ使う」
NOVAが静かにレイナを見る。
『整備主任、返品はまだ間に合うかしら?』
レイナは迫る機雷群を見つめ、口元を上げた。
「残念。もう部屋を作ったあとよ」
姿勢制御用の小型メビウスリングコイルが一斉に起動した。低い唸りが重なり、すぐに一つの静けさへ収束する。
機雷群が迫る。
カイトは操縦桿を握り直した。
「じゃあ、性能試験といこうか」




